猫の物語
短毛で琥珀色の瞳の黒猫が主人公の短編物語
猫の物語 - 第5話 チャコール
霧煙る17世紀後半のロンドン。
石畳の路地、木造の古い家々、そしてパブから漏れる陽気な歌声。そんな激動の時代のイングランドに、一匹の特別な黒猫がおりました。
名は**「チャコール」。
ベルベットのように滑らかな、短い黒毛に覆われたしなやかな体を持ち、その顔に輝く琥珀色の瞳**は、まるで磨き抜かれた宝石のように夜闇で怪しく光ります。
当時、イングランドでは黒猫は「魔女の使い」として恐れられることもありましたが、チャコールはその圧倒的な賢さと敏捷さで、人間たちの思惑の裏を飛び回っていました。
『時計塔のチャコールと秘密の暗号』
1666年、初秋のロンドン。
チャコールの縄張りは、テムズ川沿いにある古びた時計塔の周辺でした。彼の主な仕事は、塔の木材をかじるネズミを捕らえること。しかしこの時期、街には不穏な空気が流れていました。
ある夜、チャコールが時計塔の梁の上で毛繕いをしていると、下層の暗がりに二人の男が忍び込んでくるのが見えました。一人は、この塔を管理する時計職人。もう一人は、怪しげな外套を羽織った見知らぬ男です。
「準備はいいな? 火薬の仕込みはすべて終わった。この合図の書簡を、明日の夜までにフランスの密使へ届けねばならん」
男たちがそんな不穏な密談を交わし、一通の封書を机に置いたときです。
チャコールの琥珀色の瞳が、鋭く光りました。彼には言葉の意味は分かりませんでしたが、男たちが放つ「焦り」と「悪意」の匂いを、敏感に察知したのです。
男たちが立ち去った瞬間、チャコールは梁から音もなく飛び降りました。
そして、机の上の封書を鋭い爪で引っ掛け、口にくわえると、開いた窓から夜の闇へと飛び出しました。
「おい! 泥棒猫だ! 捕まえろ!」
背後で男たちの怒鳴り声が響きますが、短毛で引き締まったチャコールの体は、風を切り裂くように滑らかに動きます。入り組んだレンガ造りの建物の屋根を飛び移り、煙突の影に身を潜め、追手を完全に撒きました。
チャコールが向かったのは、街で評判の若き学者、サミュエル・ピープスの邸宅でした。ピープスは以前、怪我をしたチャコールを手当てしてくれた恩人であり、この街で数少ない「黒猫を愛する人間」だったのです。
ピープスの書斎の窓を前足で叩き、チャコールは室内へ滑り込みました。
口からポトリと落とされた封書を見て、ピープスは目を丸くしました。
「おや、チャコール。今夜は妙な手土産を持ってきたな……ん? これは……!」
ピープスが手紙を開くと、そこにはロンドンの主要な建物の地図と、不自然な暗号が並んでいました。それは、街に大火を放ち、混乱に乗じて王政を揺るがそうとする反逆者たちの計画書だったのです。
「大変だ、すぐに近衛兵を動かさねば!」
ピープスが慌てて部屋を飛び出そうとしたその時、窓の外からパチパチと不穏な音が聞こえてきました。計画はすでに動き出していたのです。パン屋の密集するプディング・レーンの方角から、真っ赤な炎が夜空を焦がし始めていました――歴史に名高い「ロンドン大火」の始まりでした。
街はまたたく間に炎に包まれ、人々はパニックに陥りました。
ピープスもまた、重要な日記や財産を抱え、煙の巻く路地で立ち往生してしまいます。どちらへ進めば安全なのか、人間には分かりません。
その時、ピープスの前に、琥珀色の瞳を爛々と輝かせたチャコールが現れました。
「にゃあ!」と鋭く鳴くと、黒猫は炎の薄い方向へと走り出します。短い黒毛に火の粉を浴びながらも、チャコールは持ち前の野生の勘で、煙の流れる向きを読み、安全なテムズ川へと続くルートを見抜いていたのです。
「チャコール、君についていくよ!」
ピープスは黒猫の背中を追いかけ、燃え盛るロンドンの街を必死に駆け抜けました。
翌朝、ロンドンの街の大半は灰燼に帰していましたが、チャコールの導きにより、ピープスをはじめ多くの人々がテムズ川の船へと逃れ、命を救われました。さらに、チャコールが届けた手紙のおかげで、火事に乗じた反逆の陰謀は未然に防がれたのです。
川辺に避難したピープスは、煤で少し汚れたチャコールをそっと抱き上げました。
「君は悪魔の使いなんかじゃない。このロンドンを救った、最高の黒い天使だ」
チャコールは、ピープスの腕の中で誇らしげに琥珀色の瞳を細めると、いつもと変わらない様子で、ゴロゴロと静かに喉を鳴らすのでした。