影のプリンセスと水泳部の秘密
岩鳶高校水泳部のマネージャー、松岡りおは、密かに部長の七瀬遥に想いを寄せていた。しかし、遥の目には幼なじみの橘真琴しか映っていない。
ある日、りおは部室で信じられない光景を目撃してしまう。遥が真琴にキスをしていたのだ。打ちのめされるりお。そんな彼女の動揺した姿を、後輩の葉月渚が見つけてしまう。渚は以前からりおに好意を抱いていた。
「先輩、どうして俺じゃダメなんですか?」と迫る渚に、りおは混乱する。さらに、実は渚を狙っていた竜ヶ崎怜も現れ、部室は大混乱に陥る。
止まらない四角関係。嫉妬に駆られ、すれ違う想い。誰もが告白する勇気を持てず、それでも誰かを欲してしまう。りおの小さな恋心は、やがて水泳部全体を巻き込む、胸が張り裂けそうな嵐へと変わっていくのだった。
影のプリンセスと水泳部の秘密 - 部室で泣くマネージャー
放課後の校舎は、潮風の匂いがした。
岩鳶高校水泳部の部室は、体育館棟の一番端っこにある。約12畳のその部屋は、スチールロッカーが6台並んでいて、壁には古いホワイトボード。窓からは屋外プールが見えた。今は誰も泳いでいなくて、水面が夕日にキラキラ光っているだけだ。
松岡りおは一人で、モップをかけていた。
小柄な体に、水色のジャージが少し大きく見える。肩より少し長い黒髪は、後ろで一つに束ねてあった。掃除のたびに、首筋の右側にある小さな泣きぼくろが、束ねた髪の隙間からちらりと覗く。
「……これでよし、と」
言いながら、モップをバケツに戻す。部室には自分の息遣いだけが響いていた。
部員は5名。マネージャーは自分一人。
(ギリギリなんだよね、うちの部)
岩鳶高校の部活動規定では、部員が5名未満になると「同好会」に降格する。そうなれば学校からの予算は半減だ。インターハイ県予選まで、あと一ヶ月しかない。この小さな部活が、存続の危機と戦いながら、それでも全国を目指している。
誰もいないのを確認してから、りおは一番奥のロッカーに近づいた。
部長の七瀬遥のロッカー。
そっと指を伸ばして、冷たいスチールの表面に触れる。
ドキドキと心臓がうるさい。誰もいないのに、悪いことをしている気分だった。
「……先輩」
声が震える。
中学3年の夏、兄の凛に連れられて見に行った競泳の試合。そこで見た遥の横顔を、りおは今でもはっきり覚えている。水だけを見つめる澄んだ目。無駄なものが何もない、まっすぐな泳ぎ。あの瞬間、心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなった。
好きだ、と思った。
それからずっと、この気持ちを誰にも言えずにいる。
「推薦、蹴っちゃったんだよね」
姉妹校の推薦入学の話があった。でも、りおはそれを断って岩鳶高校を選んだ。遥がいるから、というだけの理由で。
(バカみたい)
りおは苦笑いした。
その時、ロッカーの隙間から何かがふわりと落ちた。
青いタオルだった。
拾い上げると、端っこに刺繍が入っている。Haruka。
「……遥先輩の」
指で、その文字をなぞった。一文字ずつ、ゆっくりと。
水だけを見つめるあの目が、もしも自分を見てくれたら。
そんなの、絶対に叶わない願いだってわかっている。遥の隣にはいつも橘真琴がいる。幼なじみで、誰よりも近くて。遥が水以外で心を開くのは、多分あの人だけだ。
りおの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
一度落ちると、もう止まらなかった。
静かに、声を殺して泣く。誰にも言えないこの恋心は、部室で一人泣くことでしか発散できない。
「……馬鹿みたい」
自分に言い聞かせるように呟く。
こんなことしても、何も変わらないのに。
それでも、泣かずにはいられなかった。
部室の外では、葉月渚が立ち尽くしていた。
練習着を忘れて取りに来ただけだった。なのに、扉の隙間から見えた光景に、足が動かなくなった。
先輩が、泣いている。
渚の大きな金色がかった茶色の目が、大きく見開かれた。明るい茶髪の天然パーマが、動くたびにぴょんぴょん跳ねる。身長165センチの渚は、いつもは水泳部のムードメーカーで、誰よりも明るく振る舞っている。
