京の街に、夜の帳が下りる頃。 壬生(みぶ)にある新選組の屯所(とんしょ)の屋根の上で、一匹の黒猫が琥珀色の瞳をきらりと輝かせていました。 彼の名前は炭(すみ)。短い毛並みはまるで上質な墨のように真っ黒で、闇に紛れると完全に姿を消してしまいますが、その大きな瞳だけは、満月のように怪しく、そして温かく輝いていました。 新選組の隊士たちは皆、荒くれ者ばかり。けれど、炭には特別な「相棒」がいました。一番隊組長、沖田総司です。 『新選組の黒猫と、天才剣士の灯火(ともしび)』 あるうららかな春の昼下がり。炭はいつものように、沖田の部屋の縁側で丸くなっていました。 そこへ、激しい稽古を終えた沖田が、木刀を片手に「ふう」と息をつきながら戻ってきます。 「やあ、炭。今日もいい特等席を見つけてるね」 沖田は人懐っこい笑顔を浮かべると、炭の隣にどさりと腰を下ろしました。 炭が「にゃあ」と短く鳴いて琥珀色の目を細めると、沖田は汗を拭った手で、炭の顎の下を優しく撫で始めます。 「炭の毛は、お日様の匂いがする。いいなぁ、君は毎日のんびりお昼寝が仕事で。僕も一日だけでいいから、黒猫になって君と屋根の上を散歩してみたいよ」 沖田がクスクスと笑うと、炭は「ゴロゴロ……」と喉を鳴らし、お返しとばかりに沖田の細い指先をザラザラした舌で舐めました。天才剣士と恐れられる沖田も、炭の前ではただの優しい青年に戻るのでした。 新選組の局長である近藤勇や、副長の土方歳三は、炭が屯所に出入りするのを「ネズミ捕りに役立つから」と黙認していました。しかし、土方は隊士たちが猫を甘やかすのを見つけると、「規律が緩む!」と大目玉を食らわせます。 ある日、沖田が懐から小さな紙包みを取り出しました。中に入っていたのは、京の街で買ってきた白玉団子です。 「しーっ、炭。声を出したら土方さんに没収されちゃうからね」 沖田は悪戯っぽくウインクすると、お団子を小さくちぎり、炭の前に差し出しました。炭はクンクンと匂いを嗅ぎ、嬉しそうにそれをハミハミと食べます。 その時、廊下から「ドタドタ」と足音が聞こえてきました。土方の足音です。 沖田は慌てて残りの団子を口に放り込み、炭を自分の羽織の中にすっぽりと隠しました。 「おい、総司。ここに猫はいなかったか? さっき廊下で黒い影を見たんだが……」 不機嫌そうな土方が部屋を覗き込みます。 「え? 猫ですか? 見てませんよ、土方さん。僕、ずっと一人で次の任務の書面を読んでいたところです」 沖田は澄ました顔で嘘をつきます。羽織の中で、炭は土方の厳しい視線を感じ取り、琥珀色の目をまん丸にして、じっと息を潜めていました。 土方が怪訝そうな顔のまま去っていくと、二人は顔を見合わせ、沖田は声を殺して笑い、炭はホッとため息をつくように「にゃう」と鳴きました。 夜になると、京の街は一転して物々しい空気に包まれます。新選組の任務は命がけです。 ある激しい局中法度(ルール)の取り締まりから戻った夜。沖田の部屋の障子に、かすかな傷がついていました。刀の風を浴びて帰ってきた沖田は、どこか疲れた表情で布団に横たわっています。最近、彼は時折、胸を押さえて苦しそうに咳き込むことが増えていました。 炭はそっと部屋に忍び込み、音もなく布団の傍らへ歩み寄りました。 「……炭か。起こしちゃったかな」 沖田の声はいつもより少し掠れていました。炭は何も言わず、沖田の胸の上に、そっと自分の温かい体を乗せました。そして、自分の琥珀色の瞳で、沖田の少し青白い顔をじっと見つめます。 「温かいね……。君の目は、まるで行灯(あんどん)の光みたいだ。暗い夜でも、それを見ていると安心するよ」 沖田は愛おしそうに炭の背中を撫で、炭はその手のひらに力を与えるように、何度も何度も喉を鳴らし続けました。 暗闇に溶ける黒い毛並みと、夜を照らす琥珀色の瞳。 炭は知っていました。この若き天才剣士が、どれほど重いものを背負い、どれほど命を燃やして生きているかを。 だからこそ炭は、彼が屯所にいる間だけは、全力でただの「優しい総司」に戻れる時間を、明日も、その次の明日も、贈り続けようと決めているのです。