影のプリンセスと水泳部の秘密
岩鳶高校水泳部のマネージャー、松岡りおは、密かに部長の七瀬遥に想いを寄せていた。しかし、遥の目には幼なじみの橘真琴しか映っていない。
ある日、りおは部室で信じられない光景を目撃してしまう。遥が真琴にキスをしていたのだ。打ちのめされるりお。そんな彼女の動揺した姿を、後輩の葉月渚が見つけてしまう。渚は以前からりおに好意を抱いていた。
「先輩、どうして俺じゃダメなんですか?」と迫る渚に、りおは混乱する。さらに、実は渚を狙っていた竜ヶ崎怜も現れ、部室は大混乱に陥る。
止まらない四角関係。嫉妬に駆られ、すれ違う想い。誰もが告白する勇気を持てず、それでも誰かを欲してしまう。りおの小さな恋心は、やがて水泳部全体を巻き込む、胸が張り裂けそうな嵐へと変わっていくのだった。
影のプリンセスと水泳部の秘密 - 灯台の波音 ― 全部、本当のことを話す
スマホの画面が、薄暗い部屋の中でぼんやりと光っている。
松岡りおは布団の中で、何度も同じ画面を開いては閉じていた。LINEのグループ「イワトビペンギンズ」。そこに表示された五つの名前。
(何を、送ればいいんだろう)
親指が、画面の上で止まったまま動かない。窓の外から聞こえるかすかな波の音。夜明け前の静けさの中で、その音だけがなぜかやけにはっきりと耳に届いていた。
昨日の放課後。部室での修羅場。
怜が渚に告白したこと。渚が真琴のことも好きだと叫んだこと。真琴がそれを聞いてしまったこと。そして遥が、泣いている自分のことをまるで空気みたいに無視して出て行ったこと。
頭の中で、その光景がぐるぐると回っている。何度も、何度も、同じ映像が繰り返される。
(誰の、一番にもなれなかった)
その言葉が胸に落ちるたびに、胃のあたりがきゅっと縮んだ。ずっと前から知っていたはずなのに、あんな風に目の前に突きつけられると、やっぱり違う。知っているのと、感じるのは、全然違う。
りおは起き上がった。制服に袖を通す。土曜日なのに、それ以外の服が思いつかなかった。
家を出る。誰にも気づかれないように、そっと玄関のドアを閉めた。
空はまだ白み始めたばかりで、東の空がうっすらと明るいだけだった。風はなく、生暖かい空気が肌にまとわりつく。
足は、自然と海の方へ向かっていた。
汐見坂を下りる。いつもは遥と真琴の背中を見ながら歩くこの道を、今は一人で下りていく。アスファルトの上に、自分の影が薄く伸びていた。
駅前の商店街を通り過ぎ、漁港の脇を抜けて、岬への遊歩道に入る。草の匂いと潮の香りが混ざった風が、初めて頬を撫でた。
シオカゼ灯台。
白い塔が、灰色の空を背景に立っている。子供の頃から知っている景色なのに、今朝はなぜかそれが遠い世界のものみたいに見えた。
灯台の下の岩場に下りる。
波が、規則正しく岩を打っていた。ザアン、ザアン。
(ここなら)
誰も来ない。誰にも見られない。
りおは制服のまま、大きな岩の上に座り込んだ。スカートの裾が潮風で少しだけ揺れる。両腕で膝を抱えて、海を見つめる。
灰色の海が、ずっと向こうまで続いている。水平線のあたりが、朝の光でうっすらと金色に染まり始めていた。
誰の一番にもなれない。
口に出したわけじゃないのに、その言葉が頭の中で何度も繰り返される。声に出さなくても、口の形がその言葉をなぞっていた。
小さい頃のことを思い出す。
兄の凛は、いつも誰かの一番だった。水泳のタイムは学年で一番、友達も多くて、先生からも信頼されていた。自分はいつもその隣で、「松岡凛の妹」と呼ばれるだけだった。
それでもいいと思っていた。
お兄ちゃんがすごいのは当たり前で、自分は自分でいいんだって、そう思おうとしていた。
でも。
本当は、誰かの一番になりたかった。
誰かに、ただの妹じゃなくて、マネージャーじゃなくて、松岡りおという一人の人間を見てほしかった。
りおの目から、涙がこぼれた。
一筋、また一筋と、頬を伝って膝の上に落ちる。声は出さなかった。でも、体が震えるのは止められなかった。
ザアン。
波の音だけが、返事の代わりみたいに響いている。
声を殺して泣いた。昨日の部室で泣いた時よりも、もっと深い場所から涙が出てくる気がした。誰にも気づかれないでって思いながら泣いた涙と、気づかれなかったことで泣く涙は、違う種類の痛みだった。
