江戸の朝は、小気味よい音とともに明けていく。 長屋の朝積(あさづみ)の賑わい、天秤棒を担いだ棒手振(ぼてふり)の声、そして――。 「あッ、玄(げん)さんだ! 玄さんがこっちを見てるよ!」 神田の路地裏で、小さな女の子が歓声を上げた。 声をかけられたのは、一匹の黒猫だ。泥ひとつない漆黒の短毛は、朝日に濡れて上等なビロードのように艶めいている。そして何より目を引くのは、その顔の真ん中で爛々と輝く、満月のように美しい琥珀色の瞳だった。 この黒猫の玄は、界隈では知らない者のいない「大人気アイドル」だった。 当時の江戸では、黒猫は「夜目が利く(暗闇でも全てが見通せる)」ことから、家の中に忍び込む悪霊や災い、泥棒といった「あらゆる魔や厄を追い払ってくれる福猫」として、拝みたいほどに重宝されていたのだ。 「玄さん、今日も我が家の魔を払っておくれよ」 「こっちへおいで、美味い鰯(いわし)の頭をあげるからね」 人間たちの勝手な下心と親愛の声を背中に受けながら、玄は「フン」と小さく鼻を鳴らし、しなやかな尾を揺らして屋根の上へと飛び上がった。人間は大げさで騒がしい。だが、彼らがくれる魚は悪くない。玄はそんな風に、気ままな江戸の暮らしを謳歌していた。 しかし、その年の夏。玄の琥珀色の瞳は、江戸の町に忍び寄る「本当の危機」を捉えることになる。 『江戸の福猫は夜を駆ける』 ある日の夕暮れ、玄がたどり着いたのは、神田の端にある古びた割長屋だった。 そこの一角に、腕は良いが極端に貧しい飾り職人の宗次(そうじ)と、その娘で七歳になる「おちよ」が暮らしていた。 宗次は今、人生をかけた大仕事に挑んでいた。 江戸でも指折りの大店から、大名家の姫君が婚礼で身につける、極細工の金銀の簪(かんざし)の製作を依頼されたのだ。これが成功すれば、長屋暮らしを抜け出し、おちよに新しい着物を買ってやれる。宗次は寝食を忘れて、毎夜、小さな行灯の光を頼りに鏨(たがね)を振るっていた。 だが、数日前から、おちよは夜になると怯えるようになった。 「お父う、夜になるとね、天井の裏や床の下から、たくさんの『黒い目』がこっちを見てるの……。なんだか、お父うの大事な簪を狙っているみたいで怖いよ」 「おちよ、それはただの気の迷いだ。お前が寝不足だからだよ」 宗次は優しく笑ったが、その手は疲労でわずかに震えていた。 屋根の上からその様子を見ていた玄の琥珀色の瞳には、おちよの言う「黒い目」の正体がはっきりと見えていた。 それは、人間には見えないただのネズミではない。 長屋の床下に何十年も溜まった泥や湿気、そして近隣の貧しい人々の「妬み」や「不安」といった負の感情が混ざり合い、実体化しつつある**「厄(やく)の獣たち」**だった。それらは、宗次が作り出す目おどろくほど美しい簪の「輝き」に引き寄せられ、それを食い荒らそうと、暗闇の中で爪を研いでいたのだ。 その夜、おちよが長屋の裏口でぽつんと座っていると、玄がふらりと足元に降りてきた。 「あ……琥珀の目の、黒猫さん」 おちよの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。おちよは小さな手で、玄のあたたかい黒毛をそっと撫でた。 「黒猫さんは、夜の悪いものを追い払ってくれるんだよね? お願い、お父うを守って。お父うの大事な簪を、守って……」 玄は、じっとおちよの顔を見つめた。 いつも大店の大旦那たちが向けてくる「欲まみれの拝金主義」とは違う、純粋で、ひたむきな願い。 玄は「ニャア」と短く鳴くと、おちよの手のひらに、自分の冷たい鼻先をきゅっと押し付けた。 (しょうがない。今夜の魚の代金は、先払いで受け取ってやるか) その夜の江戸は、新月だった。 文字通りの一寸先も見えない漆黒。風すらも止まり、不気味な静寂が長屋を包み込む。 宗次は疲れ果てて床に就き、おちよも小さな寝息を立てていた。 丑三つ時。 ついに「それ」が動き出した。 「カサリ……カサカサ……」 長屋の床下から、どろりとした影が這い上がってくる。それは何百匹ものネズミの形をしていながら、身体は煙のように揺らめき、目は濁った赤色に光っている「厄の獣」の群れだった。 獣たちは、宗次の作業台の上に置かれた、完成間近の美しい銀の簪へとまっすぐに這い寄っていく。 だが、その暗闇を切り裂くように、二つのまばゆい琥珀色の光が灯った。 