影のプリンセスと水泳部の秘密
岩鳶高校水泳部のマネージャー、松岡りおは、密かに部長の七瀬遥に想いを寄せていた。しかし、遥の目には幼なじみの橘真琴しか映っていない。
ある日、りおは部室で信じられない光景を目撃してしまう。遥が真琴にキスをしていたのだ。打ちのめされるりお。そんな彼女の動揺した姿を、後輩の葉月渚が見つけてしまう。渚は以前からりおに好意を抱いていた。
「先輩、どうして俺じゃダメなんですか?」と迫る渚に、りおは混乱する。さらに、実は渚を狙っていた竜ヶ崎怜も現れ、部室は大混乱に陥る。
止まらない四角関係。嫉妬に駆られ、すれ違う想い。誰もが告白する勇気を持てず、それでも誰かを欲してしまう。りおの小さな恋心は、やがて水泳部全体を巻き込む、胸が張り裂けそうな嵐へと変わっていくのだった。
影のプリンセスと水泳部の秘密 - 修羅場の部室 ― 全部ぶちまけた夜
金曜日の放課後。空はどんよりと曇っていて、窓の外の海は灰色に濁っている。風もなく、じめじめとした湿気が廊下にまで染み込んでいた。
松岡りおは、まるで鉛でも飲み込んだみたいに重い足を引きずりながら、体育館棟の廊下を歩いていた。掲示板には「インターハイ県予選まであと二週間」という文字。いつもなら胸が引き締まるその言葉が、今日は遠い世界の出来事みたいに感じる。
(返事、できなかった)
昨日の帰り道。汐見坂で渚が投げかけた言葉が、まだ耳の奥にはりついている。
真琴先輩のこと、どう思いますか。
あの優しい笑顔。遥のことをいつも気にかけていて、誰にでも平等に優しい人。自分が密かに嫉妬している相手。遥がキスをした、たった一人のひと。
どう思うかって、そんなの——言葉にできるわけがなかった。言えるはずがなかった。遥のことを好きだなんて、言えるわけがない。だから、結局何も言えずにうつむくことしかできなかった。
部室の前に立つ。ドアの向こうからは、誰かの話し声がかすかに聞こえる。まだ平穏な、練習前の音。
りおは指先で、無意識に髪の毛の先をくるくると巻いた。
「[whispers]……大丈夫です」
誰に言うでもなく、口癖がこぼれる。大丈夫じゃない時ほど、この言葉が出る。
深呼吸を一つ。それから、ドアを引いた。
中には、もう着替えを終えた遥と渚がいた。遥は窓際の壁にもたれて、青いタオルを肩にかけている。その透き通った青い目は、ぼんやりと窓の外のプールを見つめていた。相変わらず無表情で、何を考えているのかわからない。
渚はロッカーの前に立っていて、りおが入ってくるのを見ると、一瞬だけ動きを止めた。明るい茶色のふわふわした髪が、少しだけぴくりと動く。
「……あ」
渚の口から、そんな小さな声が漏れる。昨日のことが、まだ二人の間にはっきりと残っている。りおは渚の金色がかった茶色の目をまっすぐに見ることができなくて、視線を床に落とした。
「[gentle]お、お疲れ様です」
作り笑い。何度も練習した、マネージャーの顔。口角を上げて、目を細める。でも、声は少しだけ震えていた。
渚もまた、うまく笑えていないみたいだった。いつもなら跳ねるように動く体が、今日はロッカーの前に張り付いたみたいに動かない。
そのぎこちない空気を、遥だけがまったく意に介していないようだった。いつものことだ。遥はこの世界の重力から、どこか外れたところにいる。
りおはいつもの作業に取りかかろうと、机の上のストップウォッチとタイム記録のバインダーを手に取った。昨日の練習でつけた自分の走り書きの文字。その端っこが、少しだけ手汗でにじんでいる。
(今日こそ、ちゃんと)
そう思った、その時だった。
ガラリ。
部室のドアが、また開いた。
りおはてっきり真琴だと思った。でも、聞こえてきたのは知らない声だった。
「失礼します。岩鳶高校水泳部、でよろしいでしょうか」
落ち着いた、静かな声だった。抑揚が少なくて、まるで計算された機械みたいに正確な発音。
入ってきたのは、見慣れない制服を着た男子生徒だった。紺色のブレザー。胸のエンブレムは、岩鳶高校のものじゃない。鮫柄学園のバッジだ。
背は高く、姿勢がとてもいい。黒縁の眼鏡の奥にある目は、理知的で鋭い光を宿している。髪は短く整えられていて、制服には一点のしわもない。すべてが整いすぎていて、なんだか人間というより精密機械みたいな雰囲気の男の子だった。
りおは手に持っていたバインダーを、危うく取り落としそうになった。
「……怜?」
渚の声が、かすかに震えた。
いつもの明るい調子とは、まったく違う声。まるで、心の準備ができていないところを突然叩かれたみたいな、そんな響きだった。
渚の手から、持っていたゲーム機が落ちそうになる。
怜は部室の中央まで、まっすぐに歩いてきた。迷いのない、きれいな歩き方だった。そして、他の全員がいるにもかかわらず、怜の視線は渚だけに固定されている。遥のことなどまるで眼中にないように。りおのことも。
「[serious]渚」
怜は渚の正面に立った。二人の距離は、一メートルもない。
部室の空気が、ぴりっと張り詰める。窓の外で、プールの水が循環装置の音を立てているのが、やけにはっきりと聞こえた。
「[serious]僕は、君のことが好きだ」
りおの手から、バインダーが落ちた。
バサッ、と紙の擦れる音が、凍りついた部室にやけに大きく響く。タイム記録の紙が、数枚ほど床に散らばった。
「……え」
声が、出なかった。
