影のプリンセスと水泳部の秘密
岩鳶高校水泳部のマネージャー、松岡りおは、密かに部長の七瀬遥に想いを寄せていた。しかし、遥の目には幼なじみの橘真琴しか映っていない。
ある日、りおは部室で信じられない光景を目撃してしまう。遥が真琴にキスをしていたのだ。打ちのめされるりお。そんな彼女の動揺した姿を、後輩の葉月渚が見つけてしまう。渚は以前からりおに好意を抱いていた。
「先輩、どうして俺じゃダメなんですか?」と迫る渚に、りおは混乱する。さらに、実は渚を狙っていた竜ヶ崎怜も現れ、部室は大混乱に陥る。
止まらない四角関係。嫉妬に駆られ、すれ違う想い。誰もが告白する勇気を持てず、それでも誰かを欲してしまう。りおの小さな恋心は、やがて水泳部全体を巻き込む、胸が張り裂けそうな嵐へと変わっていくのだった。
影のプリンセスと水泳部の秘密 - 笑顔の裏の嫉妬 ― 真琴先輩が来た日
木曜日の朝。
教室の窓から差し込む光が、やけに鋭く机の上に落ちていた。
松岡りおは、ノートの端にペン先を置いたまま、動けずにいた。
(昨日、逃げちゃった)
屋上での渚の告白。あの金色の目が、まだ頭の奥に焼きついている。諦めないと言った声が、耳の奥で繰り返し響く。
(どうすればいいんだろう)
渚の気持ちは、嬉しかった。でも、胸の奥にはまだ、七瀬遥の姿がある。ロッカー室でのキスを見てしまった痛みも、まだ生々しい。誰かを好きになることと、誰かに好きになってもらうことは、全然違うのに、どちらも同じくらい心を苦しくさせる。
隣の席の友人が、心配そうにこちらを見ていた。りおは慌てて作り笑いを浮かべる。
「[gentle]大丈夫です。ちょっと、考え事してて」
自分が大丈夫じゃない時ほど、この言葉が出る。口癖だった。
放課後まで、時間はあっという間に過ぎた。
授業が終わると、りおは重い足を引きずるようにして廊下に出た。部室に向かう足が、どうしても遅くなる。あのドアを開ければ、真琴がいるかもしれない。遥もいる。渚もいる。みんなの顔を、どうやって見ればいいのかわからなかった。
体育館棟の廊下。
かび臭い空気と、消毒液の匂いが混ざっている。窓の外では、プールの水面が午後の光を反射して、ゆらゆらと揺れていた。
部室の前に立つ。
深呼吸を一つ。それから、ドアを開けた。
「あ」
部室の中には、大きな背中があった。
茶色っぽい髪が、ふわりと風に揺れる。窓から差し込む光が、そのシルエットを縁取っていた。橘真琴が、笑顔で振り返る。薄い緑がかった目が、優しく三日月の形になる。
「[gentle]りおちゃん、お疲れ様」
その声は、春の陽だまりみたいに温かい。
「久しぶりだね。これ、差し入れ。みんなで食べて」
真琴は手にした紙袋を差し出した。中からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
りおは、その笑顔を見た瞬間、足が止まった。
胸の奥で、何かが鈍く痛む。
(この笑顔だ)
頭の中で、あの光景が閃光のように蘇る。ロッカー室。かすかな衣擦れの音。カーテンの隙間から見えた、二人の影。遥が真琴の頬に触れて、ゆっくりと顔を近づけた、あの瞬間。
あの時も、真琴はきっと、こんな笑顔を見せていたのだろう。遥だけに向ける、特別な笑顔。
遥をキスへと向かわせたのは、この笑顔なのだ。
(知っているのは、私だけだ)
その事実が、胸の真ん中をぎゅっと締め付ける。誰にも言えない秘密を抱えている孤独感。そして、真琴への嫉妬。優しくて、誰にでも好かれるこの人に、どうして嫉妬しなければいけないのか。それがまた、自分を苦しくさせた。
でも、顔は自然に動いた。
「[gentle]ありがとうございます。わざわざ、すみません」
作り笑い。口角を上げて、目を細める。何度も練習した、マネージャーの顔。
真琴はりおの顔を一瞬、じっと見つめた。何かを探るような目だった。でも、すぐにまた微笑む。
「[gentle]ううん。練習、頑張ってね」
──プールサイド。
練習が始まっていた。
葉月渚は、コースロープの向こうを泳いでいる遥の背中を、水面越しにぼんやりと眺めていた。水色のゴーグルが、午後の光を反射している。
隣のコースでは、真琴が腕を組みながら、遥の泳ぎを見つめていた。
「[gentle]遥、フォーム。腕の角度が少し浅いぞ」
