影のプリンセスと水泳部の秘密
岩鳶高校水泳部のマネージャー、松岡りおは、密かに部長の七瀬遥に想いを寄せていた。しかし、遥の目には幼なじみの橘真琴しか映っていない。
ある日、りおは部室で信じられない光景を目撃してしまう。遥が真琴にキスをしていたのだ。打ちのめされるりお。そんな彼女の動揺した姿を、後輩の葉月渚が見つけてしまう。渚は以前からりおに好意を抱いていた。
「先輩、どうして俺じゃダメなんですか?」と迫る渚に、りおは混乱する。さらに、実は渚を狙っていた竜ヶ崎怜も現れ、部室は大混乱に陥る。
止まらない四角関係。嫉妬に駆られ、すれ違う想い。誰もが告白する勇気を持てず、それでも誰かを欲してしまう。りおの小さな恋心は、やがて水泳部全体を巻き込む、胸が張り裂けそうな嵐へと変わっていくのだった。
影のプリンセスと水泳部の秘密 - 夕陽の告白 ― それでも好きでよかった
日曜日の、すべてが終わろうとしている夕方だった。
松岡りおは、コバルトビーチの砂の上に立っていた。スニーカーの底から、細かい砂がさらさらと流れていく。昨日の灯台で、真琴先輩の話を聞いたあの夜から、胸の中には決意と呼ぶにはあまりにも痛い何かが、ずっと引っかかっていた。
(ちゃんと、伝えなきゃ)
震える指でスマホを取り出す。LINEの画面。遥先輩とのトーク履歴には、練習時間の確認とか、そんな味気ない言葉ばかりが並んでいる。最後のメッセージは、りおからの「明日の練習は午後からです」。それに対する返事はなかった。既読もついていない。
いつものことだ。遥先輩は、そういう人だ。
それでも、りおは画面を閉じて、ポケットにスマホを押し込んだ。
目の前には「告白岩」と呼ばれる大きな岩がある。高さは二メートル半くらい。花崗岩の表面が、夕陽を浴びてオレンジ色に染まっている。ここで告白すると恋が叶う、なんて地元の都市伝説があるけど、そんなのはただの噂だってわかってる。
でも。
(ここでなら、言える気がした)
りおは岩によじ登った。スカートの裾が潮風でふわりと揺れる。岩の上は、二人がギリギリ座れるくらいの広さしかない。まるで、誰かと誰かのためだけに作られた場所みたいだった。
水平線に、太陽がじわりと沈み始める。海全体が、黄金色の光で満ちていた。
どれくらい待っただろう。
五分か、十分か。あるいは、たった一分だったかもしれない。
砂の上を歩いてくる足音が聞こえた。
振り返る。
七瀬遥が、一人で砂浜を歩いてくる。いつもの無表情。いつもの、透き通った青い目。潮風に艶のある黒髪が少しだけ揺れている。
遥は、りおの姿を見つけて、ぴたりと足を止めた。
真琴に呼び出されたと思っていたのだろう。遥の細められた目が、ほんの少しだけ動いた。でも、何も言わない。ただ、そこに立っている。
りおは、岩の上から遥を見下ろした。
胸が、張り裂けそうだった。
怖い。声が出ない。
でも。
(作り笑いは、しない)
あの部室で、遥先輩に空気みたいに扱われた時から、決めていた。
りおは、震える唇を開いた。
「[whispers]……ずっと、好きでした」
声が、震えた。
「中学三年の夏に、初めて見た日から」
遥の、あの孤独な背中。水の底みたいな静けさ。誰にも必要とされていないみたいな、それでも一人で立っている姿に、どうしようもなく惹かれた。
「[crying]先輩の水泳を見てたから、私、ここに来れたんです」
言葉が、自分の奥底からあふれてくる。
「マネージャーになれて、よかった。先輩の近くにいられて、それだけで、嬉しかった」
涙が、勝手にこぼれた。視界がぼやける。遥の姿が、夕陽に溶けて消えそうだった。
長い、長い沈黙が落ちた。
波の音だけが、静かに二人の間を通り過ぎていく。
遥は、少しだけ目を細めた。その青い目が、何を考えているのか、りおにはやっぱりわからない。
それから。
「[serious]……俺には、真琴だけだ」
静かで、でもどこまでも正直な声だった。
残酷なくらい、まっすぐな言葉。
りおの胸を、真っすぐに貫いた。
ごめん、じゃないんだ。誤魔化しも、優しい嘘もない。ただ、事実だけをそこに置かれた気がした。
りおは、唇をきゅっと噛んだ。
(……わかってた)
ずっと前から、知ってた。
それでも、涙は止まらなかった。でも、泣きながら、りおは笑おうとした。作り笑いじゃなくて、本当の、自分の笑顔を。
「[crying]それでも……好きで、よかったです」
言葉が、声が、震えながらも、確かにそこにあった。
遥は、何も言わなくなった。ただ、少しだけ目を逸らす。その無表情の下で、何かが小さく動いているのを、りおは初めて見た気がした。
自分の恋が終わる音を、体全体で感じていた。
夕陽が、さらに海に沈んでいく。世界が、少しずつ赤く染まっていく。
その時だった。
「[angry]諦めないでくださいっ!!」
突然の叫び声が、砂浜に響き渡った。
りおが驚いて振り返ると、渚が岩陰から飛び出してくるところだった。ふわふわの茶髪が、ぴょんぴょんと跳ねている。金色がかった大きな目は、真っ赤に充血していた。
渚は、岩の上にいるりおの前に立った。
「[crying]俺は、絶対にあなたを幸せにします!」
りおは、言葉が出なかった。
「[whispers]どうして、ここに……」
