影のプリンセスと水泳部の秘密
岩鳶高校水泳部のマネージャー、松岡りおは、密かに部長の七瀬遥に想いを寄せていた。しかし、遥の目には幼なじみの橘真琴しか映っていない。
ある日、りおは部室で信じられない光景を目撃してしまう。遥が真琴にキスをしていたのだ。打ちのめされるりお。そんな彼女の動揺した姿を、後輩の葉月渚が見つけてしまう。渚は以前からりおに好意を抱いていた。
「先輩、どうして俺じゃダメなんですか?」と迫る渚に、りおは混乱する。さらに、実は渚を狙っていた竜ヶ崎怜も現れ、部室は大混乱に陥る。
止まらない四角関係。嫉妬に駆られ、すれ違う想い。誰もが告白する勇気を持てず、それでも誰かを欲してしまう。りおの小さな恋心は、やがて水泳部全体を巻き込む、胸が張り裂けそうな嵐へと変わっていくのだった。
影のプリンセスと水泳部の秘密 - 目撃 ― 壊れた夕暮れの部室
月曜日の放課後。部室のドアを開けると、かび臭い空気が鼻についた。
体育館棟の端にあるこの部屋は、約十二畳。壁際に六つのロッカーが並び、真ん中には古いソファが一脚。窓からはプールが見えた。誰もいない水面が、夕日にキラキラと揺れている。
きれいなのにな、と思う。
松岡りおはホワイトボードを見た。明日のメニューの下に、カウントダウンが書いてある。
インターハイ県予選まで、あと三十七日。
(インターハイまで一ヶ月ちょっとか)
部費は年間十八万円。部員は五名とマネージャー一匹。岩鳶高校の部活動規定では、部員五名未満になると「同好会」に降格する。そうなれば予算は半分。このギリギリの人数で、全国を目指している。
りおはスチールロッカーを雑巾で拭き始めた。六台のロッカー、六つの名前。一番手前から、七瀬遥、橘真琴、葉月渚、竜ヶ崎怜、山崎宗介。そして、自分はリストにいない。マネージャーは部員数にカウントされないからだ。
(別に…いいんだけど)
少しだけ、寂しかった。
七瀬遥のロッカーに触れる。指先が冷たい。昨日の掃除の時もここに触れて、それから泣いてしまった。タオルを拾って、文字をなぞって。
中学三年の夏の日。兄の凛に連れられて見に行った試合で、水だけを見つめる遥の横顔を見た。その瞬間、心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなって、ああ、好きなんだ、と思った。
それからずっと、誰にも言わずにここにいる。
姉妹校の推薦を蹴ってまで来た学校で、毎日掃除をして、タイムを計って、タオルを用意して。
「……好きでやってることだし」
声に出してみたけど、部室に響いて消えた。
だから、奥のロッカー室から衣擦れの音が聞こえたとき、りおは心臓が止まるかと思った。
(え、誰かいるの)
物音はしなかったはずだ。掃除を始める前に声をかけたとき、誰もいなかった。それなのに、今。
かすかな息遣い。布の擦れる音。
りおは雑巾を握りしめたまま、音のする方へ足を進めた。ロッカー室の入り口は、部室の一番奥。カーテンがかかっていて、中は見えない。
誰かが忘れ物でも取りに来たのかもしれない。
そう思ってカーテンの隙間から中を覗いた。
そして、凍りついた。
七瀬遥がいた。
そして、橘真琴がいた。
二人は向かい合っていた。遥の右手が、真琴の頬に触れている。長い指が、そっと輪郭をなぞるように。
なにを、しているんだろう。
遥の青い目が揺れた。普段は水の底みたいに静かな目が、今は違う。何かを必死に確かめようとしているみたいな、それでいて、怖がっているみたいな。
そして、ゆっくりと顔を近づけた。
自分の目が信じられなかった。
二人の唇が、重なった。
静かな、本当に静かなキスだった。触れるだけの、でも確かにそこに意味のある。
りおはその場を離れた。
足音を立てないように、息を殺して。気づかれなかったと思う。多分、二人ともそれどころじゃなかった。
部室の扉を抜けて、誰もいないプールサイドに出た。
夕日が目に刺さる。
排水溝の隅にしゃがみ込んだ。膝を抱える。震えが止まらない。
(見ちゃいけなかった)
頭の中で繰り返す。でも、もう見てしまった。見たことが消えるわけじゃない。
遥が真琴にキスをした。それは、友達同士のものじゃなかった。少なくとも、遥にとっては。
(私じゃ、ダメなんだ)
兄の凛は天才スイマーだ。幼い頃からずっと、凛はすごい、りおは普通、と言われ続けてきた。誰かの一番になれたことなんて、一度もない。
遥の一番も、違った。
当たり前だった。最初からそうだった。隣にはいつも真琴がいて、あの二人の間に入れる人なんていない。
頭ではわかっているのに、胸の真ん中がへこんだみたいに苦しくて、息ができない。
「……やっぱり、私は」
声が漏れた。
涙がぽろりと落ちる。一度落ちると、もう止まらなかった。声を殺して泣く。昨日と同じ。いや、もっとひどい。昨日はまだ、どこかで期待してた。
「大丈夫、大丈夫…」
