時は平安、寛平(かんぴょう)の世。 のちに「日本最古の猫日記」として歴史に名を残すこととなる、一匹の美しい黒猫がおりました。 名はまだありません。ただ帝――宇多天皇からは、我が子のように深く、熱烈に愛されていました。 これは、唐(から)の国より先代の光孝天皇へ献上され、若き宇多天皇へと受け継がれた、琥珀色の瞳を持つ短毛の黒猫の物語。 『寛平の墨染(すみぞめ)』 御所の庭に、しんしんと夜の闇が降りてくる頃。 宇多天皇は、政務の疲れを癒やすかのように、机の上で筆を走らせていました。その傍らには、まるで夜の闇をひとかけら切り取ってきたかのような、艶やかな毛並みの黒猫が座っています。 「他の猫はどれも薄い灰色のものばかりだが、この猫は格別だ。まるで純黒の墨のようであり、歩く姿は雲の上の黒龍のようでもある」 帝は愛猫を見つめ、思わず口元をほころばせました。 黒猫は、まるで自分の美しさを褒められているのを理解しているかのように、琥珀色の瞳をきらりと輝かせ、短く「にゃあ」と鳴きました。 この黒猫に対する宇多天皇の愛情は、宮中のおおきな噂の種でした。 帝は毎日、この猫に最高級の「お粥」を自らの手で与えていたのです。 ある日のこと、あまりの可愛らしさに、帝は身近に仕える内侍(ないし)へ自慢げに言いました。 「見てごらん。この子が丸くなって寝ているときは、まるで黒い絹の鞠(まり)のようだ。そしてひとたび伸びをすれば、その体はどこまでも しなやかに伸びる。これほど完璧な生き物が他にいるだろうか」 内侍は微笑みながらも、「帝、あまりにお心を奪われませぬよう。お粥を毎日手ずからお与えになるなど、前代未聞にございます」と、少し呆れたように窘(たしな)めました。 すると黒猫は、ふいっと内侍の方へ顔を向け、まるで「余計なお世話だ」と言わんばかりに冷ややかな視線を向けました。短毛の引き締まった体を気高く震わせ、帝の膝の上へと飛び移ったのです。 「ははは、怒らせてしまったようだね。良いのだ、この子は私だけの特別な友なのだから」 帝は満足そうに、猫の喉のあたりを優しく撫でました。猫はすぐに目を細め、ゴロゴロと幸せそうな音を奏で始めます。 ある夜、帝は一冊の布子(日記)を開きました。 今日という日を、そしてこの愛しい存在を歴史に残すために、漢文で熱い想いを綴り始めます。 「我が猫の色の黒きこと、墨の如し……」 「伏するときは、団(まる)きこと綟子(もじ)の弾(まり)の如し……」 「他の猫に比ぶれば、実(まこと)にこれ夜の霊物なり」 帝が筆を動かすたび、その墨の匂いに誘われて、黒猫は白く細い筆の先を前足でちょんちょんとつつきました。 「これこれ、墨がついてしまうよ」と苦笑いする帝。 しかし、その筆先についた墨よりも、目の前にいる猫の毛並みの方が、ずっと深くて美しい黒なのでした。 ――それから数百年が経った未来でも、この宇多天皇の『寛平御記(かんぴょうぎょき)』に書かれた黒猫の記録は、人々へ受け継がれることになります。 歴史に愛された黒猫は、今夜も帝の温かい膝の上で、琥珀色の瞳を閉じ、静かに夢を見るのでした。