影のプリンセスと水泳部の秘密
岩鳶高校水泳部のマネージャー、松岡りおは、密かに部長の七瀬遥に想いを寄せていた。しかし、遥の目には幼なじみの橘真琴しか映っていない。
ある日、りおは部室で信じられない光景を目撃してしまう。遥が真琴にキスをしていたのだ。打ちのめされるりお。そんな彼女の動揺した姿を、後輩の葉月渚が見つけてしまう。渚は以前からりおに好意を抱いていた。
「先輩、どうして俺じゃダメなんですか?」と迫る渚に、りおは混乱する。さらに、実は渚を狙っていた竜ヶ崎怜も現れ、部室は大混乱に陥る。
止まらない四角関係。嫉妬に駆られ、すれ違う想い。誰もが告白する勇気を持てず、それでも誰かを欲してしまう。りおの小さな恋心は、やがて水泳部全体を巻き込む、胸が張り裂けそうな嵐へと変わっていくのだった。
影のプリンセスと水泳部の秘密 - 屋上の告白 ― 俺じゃダメですか
水曜日の朝。
教室の窓から差し込む光が、やけにまぶしい。
黒板の白い文字が、意味をなさないただの線に見えた。数学の教師が何か言っているけど、その声は耳を通り抜けて、頭の中には昨日の光景が焼きついている。
カーテンの隙間から見えた、二人の影。触れるだけの静かなキス。
(見ちゃいけなかった)
何度目かのその思いが、胸の真ん中をへこませるみたいに、重く沈んでいく。
松岡りおはノートにペンを走らせていた。黒いインクが白い紙の上を滑る。自分でも気づかないうちに、そこには「遥」の文字があった。
「……っ」
小さく息を飲む音が、自分だけに聞こえる。慌てて消しゴムを手に取ると、その文字を何度も何度もこすった。紙が少し破れそうになるまで。
となりの席の友人が、心配そうに顔をのぞきこんできた。
「[gentle]りお、顔色わるいよ。大丈夫?」
りおは顔を上げる。口角を、無理やり持ち上げた。
「[gentle]大丈夫です。ちょっと、寝不足で」
自分が大丈夫じゃない時ほど、この言葉が出る。クセだった。
友人はまだ何か言いたそうだったけど、授業のチャイムが鳴って、背を向けた。
りおは再びノートを見下ろす。消しゴムのカスが散らばったその場所には、もう何も書いていなかった。でも、何度消しても、頭の中の文字だけが消えてくれない。
(ずっと、考えてる)
(自分がどれだけ、遥先輩のことを考えているか)
そう思い知らされるたび、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
──放課後。
部室の前に立った、りおの足が止まる。
体育館棟の廊下の端。あの扉の向こうには、いつものスチールロッカーが六台並んでいる。一番手前は、七瀬遥のロッカーだ。
ドアノブに手を伸ばした。でも、指が触れる寸前で、力が抜ける。
(……今日は、行けない)
心の中で、そう呟いた。
昨日のあの瞬間が、フラッシュバックする。二人が重なる影。あれを見てしまった目で、どうやって遥先輩の顔を見ればいいのか。どうやって、真琴先輩に「お疲れ様です」とタオルを渡せばいいのか。
「……ごめんなさい」
誰にともなく謝って、りおは踵を返した。
体育館棟の突き当たりにある非常階段を、駆け上がる。鉄の階段が、カンカンと軽い音を立てた。一番上まで登りきると、そこには屋上に続くドアがある。普段は施錠されているはずのそのドアは、今日もわずかに開いていた。顧問の天方先生が、水泳部員のために黙認してくれている抜け道だ。
りおはドアを押し開ける。
潮風が、ふわりと頬をなでた。
岩鳶高校の屋上は、海の見える特等席だ。遠くにシオカゼ灯台が白く立っている。沈みかけた夕日が、海面をオレンジ色に変え始めていた。
でも、今日は先客がいる。
柵にもたれて、ぼんやりと海を眺めている背中。
明るい茶色の髪が、風にふわふわと揺れている。
「……渚くん」
りおが名前を呼ぶと、葉月渚はゆっくりと振り返った。大きな金色がかった茶色の目が、いつものようにキラキラとは輝いていなかった。
「[gentle]りお先輩」
渚の声も、少し静かだった。
「部活、行かなくていいの?」
りおは、一瞬だけ言葉に詰まる。
「[gentle]……渚くんこそ。練習、始まってるよ」
そう言って、作り笑いを浮かべた。大丈夫です、という顔。でも、渚はそんなりおから視線を外さなかった。
風が、二人の間を吹き抜ける。