どれくらい、そうしていたのか。
ふと、後ろで砂利を踏む音がした。
ジャリ、ジャリ、ジャリ。
誰かが、ゆっくりと近づいてくる。
りおは慌てて目をこすった。でも涙は止まらなくて、視界がぼやけたままだった。
「[gentle]……やっぱり、ここだったか」
聞き覚えのある、優しい声。春の陽だまりみたいに温かい声。
振り返ると、真琴が立っていた。少しだけ息が上がっていて、前髪が汗で額に張り付いている。
「[whispers]真琴先輩……」
自分の声が、ひどくかすれていた。
「[gentle]ごめん、探しちゃった」
真琴はりおの隣の岩に腰を下ろした。大きな体が、朝の光を背にしてシルエットになる。薄い緑がかった目は、海の方を向いていた。
「[gentle]どうして、ここが」
「[gentle]わかるんだ」
真琴は短く答えた。
「りおちゃんが悲しい時、海の方に行くって知ってたから。汐見坂を下りて、海沿いをずっと歩いて、人がいない場所を探した」
りおは何も言えなかった。
また、波の音だけが二人の間を通り過ぎていく。
真琴は海を見たまま、静かに話し始めた。
「[gentle]遥の、あのキスのこと」
りおの肩が、びくっと震えた。
「[gentle]多分、りおちゃんは見ちゃったんだよね。あの日、部室で」
りおは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。
真琴は少しだけ息を吐いて、続けた。
「[gentle]あれはね、遥の気持ちが恋愛ってわけじゃないと思うんだ」
りおの目が、少しだけ見開かれる。
「[gentle]あの日の前にね、僕、遥に話したんだ。県外の大学に行くことを考えてるって」
県外。
その言葉が、重く響いた。
「[gentle]地元を離れて、遠くに行くかもしれない。そう言ったら、次の日、急に遥がキスしてきた」
真琴は小さく、苦笑いする。
「あれは、遥が僕を繋ぎ止めようとしたんだと思う。恋愛っていうより、ずっと一緒にいるための手段として」
りおの胸の奥で、何かがかすかに動いた。
これまで、ずっと考えてきた。遥が真琴に向けたあの仕草は、絶対的な愛情の証なんだと思っていた。自分が絶対に敵わない、二人だけの絆なんだと。
でも。
それが、恋愛じゃない?
「[gentle]それからね」
真琴は、少しだけ言いにくそうに、でもしっかりとした声で続けた。
「実は僕も、ずっと自分の気持ちを誤魔化してたんだ」
海の色が、少しだけ青みを帯びてきていた。朝日が雲の隙間から差し込み始める。
「[gentle]小学生の頃、ここで遥と約束したんだ。ずっといるよって。灯台の下で、二人で指切りした」
りおは、真琴の横顔を見つめた。
その顔は、まだ海の方を向いている。でも、目は今の景色を見ていなかった。ずっと遠くの、昔のことを見ている目だった。
「[gentle]その約束が、ずっと鎖になってた。僕の感情を、その形に合わせ続けてきた。遥のことが好きなのか、責任感から離れられないのか、自分でももうわからなくなってた」
真琴の声は、静かだった。
でも、その静けさの奥に、長い間抱え続けてきた何かが滲んでいる気がした。
「[sad]僕は、遥の面倒を見るのが当たり前すぎて、それが恋愛なのかどうか、考えたこともなかったんだ。でも、多分、違うんだと思う」
りおは、自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
真琴も迷っていた。
遥が一番大切にしている、あの真琴でさえ、ずっと迷い続けていた。恋愛なのか、責任なのか、わからないまま、遥のそばにいた。
その事実が、りおの胸の奥に突き刺さった。
嫉妬、していた相手が。
実は自分と同じように、悩んでいた。
「[gentle]りおちゃんのことは、前から気づいてた」
真琴の声が、急に近くなった。
「遥のことが好きなんだろうって」
りおは息を呑んだ。違う、と言おうとして、でも、今さら嘘をつく気力もなかった。
ただ、小さくうなずく。
「[gentle]うん。やっぱり」