自分に言い聞かせるように呟く。口癖だ。自分が大丈夫じゃない時ほど、この言葉が出る。
「笑わなきゃ。みんなの前では、マネージャーなんだから」
でも涙は止まらなかった。
「先輩?」
声がして振り向くと、葉月渚が立っていた。
いつも明るく跳ねている茶色い髪が、風で少し揺れている。大きな金色がかった茶色の目が、驚いたように見開かれていた。手には忘れ物らしいタオルと、自動販売機で買ったらしい缶ジュース。
「な、渚くん……」
慌てて涙を拭く。下手な笑顔を作って、大丈夫だと言おうとする。
「[gentle]これ」
渚は何も聞かなかった。ただ隣にしゃがみ込んで、缶ジュースをりおの前に置いた。
冷たい缶がコンクリートに小さく音を立てる。
「忘れ物、取りに来たんすよ。そしたら、なんか、その」
言葉を探すように目を泳がせて、それから少し距離を空けて、渚も隣に座った。
大きなプールサイドに、二人きり。
夕日が水面をオレンジに染めて、排水溝に流れる水の音だけが聞こえる。
「……大丈夫です。私、全然。ちょっと目にゴミが入っただけで」
りおがそう言うと、渚の表情が微かに歪んだ。
「それ、嘘っすよね」
いつもの明るい口調じゃない。低くて、少しだけ怒っているような声だった。
「俺、先輩が嘘つく時の顔、知ってます」
りおは何も言えなかった。
「入学式の日っす」
渚は遠くの空を見ながら言った。シオカゼ灯台が、岬の先に白く立っているのが見える。
「俺、教室間違えて、たまたまこの部室の前を通って。そしたら、中から泣き声が聞こえて。覗いたら先輩が一人で泣いてて。それで、やばいって思ったんすよ」
それからだ、と渚は言った。
「先輩を泣かせちゃダメだって。それでずっと、明るくしてようと思ったんです」
胸が、きゅっとなった。
「渚くん、そんな…」
「好きなんすよ」
急に、渚がまっすぐこっちを見た。
金色の目が夕日を反射して、とても真剣な光を宿している。いつもキラキラしている明るい目が、今は違う。何かを決意した人の目だ。
「松岡先輩のことが、好きです」
声は震えていなかった。
「マネージャーの仕事してる姿も、髪の毛くるくる巻く癖も、作り笑いするとこも、ぜんぶ。俺、入学式の日からずっと、先輩だけを見てきた」
りおは何も言えなかった。
「でも、先輩が好きなのは遥先輩だって、知ってる」
ズキリ、と胸が痛む。
「だから、今すぐ俺を見てほしいとは言わないっす。でも」
渚は一度だけ、遠くの灯台に目をやった。
その横顔に、りおは初めて気づいた。渚は明るいだけじゃない。本当は誰よりも周りを見ていて、自分の居場所を必死に守ろうとしている人なんだ。
それは、自分と同じだった。
渚は少しの間、何かを迷うように黙っていた。
去年の夏合宿の夜を思い出していた。民宿うみねこ荘の裏庭で、月明かりの下、真琴が一人で座っていたあの夜。隣に座った渚に、真琴は柔らかい声で「渚は頑張り屋だね」と言った。その声があまりにも温かくて、渚は胸の奥がじんわり熱くなったのを覚えている。
真琴への憧れ。りおへの想い。どちらも本物だ。だからこそ、自分は今、誰の隣に座るべきなのか。
渚は目を閉じて、それから決心したようにまた開けた。
「…先輩が泣いてる時、隣にいるのは俺がいい。遥先輩でも、まこちゃんでもなくて、俺が」
りおの目から、また涙がこぼれた。
でも今度は、さっきまでと違う涙だった。
「[gentle]諦めないっすから。絶対に」
渚は立ち上がって、りおに手を差し伸べた。
「とりあえず、ジュース飲んでください。それから、顔洗って。先輩が泣き腫らした顔してると、他のみんなに心配かけちゃうし」
いつもの明るい笑顔に戻っている。でも、目はまだ真剣だった。
りおは少しだけ迷ってから、恐る恐るその手を取った。
渚の手は温かかった。
「…ありがとう、渚くん」
「[excited]どういたしまして! さ、行きましょ!」
プールサイドを並んで歩き出す。
夕日が長く影を伸ばして、水面はまだオレンジ色に揺れていた。体育館の方から、部員たちの声が聞こえてくる。もうすぐ練習が始まる。
りおは缶ジュースを握りしめながら歩いた。
(さっきまでは、誰かの一番になれないと思ってた)
でも、今は隣に渚がいる。
好きだと言ってくれた。諦めないと言ってくれた。
それが答えになるのかは、まだわからない。
でも、少しだけ、胸の真ん中で何かが動いた気がした。
小さな、でも確かな変化。
渚は渚で、真琴への想いを胸の奥にしまいながら、それでもりおの隣を歩くことを選んだ。正解かどうかはわからない。でも、今すぐ決められない気持ちがあるからこそ、こうして隣にいる。
二人は部室の方へ歩いていく。
その後ろでは、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
渚の背中に飾らない決意が滲んでいる。それは、誰かを想う気持ちが、水の中みたいに静かで、深くて、一度沈んでも消えないものだということを、確かに示していた。