「[crying]先輩が、一人で来るのが分かってたから!」
渚の声が、震えている。いつもの明るい調子は、どこにもなかった。そこにいたのは、ただ必死に、一人の女の子に向かって気持ちをぶつける、一人の男の子だった。
「ずっと、ここで見てました。先輩が、遥先輩に告白するってわかってて、それでも、俺は——俺は、あきらめたくない!」
渚の手が、震えながらりおに差し伸べられる。
りおは、その手を見つめた。
(私なんかで、いいのかな)
頭のどこかで、そんな声がする。でも、渚の目は、嘘をついていなかった。
りおが手を伸ばそうとした、その時。
また、別の足音が聞こえた。
振り返る。
橘真琴が、砂浜を歩いてくる。柔らかな茶色の髪が、夕陽に透けて金色に見えた。その優しい目は、まっすぐに遥を見つめている。
真琴は、遥の前に立った。
「[serious]遥」
その声は、いつもの春の陽だまりみたいな温かさじゃなかった。静かで、でも、何かを断ち切ろうとするような、痛みをはらんだ声だった。
「[gentle]お前は、俺のことが好きなんじゃない」
遥の顔色が、目に見えて変わった。
「[cold]違う」
「[gentle]違わないよ。お前は、俺がいないと不安なだけだ。ずっと子供の頃から一緒だったから、それが恋だと思い込んでるだけだ」
遥は、何か言い返そうとした。でも、言葉が出てこない。口が、開いて、閉じて、ただ空気だけが漏れる。
真琴は、続けた。
「[sad]俺はお前のことが大切だ。でも、俺は俺の人生を生きる。ずっと、お前の世話だけをして生きていくことはできない」
「[crying]……真琴」
遥は、初めて感情を剥き出しにして、真琴に歩み寄った。両手で、真琴の腕をぎゅっと掴む。
真琴は、その手を払わなかった。ただ、同じように、ぎゅっと握り返す。
「[sad]お前のことは、ずっと大切だよ。でも——ごめん」
遥は、真琴の手を握ったまま、しゃがみ込んだ。肩が、小さく震えている。声を、詰まらせている。今まで見たことのない、遥の姿だった。
真琴は、その背中にぽんと手を置いた。顔は、もう遥を見ていない。遠くの、夕陽に染まる海を見つめていた。
小さかった頃の約束が、今、静かに終わっていく。
それを見ていたりおの胸の中には、不思議な静けさがあった。
遥のことが、完全に消えたわけじゃない。好きだった日々の痛みは、まだ胸の奥に残っている。でも。
(もう、私の番じゃないんだ)
それは、自分で恋に幕を引いたから、初めて感じられたことだった。
隣を見る。
渚が、まだ手を差し伸べたまま、じっとりおを見つめている。
りおは、少し迷った。
でも——まだ、その手を握り返すことはできなかった。
渚は、それでも手を引っ込めなかった。ただ、にこりと、八重歯を見せて笑った。
「[gentle]待ってますから」
その声は、震えていたけど、本当にまっすぐだった。
少し離れた砂浜の端。防風林の影で、竜ヶ崎怜が一人で立っていた。黒縁の眼鏡の奥の理知的な目が、五人の姿を静かに見つめている。
怜の視線は、ただ一人、渚だけに向けられていた。
渚がりおの隣で笑っている。その姿を見て、怜は小さく笑った。自分に向けられたものじゃない、その笑顔を、ただ目に焼き付けるように。
渚が、ふと気配に気づいて振り返った。
怜と目が合う。
渚が、何か言おうと口を開きかけた。
でも、その前に、怜は口の形だけで「いいよ」とだけ伝えて、視線を海に戻した。
自分の気持ちを、そっと砂の中に押し込めるみたいに。
夕陽が、水平線の向こうに沈みきろうとしている。空も、海も、砂浜も、みんな同じオレンジ色に染まって、五人をその中に溶かしていた。
誰もがまだ、何かを抱えたままだった。
でも、確かに、何かが動き出した。
真琴が、しゃがみ込んだままの遥の背中を最後にぽんぽんと叩いて、一歩下がる。それから、ポケットからスマホを取り出して、ゆっくりと文字を打った。
りおのポケットの中で、スマホが小さく震える。
渚も、遥も、同じように自分のスマホを見ていた。
部のLINEグループ「イワトビペンギンズ」に、新しいメッセージが一つ。
『月曜、みんなちゃんと来い』
差出人は、橘真琴。
たった一言。
でも、それが、壊れた部活がもう一度動き出すための、最初の言葉だった。
五人を乗せた夕陽が、静かに水平線の向こうに沈んでいく。波の音だけが、いつまでも変わらずに、世界を満たしていた。
りおは、自分の手を見つめた。
(私は、誰かの一番になれるのかな)
まだわからない。渚の手を握ることも、まだできない。
でも。
(私は、私の足で、ここに立ってる)
誰かに選ばれるのを待つだけじゃなくて、自分の言葉で全部を伝えた。
それは、今のりおにとって、一番大事なことだった。
渚が、夕陽を見ながら、静かにつぶやいた。
「[gentle]俺たち、まだ大丈夫っすよね」
りおは、答えられなかった。でも、今度は、作り笑いをしなかった。
それが、今のりおの、精一杯の本当だった。
インターハイ県予選まで、あと三週間。
壊れかけた部活の人間関係。まだ見えていない未来。
そして、兄の松岡凛が、鮫柄学園の主将として、自分たちの前に立ちはだかる日。
すべては、まだこれからだった。
りおは、夕陽が完全に消えた海を、まっすぐに見つめていた。