真琴は、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「[gentle]気づかないふりをしてた。傷つけたくなかったから」
その言葉に、りおの目からまた涙があふれた。
今度は、昨日の涙とは少しだけ違う気がした。絶望だけじゃない。何かがほんの少しだけ、解けたような。
それでも、真琴に気を遣われていたという事実よりも、もっと重い現実がのしかかる。
真琴は、何も変わらなかった。
自分の気持ちに気づいていても、それでも遥を選んだわけじゃない。でも、自分を選んでくれるわけでもない。ただ、優しく距離を置かれただけ。
それはそれで、また別の種類の痛みだった。
りおは膝の上に顔を伏せた。声を殺して、でも今度は少しだけ声が出て、泣いた。
真琴は何も言わずに、ただ隣にいてくれた。
波の音が、二人の沈黙を埋める。
しばらくして、真琴が静かに口を開いた。
「[gentle]次は、りおちゃんが自分で、遥に言いに行けるか?」
その声は、問いかけというより、確認だった。
りおはすぐには答えられなかった。
でも。
首を横には振らなかった。
それが、今の自分の精一杯の答えだった。
空は、いつの間にか朝の光で満ちていた。
灰色だった海が、少しずつ青さを取り戻していく。潮の香りが、さっきよりも強くなった。これから満ち潮になるんだと、遠くの波の形が教えている。
真琴はゆっくりと立ち上がった。
「[gentle]僕はもう少しここにいる。海、見てたいから」
りおは顔を上げた。涙でにじんだ視界の向こうで、真琴が少しだけ笑っている。その笑顔は、いつもの完璧な優しさじゃなくて、どこかほっとしたような表情だった。
「[gentle]ありがとう、ございます」
声はまだ震えていたけれど、今までで一番、本当の言葉だった。
りおは立ち上がり、制服のスカートについた砂をはらった。それから、灯台への遊歩道を戻り始める。少しだけ足取りが軽くなった気がするのは、気のせいかもしれない。
その頃、岩鳶高校の屋上では。
葉月渚が一人、手すりにもたれて空を見上げていた。
コンクリートの床の冷たさが、スニーカーの底から伝わってくる。海の方から風が吹き抜けて、屋上のフェンスをかすかに揺らした。
(昨日、俺は何をしちゃったんだろう)
頭の中は、まだぐちゃぐちゃだった。怜の告白。自分の叫び。全員を傷つけたこと。
目を閉じると、りおが床にしゃがみ込んで泣いていた姿が浮かぶ。
(りおちゃんを、泣かせた)
一番泣かせたくなかった人を、一番泣かせてしまった。
その罪悪感だけが、重く胸に沈んでいる。
ガチャリ。
屋上のドアが開く音がした。
振り返らなくても、誰だかわかった。
「[serious]渚」
静かで、抑揚の少ない声。
渚は手すりに手を置いたまま、振り返らなかった。金色の目が、遠くの海を見つめている。
怜は渚の隣に立った。背筋が伸びたきれいな姿勢。黒縁の眼鏡の奥の目は、昨日と変わらず、まっすぐに渚だけを見ている。
怜は謝らなかった。
昨日の部室でのことを、悪かったとも言わなかった。
ただ、静かに口を開いた。
「[serious]振られてもいい」
風が、二人の間を吹き抜けた。
「でも、君が僕を見てくれない理由を知りたい」
その声には、怒りがなかった。悲しみや恨みもない。本当にただ、知りたいだけだという静けさが、そこにはあった。
渚は壁を向いたまま、何も言えなかった。
「[serious]君はずっと、あのマネージャーの先輩を見てた。でも昨日、君は別の人のことも好きだと言った。僕には、それがわからない」
怜の声は、まるでパズルを解くみたいに淡々としている。
渚はぎゅっと手すりを握りしめた。金属の冷たさが、手のひらに食い込む。
「[sad]……うるさいな」
いつもの明るい声は、もう出なかった。
「俺、自分でもわかんねえんだよ。りお先輩のことが好きで、でも真琴先輩のことも気になって、どっちがなんなのか全然わかんなくて」
言葉が、次から次へとあふれてくる。
「[crying]昨日、りお先輩が泣いてるの見て、もう嫌だった。何とかしようと思って、でも俺、何もできなくて、全部ぐちゃぐちゃで。真琴先輩のことは、多分、恋愛じゃないんだ。ただ、ああいう大人になりたいって、憧れてただけなんだと思う」
渚の声が震えた。