でも今は、その顔から表情が消えていた。
(りお先輩……)
入学式の日を思い出す。
桜が散って、校舎の影が長く伸びる夕方だった。渚は教室を間違えて、たまたま体育館棟に迷い込んだ。そして、この部室の前を通りかかった時、中からすすり泣く声が聞こえた。
こっそり覗いたら、そこにいたのは、一人で泣いている女の子だった。
肩より少し長い黒髪。大きな焦げ茶色の瞳から、涙がぽろぽろこぼれていて。
「やばっ」って思った。
一目惚れだった。
それから渚は、彼女を泣かせないために明るく振る舞うようになった。ムードメーカーを演じて、部の空気を和ませて。全部、りおに見てほしかったから。
でも。
(先輩が好きなのは、遥先輩なんだ)
さっきの独白で、はっきりわかってしまった。
りおがロッカーに触れて、泣いて。その涙は全部、遥に向けられたものだ。
胸がキリキリ痛む。
(俺じゃ、ダメなのかな)
そう思ったけど、それは違うってこともわかっている。気持ちは、好きになれって言われて好きになれるものじゃない。
渚は拳を握りしめた。
いつもはキラキラ輝いている瞳が、今はどんより曇っている。好奇心旺盛な性格の裏で、本当は誰よりも周りの空気を読んでいる。自分の居場所を確保するために、明るく振る舞ってきた。でも、本気で好きになった相手には、それが通じない。
(どうすればいいんだよ……)
部室の中で、りおが動く気配がした。
慌てて物陰に隠れる。
りおは涙を拭いて、小さな手鏡を取り出した。目元が赤くなっているのを確認して、うつむく。
「……笑わなきゃ」
鏡に向かって、口角を上げる。
一回、二回。
不自然じゃない笑顔を作る練習。
(上手く笑えてるかな)
何度か繰り返して、それからりおは一つ息を吐いた。
もう、いつものマネージャーの顔になっている。
「よし」
小さく呟いて、りおは部室を出て行った。プールサイドへ向かう背中は、もうまっすぐだった。
渚は一人、部室に残った。
窓から差し込む夕日が、空っぽの部屋をオレンジ色に染めている。誰もいない空間に、さっきまでのりおの涙がまだ残っている気がした。
遥のロッカーに近づく。
りおがさっきまで触れていた場所だ。
(先輩の手の感触、まだ残ってるのかな)
そんなわけないのに、そう考えてしまう。
渚は右手を伸ばして、そっとロッカーに触れた。冷たい。りおの温もりなんて、どこにもなかった。
「……俺」
声に出してみる。
誰に言うでもない言葉。
「どうすればいいんだろうな」
答えは誰もくれない。
渚は拳を握りしめた。いつもは好奇心でキラキラ輝いている目が、今は真剣な光を宿している。
(先輩が泣くのは、俺が嫌なんだ)
理由はわかっている。好きだからだ。
でも、その好きが叶わないことも、わかってしまった。
それでも。
「……諦めらんないよ、そんなの」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
部室に一人、渚は立ち尽くしていた。夕日がどんどん傾いて、影が長く伸びていく。プールサイドからは、部員たちの声が聞こえてくる。もうすぐ練習が始まる。いつものように、明るく振る舞わなきゃいけない。
でも、今だけは。
渚はもう一度、遥のロッカーを見つめた。
複雑な表情だった。嫉妬と、憧れと、諦めきれない気持ち。全部が混ざった目だった。
(次、どうするかなんてわかんないけど)
拳をぎゅっと握りしめる。
(でも、このままじゃ終われない)
窓の外では、夕日が海に沈もうとしていた。オレンジ色の光が、部室の中をゆっくりと満たしていく。
渚は深呼吸を一つして、それからいつもの明るい顔を作った。
「……よし」
練習着を手に取る。
扉を開けて、プールサイドへ向かう。
でも、その背中にはまだ、迷いの影が残っていた。
誰かを想う気持ちは、水の中みたいに静かで、でも深くて。一度沈んだら、簡単には浮かび上がれない。
りおの小さな恋は、まだ誰にも気づかれないまま。
でも、水面の下で、確かに波紋を広げ始めていた。