新選組の屯所で、一番隊組長・沖田総司の羽織に隠れ、土方歳三の厳しい目を盗んでは、二人だけの秘密の白玉団子を分け合っていた黒猫の炭(すみ)。 天才剣士と恐れられる総司が、炭の前でだけ見せる優しい笑顔と、縁側のひだまりは、激動の京の街において何よりも温かい居場所でした。 しかし、そんな愛おしい日常にも、少しずつ、けれど確実に、静かな「影」が忍び寄り始めていたのです──。 『琥珀色の灯火(ともしび) 〜黒猫と天才剣士の約束〜』 京の街を吹き抜ける風が、少しずつ冷たさを帯びていく。 いつものように新選組屯所の屋根の上で、黒猫の炭は丸くなっていた。短い毛並みは墨のように闇へ溶け込み、ただその琥珀色の瞳だけが、宵闇の中でぽつりと、行灯のように明かりを灯している。 けれど最近、炭がその瞳で見守る景色は、少しずつ、しかし確実に変わり始めていた。 「ゴホ、ゴホッ……!」 静まり返った夜の静寂を切り裂くように、激しい咳の音が聞こえてくる。 炭は屋根の瓦を音もなく踏みしめ、いつもの縁側へと飛び降りた。障子の隙間から滑り込むようにして部屋に入ると、そこには布団の上で胸を押さえ、肩を激しく上下させている沖田総司の姿があった。 「……ああ、炭か。ごめんね、起こしちゃったかな」 総司は弱々しく微笑み、寝具から青白い手を伸ばした。かつて木刀を握り、天才剣士と恐れられたその指先は、今や驚くほど細く、かすかに震えている。 炭はそっと近寄り、総司の胸元に温かい体を乗せた。 ゴロゴロと、喉を低く鳴らす。それは炭にできる、精一杯の「大丈夫だよ」という励ましだった。 「温かいな……。君のこの温もりと、お日様の匂いがあるとね、なんだかまだ、僕も戦えるような気がするんだ」 総司は炭の背中を優しく撫でた。 しかし、その手のひらには、以前のような力強さはもうなかった。 時折、総司が口元を覆った白い懐紙に、じわりと赤い血が滲むのを、炭は琥珀色の瞳で見つめていた。炭は獣だ。言葉は話せない。けれど、言葉がわからないからこそ、総司の体に忍び寄る「死の影」の匂いを、誰よりも敏感に感じ取っていた。 土方歳三の厳しい怒鳴り声も、近藤勇の豪快な笑い声も、いつしかこの部屋からは遠ざかっていった。 総司の病状は悪化し、彼は隊の任務から外され、屯所の奥で静養することを余儀なくされた。かつて賑やかだった部屋は、今や隔離された静寂に支配されている。 ある昼下がり。 うららかな春の陽光が、皮肉なほど美しく縁側に差し込んでいた。 総司は枕元に置いてあった小さな紙包みを、震える手で開いた。中には、少し固くなってしまった白玉団子が二つ、入っていた。 「炭、おいで……」 カサリ、という音に反応して、炭が布団のそばへ寄る。 「これね、屯所の若い子が『総司先生に』ってこっそり持ってきてくれたんだ。土方さんに見つかったら、また『規律が緩む!』って怒られちゃうね」 総司はかつてのように悪戯っぽくウインクしようとしたが、その瞼は重く、睫毛は微かに震えていた。 彼は白玉団子を小さくちぎり、炭の口元へと運んだ。 「ほら、お食べ。僕たちの、秘密の甘味だ」 炭はクンクンと匂いを嗅いだ。 お団子からは、総司の汗の匂いと、微かな血の匂い、そして確かな優しさの匂いがした。炭はそれを愛おしそうにハミハミと食べ、それから総司の指先を、ザラザラした舌で丁寧に舐めた。 「くすぐったいよ、炭……」 総司はクスクスと笑った。けれど、その笑い声はすぐに小さな咳へと変わってしまう。 「……ねえ、炭。いつか約束したよね。僕が黒猫になって、君と屋根の上を散歩するって」 総司は天井を見上げ、遠い目をしながら呟いた。 「もし本当に生まれ変われるなら、僕は次は、君みたいな黒猫になりたいな。刀なんか持たずに、ただ君と並んで、お日様の匂いに包まれて、のんびり昼寝をするんだ。それだけで、もう十分だから……」 炭は総司の頬に、自分の濡れた鼻先をそっと押し当てた。 行灯のような琥珀色の瞳が、悲しげに揺れていた。 やがて、新選組は京を離れることになった。 戦況の悪化に伴い、総司は江戸へと送られ、千駄ヶ谷の植木屋の離れで身を隠すように暮らすことになった。 炭は、総司を追いかけた。 新選組の隊士たちが去り、がらんとした屯所には残らなかった。ただひたすらに、あの「お日様の匂い」を放つ青年を求めて、炭は遥かなる道を、影のように寄り添い、ついていったのだ。 植木屋の離れは、静かだった。 庭には初夏の緑が生い茂り、風がそよそよと葉を揺らしている。 布団に横たわる総司は、もう自力で起き上がることもできなくなっていた。 「炭……いるかい……?」 かすれた、消え入りそうな声。 炭は音もなく布団の横に歩み寄り、総司の痩せ細った手のひらに、頭を擦りつけた。 「ああ、そこにいてくれたんだね。もう、目があんまり見えなくて……。でも、君の温もりだけは、はっきりとわかるよ」 総司の手が、弱々しく炭の頭を撫でる。 「ごめんね。約束……守れそうにないや。屋根の上の散歩、一緒に行きたかったな……」 総司の呼吸が、だんだんと浅くなっていく。 炭は、自分が今すべきことを知っていた。 総司の胸の上にそっと飛び乗り、その顔を覗き込んだ。そして、暗闇の中でも絶対に消えない、満月のような琥珀色の瞳を、総司の曇りかけた瞳に向けた。 ──私はここにいるよ、総司。 ──あなたの闇を照らす灯火は、ここにあるよ。 炭は喉を、これまでで一番大きく、温かく、鳴らし続けた。ゴロゴロ、ゴロゴロと。それはまるで、旅立つ青年への、最期の道標のようだった。 「……きれいだな」 総司が微かに呟いた。 「炭の目……まるで、行灯の光みたいだ。暗い夜でも……安心、する……よ……」 その言葉を最後に、総司の手から力が抜けた。 そっと畳の上に落ちた細い指先を、炭はもう一度だけ、ザラザラした舌で優しく舐めた。 しかし、もうあの「お日様の匂い」はしなかった。 京の街ではない。ここは江戸の、静かな夜。 夜の帳が下りる頃、植木屋の屋根の上に、一匹の黒猫がぽつりと座っていた。 炭の短い毛並みは、やはり上質な墨のように真っ黒で、夜の闇に完全に溶けてしまっている。けれど、その大きな瞳だけは、夜空に浮かぶ満月を映して、琥珀色に優しく輝いていた。 炭は、夜空を見上げた。 流れる雲の隙間から、星が一つ、きらりと瞬いたような気がした。 炭は小さく、優しく「にゃあ」と鳴いた。 それは、かつて縁側で、大好きな相棒に返事をした時と同じ、短く温かい鳴き声だった。 炭はこれから先も、この琥珀色の瞳を輝かせ続けるだろう。 いつか、自由な黒猫となったあの青年が、自分を見つけて、隣に並んで屋根の上を歩き始める、その日のために。 二人の約束は、今も夜風の中で、静かに生き続けている。