渚は柵から背を離し、りおの正面に向き直った。いつもは跳ねるように動く体が、今はゆっくりと、まるで水面を進むかのように静かだった。
「[serious]先輩」
低い声だった。ムードメーカーの仮面を脱いだ、本当の声。
「俺じゃ、ダメですか」
──え。
りおの頭の中で、その言葉がゆっくりと反響する。
意味が、一瞬で理解できなかった。
「な、にを……」
「入学式の日、俺、見てたんです」
渚はまっすぐに、りおの目を見つめて言った。
「先輩が、部室で一人で泣いてるの。その時に、やばいって思った。ずっと、この人を見ていたいって」
胸の奥で、何かが激しく脈打つ。
「俺、ずっと前から、先輩だけを見てきた」
渚の声は震えていなかった。いつもふざけて誰かの腕に抱きついたり、大げさに笑ったりしている彼が、今はただ真剣に、言葉を一つ一つ、確かめるように紡いでいる。
「マネージャーの仕事をしてる姿も、髪の毛をくるくる巻く癖も、本当は泣き虫なのに大丈夫って嘘つくとこも。ぜんぶ」
りおは何も言えなかった。指が、無意識に髪の毛の先をさわっている。
「先輩が好きなのは、遥先輩だってわかってる」
その言葉が、胸の傷口をそのまま押さえるみたいに痛む。
「でも、俺は諦めない。先輩が泣く時は、隣にいるのは俺がいい」
渚の目が、夕日を受けて金色に光った。その瞳は、遠くのシオカゼ灯台を一瞬だけ映してから、もう一度りおに向けられる。
ああ、と思った。
りおは、無意識に柵の向こうの灯台を見つめていた。
あれは、遥先輩と真琴先輩が子供の頃から一緒に遊んだ場所だ。二人だけの思い出の場所。自分には関係のない場所だと、ずっと思ってきた。
(でも、今は)
胸が、張り裂けそうに痛い。
その時、初めてりおは気づいた。
自分は、誰かの一番になりたいんだ。
遥の一番は真琴で、自分はいつもそれを見ているだけだった。渚の言葉は、そのずっと蓋をしてきた気持ちを、静かに、でも確かに揺さぶっていた。
りおの目から、涙がこぼれた。
一筋、また一筋と、止まらなくなる。
「[crying]ごめん……ごめんね……」
何に対して謝っているのか、自分でもわからない。でも、その言葉しか出てこなかった。
渚は一歩、前に出た。
「[gentle]絶対に、泣かせません。俺は本気です」
その声は静かで、でも屋上の風に乗って、はっきりとりおに届いた。
りおは首を横に振る。
「[crying]ごめん……!」
そう言って、屋上のドアの方へ走り出した。逃げるみたいに、振り返らずに。
非常階段を駆け下りる足音が、カンカンと虚ろに響いた。
逃げながら、りおの胸は、遥への片想いとは違う種類の痛みでいっぱいになる。渚の本気の目が、声が、頭から離れない。好きだと言ってもらえたことが、こんなに痛いなんて知らなかった。
屋上には、渚一人が残された。
風が、茶色い髪を揺らす。
渚はしばらく、りおが出て行ったドアを見つめていた。それから、口を固く結ぶ。諦める気はまったくない、という顔だった。
「……行くか」
小さく呟いて、渚も屋上を後にする。
──部室。
扉を開けると、中には七瀬遥と橘真琴が並んで立っていた。遥は肩に青いタオルをかけていて、真琴が小声で何かを話しかけている。二人の間には、誰も入れない静かな空気が漂っていた。
渚は一瞬だけ、その光景に足を止める。
(この二人には、俺は入れない)
でも、すぐにいつもの笑顔を作った。
「[excited]お疲れっすー!」
明るい声。ムードメーカーの仮面。
真琴が振り返り、少しだけ目を細めて微笑んだ。薄い緑がかった優しい目が、三日月の形になる。
「お疲れ様、渚くん。どこ行ってたの?」
その柔らかい声に、渚の胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
りおへの気持ちとは違う、うまく名前のつけられない感情。
「[excited]ちょっと、屋上で風にあたってました!」
そう言って笑う渚の表情は、どこかぎこちなかった。真琴は何かを感じ取ったように、少しだけ首をかしげる。でもそれ以上は何も聞かなかった。
渚はロッカーに手をかけながら、唇を噛む。
(俺は、諦めない)
心の中で、もう一度だけ、強く思った。
窓の外では、夕日が海に沈もうとしている。明日もまた、部活は続く。練習が始まれば、みんな水の中だ。それぞれの想いを胸に沈めて、ただ泳ぐだけの時間がやってくる。
でも、水面の下で、何かが確かに動き始めていた。