真琴の声は、広いプールサイドにもはっきりと通る。でも、決して怒っているようには聞こえない。優しく、包み込むような響きだった。
遥は無言でうなずく。青い目が、一瞬だけ真琴を見た。それから、もう一度、水面に顔を沈める。
次の一本。遥の泳ぎが、さっきよりも確かにスムーズになっている。腕の角度が修正されて、水の捉え方が変わった。
(すげえ)
渚は心の中で呟いた。
真琴の一言で、遥の泳ぎが変わる。当たり前のように、それが成立している。二人の間には、誰も入れない完璧な空気が流れていた。
自分がどんなに明るく振る舞っても、どんなに大声で笑わせても、絶対に入れない場所。
渚は、水面を蹴る力を少しだけ強くした。水しぶきが顔にかかる。塩素の匂いが鼻をつく。
その時、真琴が渚の方を向いた。
「[gentle]渚、タイム上がってるぞ。いい感じだね」
その声は、さっき遥にかけたのと同じ柔らかさだった。
(同じ、なんだ)
でも、何かが違う。渚はそう思った。胸の奥が、ざわっとする。
りおへの気持ちとは違う。遥への嫉妬とも違う。もっとずっと、名前のつけられない感情。真琴の大きな背中を見ていると、胃のあたりがむず痒くなるような、それでいてもっと近くにいたいような、変な気分になる。
(俺、この人のこと……)
そこまで考えて、渚は頭を振った。水しぶきが、キラキラと光の中に散る。
考えるのは、やめよう。今は泳ぐことだけを考えればいい。
──練習後。
部室の中は、しんと静まりかえっていた。
他のメンバーはもう着替えを終えて、それぞれ帰っていった。遥は無言で青いタオルを肩にかけ、渚もロッカーをバタンと閉めて出て行った。
りおは一人で、洗い終わったタオルを畳んでいた。白いタオルを一枚、また一枚と重ねていく。洗剤の匂いが、まだかすかに残っている。
(今日も、ちゃんとできたかな)
そんなことを考えながら、手を動かす。畳む作業は、無心になれるから好きだった。
「[gentle]手伝うよ」
声がして、りおは顔を上げた。
真琴がスチールロッカーの前に立っている。いつの間にか、部室に残っていたらしい。
「[surprised]真琴先輩、まだいたんですか」
「[gentle]うん。ちょっと、りおちゃんと話したいことがあって」
真琴はりおの隣にしゃがみ込んだ。大きな手が、畳まれていないタオルを一枚取る。手つきは慣れていて、あっという間にきれいな四角形を作った。
しばらく、二人は無言でタオルを畳み続けた。
窓の外から、夕日が差し込んでいる。部室の中が、オレンジ色に染まっていた。プールの排水溝から流れる水の音が、遠くで聞こえる。
「[whispers]最近、部室に来る前に、少し間があるよな」
真琴はタオルを畳みながら、静かに言った。
りおの手が、一瞬止まる。
「[gentle]りおちゃん、大丈夫? 無理してない?」
薄い緑がかった目が、りおの横顔を覗き込む。その優しい視線に、りおの胸の奥がきゅっと痛んだ。
(気づかれてる)
真琴は何でもお見通しなのだ。遥のことも、渚のことも、そして自分のことも。
だけど、それでも。
りおは笑顔を作った。
「[gentle]全然平気です。ちょっと、寝不足で。気のせいですよ」
口癖の「大丈夫です」を、違う言葉に置き換えた。
その直後だった。
手に持っていたタオルが、するりと滑る。
床に落ちたタオルが、小さく音を立てた。
りおは慌ててそれを拾おうとした。でも、指が震えてうまくつかめない。自分でも止められないほど、手が小刻みに震えている。
(どうして、こんな時に)
真琴は何も言わなかった。
ただ静かに手を伸ばして、タオルを拾い上げる。それから、黙ってりおに手渡した。
りおは、そのタオルを受け取る。
そして、目が合った。
真琴の目は、優しかった。でも、その奥に、何かを見透かすような光が宿っている。何もかもわかっているのに、それを口に出さない優しさ。聞かないことの、優しさ。
りおは、その視線に耐えられなかった。
一秒だけ、目を逸らす。
作り笑いを維持できなかった。
(この人は、全部受け止めてしまえる人だ)
遥の気持ちも、自分の気持ちも、渚の気持ちも。全部わかっていて、それでも優しくいられる。
それが、どうしようもなく苦しかった。
真琴は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、もう一枚タオルを手に取って、黙って畳み始める。
