時は平安。華やかな貴族文化が花開く京の都。 内裏(だいり)の奥深く、帳(とばり)の陰から琥珀色の瞳をきらりと光らせる、一匹の美しい黒猫がおりました。 名は**「墨丸(すみまる)」**。 烏の濡れ羽色のように艶やかな、短い毛並みを持つ引き締まった体躯の猫です。時の帝(みかど)に深く寵愛され、五位の位(位階)を授けられたとも噂される、気高き宮廷猫でした。 これは、人々の雅な営みの裏で、都の闇を駆けた墨丸の、ある一夜の物語。 『墨丸と、消えた調べ』 その夜、宮中では月を愛でる華やかな「清涼殿(せいりょうでん)の夜宴」が開かれていました。 貴族たちが集い、酒を酌み交わし、和歌を詠み合う中、宴の主役であるはずの若き天才雅楽師・源博雅(みなもとのひろまさ)の姿がありません。 博雅は、帝から賜った秘蔵の笛「葉二(はふたつ)」を何者かに盗まれ、青い顔をして庭の植え込みの陰で立ち尽くしていたのです。笛がなければ、帝の前での演奏は叶わず、不敬の罪に問われかねません。 博雅の足元を、墨丸は音もなく通り過ぎました。 「にゃあ(情けない男だ)」 琥珀色の瞳で博雅を一瞥すると、墨丸は短い尾をピンと立て、夜の闇へと溶け込んでいきました。 墨丸には分かっていました。 宴の直前、清涼殿の屋根の上から、怪しげな黒い影が博雅の控室へと忍び込むのを見ていたのです。その影からは、微かに「物の怪(もののけ)」の禍々しい匂いが漂っていました。 墨丸は、唐衣(からぎぬ)の裾を翻して歩く女房たちの間をすり抜け、朱塗りの回廊を風のように駆け抜けます。 月明かりに照らされた彼の黒い毛並みは、まるで闇そのものが動いているかのようでした。 匂いを辿ってたどり着いたのは、今は使われていない寂れた荒殿(あらどの)。 その御簾(みす)の奥で、世にも美しい、しかしどこか人間離れした容貌の**「音霊(おとだま)の精」**が、盗んだ「葉二」を口に当てようとしていました。その精は、人間たちの美しい音楽を妬み、都から全ての音を奪おうと企んでいたのです。 精が笛を吹こうとしたその瞬間、墨丸は荒殿の梁(はり)から音もなく飛び降りました。 「フシューッ!」 鋭い威嚇の声とともに、墨丸の琥珀色の瞳が爛々と輝きます。 驚いた精は、笛を落としそうになりました。黒猫は不吉の象徴とされることもありますが、この墨丸の黒は、邪悪を退ける「陰陽の理(ことわり)」を宿した神聖な黒。その圧倒的な気品と眼光に、物の怪は気圧されます。 精は正体を現し、無数の黒い霧となって墨丸に襲いかかりました。 しかし、墨丸はしなやかな体を躍らせ、鋭い爪で霧を切り裂きます。短い毛並みは風の抵抗を一切受けず、その動きは稲妻のようでした。 最後に墨丸が精の胸元へ向かって力強く跳躍すると、聖なる琥珀色の瞳の光に耐えかねた音霊の精は、悲鳴を上げて夜空へと霧散していきました。 床に残された、美しい竹の笛「葉二」。 墨丸はそれを優しく口にくわえると、再び夜の宮廷を駆け戻りました。 庭で未だにうなだれている博雅の前に、墨丸は音もなく着地し、コトリと笛を置きました。 「これは……『葉二』ではないか! お前が取り返してくれたのか、墨丸!」 博雅は涙を流して黒猫を抱きしめようとしましたが、墨丸はそれを身軽にかわし、ふいっと毛繕いを始めました。 やがて、清涼殿から 朗々と響き渡る博雅の笛の音。 それは月をも動かすような、恐ろしく美しい調べでした。 人々がその音色に酔いしれる中、墨丸はいつの間にか、帝の御座所のすぐ近く、御簾の陰の特等席に戻っていました。 丸くなって目を閉じ、満足そうに「ゴロゴロ」と喉を鳴らす墨丸。その短い黒毛は、宮中の灯火を受けて、まるで深い夜の海のように静かに輝いているのでした。