「――フシューーーーッ!!」 作業台の上に立ちはだかったのは、玄だった。 昼間ののんびりした姿とは一転、全身の短毛を針のように逆立て、鋭い爪をきらりと光らせている。 玄の琥珀色の瞳には、完全な闇の中でも、厄の獣たちの動きがすべて止まって見えるほど鮮明に映っていた。 わくわくするような狩猟の本能が、玄の身体を駆け巡る。 シャッ! と玄が虚空を引っ掻くと、鋭い風の刃のような霊力が走り、先頭の厄獣を消し飛ばした。 しかし、敵の数があまりにも多い。床下の闇から、次から次へと赤い目が湧き出してくる。 (ふん、数だけは一丁前だな!) 玄は作業台からひらりと飛び降りると、長屋の狭い梁(はり)の上を、風のような速さで駆け抜けた。 ドタバタと音を立て、わざと器物を取り落とす。どきどきするような大立ち回りだ。玄は棚の上の木箱を蹴り飛ばし、厄の獣たちの頭上に叩きつけた。 激しいキャットアクションが展開される中、玄は巧みに獣たちを宗次の作業台から引き離し、長屋の外へと誘導していく。 おちよの父親の大事な仕事を、絶対に汚させはしない。 長屋の前の狭い路地へ飛び出した玄を、無数の赤い目が包囲する。 厄の獣たちが一体化し、巨大な黒い影の化け物となって玄に襲いかかった。冷たい風が吹き荒れ、路地の泥が舞い上がる。 玄は力強く地面を蹴り、巨大な影の顔面めがけて真っ直ぐに跳躍した。 その瞬間、玄の脳裏に、昼間に出会った人間たちの声が響いた。 「玄さん、お守り代わりだ」 「いつも町を守ってくれてありがとうね」 江戸の人間たちが、黒猫である玄に日々注いできた「福猫への信仰」と「感謝の念」。それらが今、玄の小さな身体の中で、爆発的な光のエネルギーへと変わっていく。 玄が空中でその琥珀色の瞳をカッと見開いた瞬間、夜の闇を完全に打ち消すほどの、黄金の光が路地いっぱいに溢れ出した。 「ニャーーーーーオ!!!」 それは、魔を切り裂く大江戸の福猫の咆哮だった。 黄金の光に直撃された厄の化け物は、悲鳴を上げる暇もなく、まばゆい光の中に溶けるようにして霧散していった。 気がつけば、東の空から、優しくあたたかい朝の光が差し込み始めていた。 江戸の町に、いつもの平和な朝が戻ってきたのだ。 「うわあ……! なんて綺麗なんだ……!」 翌朝、宗次の部屋から感動の叫び声が上がった。 完成した銀の簪は、朝の光を浴びて、まるで生きているかのように神々しく輝いていた。夜間の激しい戦いの影響か、それとも玄の霊光を浴びたせいか、簪には一切の曇りがなく、見る者すべてを惹きつける至高の逸品へと仕上がっていたのだ。 「お父う、すごい! これできっと、お侍様も大喜びだね!」 おちよは飛び上がって喜び、それから、ふと部屋の隅を見た。 そこには、激しい戦いで少しだけ毛並みを乱した玄が、ちょこんと座って前足を舐めていた。 玄の琥珀色の瞳と、おちよの目が合う。 「あ、黒猫さん!」 おちよは駆け寄り、玄をそっと抱きしめた。 「ありがとう。約束、守ってくれたんだね。夜、とっても綺麗な金色の光が見えたの。黒猫さんが、お父うとおちよを守ってくれたんだね」 小さな腕の、あたたかいぬくもり。 宗次もまた、すべてを察したように、玄の前に深く頭を下げた。 「玄さん……あんたが、俺たちの厄を払ってくれたんだな。本当に、ありがとうございました」 宗次は、なけなしの銭で買ってきた、一番等活きのいい小魚を丁寧にほぐし、玄の前に差し出した。 大店でもらう贅沢な鯛の塩焼きに比べれば、それは本当に小さく、素朴な食事だった。 だが、玄は嬉しそうに喉を「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と、これまでになく大きな音で鳴らした。 おちよが優しく背中を撫でてくれる中で食べる小魚は、江戸のどの高級料亭の料理よりも、格別に美味しかった。 数日後、宗次の簪は見事な高値で買い取られ、親子の暮らしには温かい笑顔が戻った。 今日もまた、江戸の街には「黒猫を見かけたぞ! 縁起が良い!」とはしゃぐ人間たちの声が響いている。 玄は、新しく買ってもらったおちよの鮮やかな着物の裾をふりふりと追いかけた後、ひらりと高い屋根の上へと駆け上がった。 青く澄み渡る江戸の空の下、玄の琥珀色の瞳は、大好きな人間たちが暮らすこの活気ある町を、今日も愛おしそうに見守り続けている。