部室の中に、タオルが擦れるかすかな音だけが響いた。
──廊下。
葉月渚は、部室の扉の前に立っていた。
さっきまで中にいたのに、りおと真琴が二人きりになるのを見て、一度は外に出た。
でも、どうしても気になって、戻ってきてしまった。
壁に背を預ける。冷たいコンクリートの感触が、背中に伝わる。
(真琴先輩が、まだ中にいる)
りおと二人きりだ。
頭の中で、その光景を想像する。真琴が優しく笑いかけている。りおが、少しだけ照れたような顔をしている。
胃のあたりが、ざわついた。
(これって、嫉妬、だよな)
誰に対する嫉妬なのか。りおへの気持ちからくる、真琴への嫉妬。それとも、真琴に対する別の感情。
渚には、自分でもわからなかった。
拳を、ぎゅっと握りしめる。
中に入りたい。りおの顔を見たい。でも、今入ったら、何を言えばいいのかわからない。
結局、渚は扉を開けられなかった。
スマホを取り出して、画面を見るふりをする。StellaPostのタイムラインを、意味もなくスクロールする。時間が、やけにゆっくりと流れていった。
──汐見坂の手前。
空は、もう茜色に染まっていた。シオカゼ灯台が、岬の先に白く浮かび上がっている。
りおは一人、坂道を下りていた。
部室での真琴とのやりとりが、まだ胸に引っかかっている。あの優しい目。全部を見透かされているみたいな視線。
(きっと、真琴先輩は何でもわかってる)
自分の遥への気持ちも、渚の気持ちも。
だからこそ、何も聞かなかったのだろう。聞かないことが、優しさだと思っているから。
でも、その優しさが、今はただ苦しい。
後ろから、足音が追いかけてきた。
「[excited]先輩!」
振り返ると、渚が小走りに駆け寄ってくる。明るい茶色の髪が、夕日を浴びて黄金色に輝いていた。
「[gentle]渚くん……」
渚はりおの隣に並ぶと、歩調を合わせて歩き始めた。少しだけ息が上がっている。走ってきたのだろう。
二人は、しばらく無言で坂道を下った。
風が、潮の香りを運んでくる。どこかで、カモメが鳴いていた。
「[serious]先輩って」
不意に、渚が口を開いた。
顔は前を向いたまま。金色の目が、遠くの灯台を見つめている。
「真琴先輩のこと、どう思いますか」
りおの足が、一瞬止まりそうになる。
(どう、思うか)
頭の中で、言葉がぐるぐると回った。
遥の一番の人。誰にでも優しい副部長。遥をキスへと向かわせた、あの笑顔の持ち主。自分が嫉妬している相手。それなのに、どうしても憎めない人。
言いたいことは、たくさんある。
でも、どれも言葉にならなかった。
遥への気持ち。真琴へのライバル心と友情の混在。渚の告白への返事をまだしていない罪悪感。
全部が一気に胸に押し寄せて、喉の奥でつかえた。
りおは、黙り込んだまま歩き続けた。
渚も、何も言わなくなった。
ただ、二人の足音だけが、静かな坂道に響く。
やがて、分かれ道に着いた。
右に行けば、りおの家。左に行けば、渚の家。
二人は立ち止まった。
「[gentle]……また、明日」
渚はそう言うと、いつもの明るい笑顔を作った。でも、目は笑っていなかった。
「[whispers]はい。また明日」
りおは小さく頭を下げて、右の道を歩き出す。
背中に、渚の視線を感じた。でも、振り返れなかった。
──自宅。
りおは自分の部屋に入ると、鞄を床に置いた。
スマホの画面が、チカチカと光っている。LINEの通知。グループ「イワトビペンギンズ」に新着メッセージがあった。
開くと、そこには真琴からの一言。
『今日はありがとう、みんな』
その文字を見た瞬間、胸がずきりと痛む。
(やっぱり、この人は)
誰にでも優しくて、誰のことも気にかけている。
りおはすぐに画面を閉じた。
ベッドに倒れ込む。天井が、ぼんやりと見えた。
(渚くんに、返事をしなきゃ)
(遥先輩への気持ちも、どうにかしなきゃ)
(真琴先輩と、どう接すればいいんだろう)
考えなければいけないことが、たくさんある。
でも、どれも答えが出せないまま、胸の奥で重く沈んでいく。
明日の部活で、渚はきっと、また何かを言ってくるだろう。もしかしたら、真琴にも。
自分はまだ、誰にも何も伝えられていない。
その焦りだけが、暗い部屋の中で、じわじわと大きくなっていった。
眠れない夜の始まりを、りおは静かに感じていた。
窓の外では、シオカゼ灯台の光が、規則正しく闇を照らしている。