遥は壁際で微動だにしない。腕を組んだまま、怜のことを冷たく観察している。
渚はというと、完全に固まっていた。いつもの八重歯を見せる笑顔は消えて、金色がかった目が、ただ大きく見開かれている。
怜は、そんな渚の反応を予想していたかのように、静かに続けた。
「君がずっと、そちらのマネージャーの先輩を見ていたことも、僕は知っている」
りおの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
(知られてた)
渚の自分への気持ちが。怜という、自分はまったく知らない誰かに。
「それでも、言わずにいられなかった」
怜の声は、まるで論文を読み上げるみたいに淡々としている。でも、その静けさが、逆にこの場の異常さを際立たせた。怜の眼鏡の奥の目は、一瞬たりとも渚から外れない。
りおは震える手で、落としたバインダーを拾おうとした。しゃがみ込む。スカートの裾が、冷たい床に触れた。紙を一枚、拾う。指が、震えてうまくつかめない。
(私のせいだ)
渚が私を見ていたから。だから、怜はここに来たんだ。
頭の中で、その言葉がぐるぐると回る。
その時だった。
「[angry]違う……違うんだって!」
渚が、突然叫んだ。
今まで凍りついていた口が、一気に壊れたみたいに開く。
「俺は、俺は——」
渚の顔が、苦しそうに歪む。りおの顔を、ちらりと見る。その目は、助けを求めるみたいに揺れていた。
りおはしゃがみ込んだまま、その視線を受け止めることしかできない。
怜の告白。りおへの気持ち。そして、自分でもよくわからない、真琴へのざわつき。
それが全部、渚の頭の中で一度に爆発したんだと思う。
「[crying]俺は、真琴先輩のことも、好きなんだ——っ!!」
その叫びが、部室中に響き渡った。
りおは、その場で石になったみたいに固まった。
意味が、すぐにはわからなかった。全員が動きを止めた。音が、消えた。
ガチャ。
その静寂を破るように、部室のドアが三度、開いた。
「[gentle]ごめん、遅くなった。差し入れ、買ってき——」
大きな体が、ドアのところで止まる。
手にしていたコンビニの袋が、かさりと揺れた。薄い緑がかった目が、ゆっくりと見開かれる。
真琴が、今の言葉を、聞いてしまった。
顔色が、血の気が引くみたいに変わっていく。いつも誰かを包み込んでいる優しい顔が、今はただ、衝撃に打たれたみたいに強張っていた。
手から、袋が滑り落ちる。
中から、ペットボトルのお茶が転がり出て、冷たい音を立てて床を転がった。
真琴は、壁に手をついた。
大きな手が、壁紙をぎゅっと握りしめる。立っているのが、やっとみたいだった。
誰も、何も言えなかった。
一秒、二秒、三秒——沈黙が、重く積もっていく。
りおは、しゃがみ込んだまま動けなかった。
やっぱり私は誰にも選ばれない。
その言葉が、頭の中でがらがらと崩れていく音がした。遥は真琴を選んだ。渚は真琴のことも好きだと言った。怜は渚に告白した。みんな、誰かを想っている。でも、その矢印のどれ一つとして、自分に向いていない。
視界が、じわっとにじむ。
声を殺した。唇を噛みしめて、必死に息を押し殺す。でも、涙は止まらなかった。一筋、また一筋と、床の上に落ちて、小さな染みを作る。
「[crying]……せん、ぱい」
渚が、りおの異変に気づいて、声をかけた。
「違くて……俺、そういうつもりじゃ」
言葉が、続かない。
自分が何を言ったのか、やっとわかったんだろう。渚の顔からも、血の気が引いていく。全員を傷つけた。その事実が、渚の顔を絶望の色に染めていく。
その時だった。
今までずっと黙っていた遥が、ゆっくりと壁から背中を離した。
肩にかけていたタオルが、音もなく床に落ちる。
遥は渚の方を、冷たい目で一瞥した。その青い目は、感情の欠片も感じさせない。ただ、温度のない水みたいな視線だった。
それから遥は、ドアの方へ歩き出した。
りおの、すぐ横を通る。
一瞬だけ、視界の端に青がよぎった。
でも——遥は、りおのことを一切見なかった。
しゃがみ込んで泣いているりおが、まるでそこに存在していないみたいに。空気みたいに。
そのまま、何も言わずに部室を出て行く。
パタン。
ドアが閉まる、なんでもない音。
でもその音が、りおの心の何かを、決定的に折った。
自分は存在していない。
渚には届かなくて、怜には視界にも入らなくて、真琴は別の意味で遠くて、そして遥にとっては——そもそも、いないのと同じなんだ。
りおはスカートの布をぎゅっと握りしめて、声を殺して泣き続けた。
怜は罪悪感で顔を伏せている。その肩は、かすかに震えていた。渚は床に座り込んで、頭を抱えている。全員を傷つけた自己嫌悪で、もう一言も出てこないようだった。
真琴は、りおの肩に手を伸ばしかけて——その手が、空気の中で止まった。
自分が、真琴先輩が好きと言われた当事者だ。その自分が、何を言えるというのか。
その手は、力なく下ろされた。
りおは、もう誰の慰めも、受け取れなかった。
誰にも言えないまま、部室の隅で、一人で泣き続ける。
渚の叫び。真琴の衝撃。遥の無関心。怜の罪悪感。
部室に残された四人の痛みは、もう二度と交わらないみたいに、バラバラの方向を向いていた。
窓の外では、灰色の雲がますます厚くなっている。雨が、降り出しそうだった。
水泳部の五人が全員バラバラになった夜の、その始まりだった。