今まで言葉にできなかったことを、無理やり引きずり出されるみたいに、次々と口にしている。
「[crying]りお先輩を泣かせたくなかっただけなのに、結局俺が一番泣かせて、もう本当に、どうしていいかわかんなくて」
目頭が熱い。でも、泣くわけにはいかない。泣く資格なんて、自分にはないと思った。
怜は黙ってその言葉を聞いていた。
渚が言い終わるのを待ってから、静かに口を開いた。
「[gentle]じゃあ、りお先輩のことは本当なんだ」
渚は壁を向いたまま、「うん」とだけ言った。
その瞬間だった。
怜が、小さくため息をついた。
「[sad]……そうか」
渚は思わず振り返った。
怜は、笑っていた。
でも、その笑顔は、今まで見たこともないくらい傷ついていて、見ているだけで胸が痛くなるような笑顔だった。口元は笑っているのに、目の奥はまったく笑っていない。
(こいつ、こんな顔で笑うんだ)
渚は初めて、怜の気持ちの重さを肌で感じた。
今まで、怜の気持ちを軽く考えていたわけじゃない。でも、ちゃんと向き合っていなかった。自分のことで精一杯で、正面から考えるのを避けていた。
そのことを、今、突きつけられた気がした。
「[whispers]……ごめん」
声が、かすれた。
怜は、もう一度小さく息をついて、それから屋上のドアの方へ歩き出した。
「[gentle]謝らなくていい」
振り返らずに、そう言う。
それから、少しだけ立ち止まって、静かに言った。
「[gentle]君の気持ちが聞けて、よかった」
ドアが開き、閉まった。
渚は一人で屋上に残された。
風が吹き抜けて、手すりがまたかすかに揺れる。海の向こうでは、朝日がすっかり昇って、海面を黄金色に輝かせていた。何かに向き合ったことと、それでも変わらない痛みが、胸の中で混ざり合う。
午後。
りおは灯台からの帰り道を歩いていた。
スマホを取り出し、迷いながらもLINEを開く。遥のトーク画面を表示させた。
そこには、何の変哲もない過去のメッセージが並んでいる。練習時間の確認とか、忘れ物の連絡とか。そんな、当たり前の日常の記録だけ。
指を置く。
でも、何も打ち込めなかった。
画面を閉じて、また歩き出す。
うしお通り商店街の入口、カフェ「ムラサキ」の前を通りかかった時だった。
りおの足が、止まった。
窓越しに、見覚えのある横顔が見えた。
七瀬遥が、一人で窓際の席に座っている。ストローをくわえて、緑色のクリームソーダをぼんやりと見つめていた。
青い目が、グラスの中の炭酸の泡を追っている。表情はいつも通り無表情で、何を考えているのかわからない。
でも、真琴がいない土曜の午後に、一人でここにいる。
(遥先輩も)
あのキスが、恋愛じゃなかったとしたら。
真琴が遠くに行くと聞いて、繋ぎ止めたくて、でもそれ以外の方法がわからなくて、あんなことをしたのなら。
遥もまた、自分の気持ちを持て余しているのかもしれない。
りおの胸が、痛んだ。
この横顔に、一目惚れした。
あの日も、こんな風に一人で水を見つめていて、まるでこの世界のどこにも属していないみたいな、そんな孤独な背中だった。
好きになったのは、その孤独だったのかもしれない。
誰にもなびかない、誰のことも必要としていないように見える、その寂しさに、自分を重ねたのかもしれない。
りおは、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
扉を開けようか。
今すぐ、中に入って、自分の気持ちを伝えようか。
でも、足が動かない。
拒絶されるかもしれない。またあの時みたいに、空気みたいに扱われるかもしれない。
その恐怖が、足をすくませる。
結局、りおは扉を開けられなかった。
「[whispers]……でも」
小さく、誰にも聞こえない声でつぶやく。
「今夜、自分の言葉で、伝えよう」
それは、自分自身への約束だった。
まだ怖い。震えている。
でも、何もしなければ、何も変わらない。ずっとこのまま、誰の一番にもなれないまま、マネージャーとして部室の隅でみんなを見ているだけだ。
それは、もう嫌だった。
りおはスマホをぎゅっと握りしめて、カフェの前を離れた。
胸の奥には、まだ決意と呼ぶにはあまりにも小さな火が、でも確かに、灯っていた。