1912年4月。イギリスのサウサンプトン港から、世界最大の豪華客船タイタニック号がニューヨークへ向けて出航しました。「神でさえ沈められない不沈船」と称えられたその巨大な船の底には、華やかなドレスやタキシードに身を包んだ貴族たちの賑わいと、それを静かに見つめる一対の琥珀色の瞳がありました。 短い黒漆の毛並みを船の影に溶かし、機関士たちに愛された一匹の黒猫、名前は「ジェニー」。 これは、歴史の大きな渦に巻き込まれた豪華客船と、その最期を見届けた小さな命の記憶です。 『不沈船の迷子 〜タイタニック号の黒い幸運〜』 タイタニック号の心臓部である巨大な機関室は、常に石炭の煙と、熱い蒸気の唸り声に包まれていた。 黒猫のジェニーは、じっとりと汗をかいた機関士たちの足元を、ビロードのような短い黒漆の毛並みを揺らしながら悠然と歩いていた。 「おいジェニー、こっちへ来い。特等席を開けておいたぞ」 そう言って煤(すす)で汚れた顔をほころばせたのは、若い機関助士のトムだった。トムは毎晩、一等客室の厨房からこっそり分けてもらった最高級のローストビーフの端切れを、ジェニーのために持ってきてくれた。 ジェニーが琥珀色の瞳を細めて肉を平らげると、トムはごつごつした温かい手で、彼女の顎の下を優しく撫でる。 「お前がこの船にいてくれるから、俺たちは守られているんだ。不沈船の幸運の守り神、それがお前さ」 タイタニック号のような巨大な船には、食料をネズミから守る「船乗り猫(シップス・キャット)」が欠かせない。しかしそれ以上に、何週間も暗い船底で過酷な労働を続けるトムたちにとって、ジェニーの「ゴロゴロ」という喉の鳴き声とお日様のような温もりは、過酷な現実を忘れさせてくれる唯一の救いだった。 出航から4日目の夜。1912年4月14日。 海は鏡のように静まり返り、空には吸い込まれそうなほどの星空が広がっていた。ジェニーはいつも通り、トムのハンモックの足元で丸くなっていた。 ──ズズズン。 深夜、船底を鈍い振動が駆け抜けた。人間たちには気付かないほど小さな揺れ。しかし、ジェニーは弾かれたように起き上がり、琥珀色の瞳を大きく見開いた。 鼻腔をくすぐったのは、いつもと違う匂い。それは、凍りつくような冷たい海水の匂いと、鉄が悲鳴を上げる不穏な気配だった。 やがて、機関室は怒号の渦へと変わった。 「氷山に衝突した!」「浸水が止まらない!」「おい、ポンプを回せ!」 トムは必死にバルブを回し、押し寄せる冷たい水と戦っていた。彼の顔からは、いつもの優しい笑顔が消えていた。 船の電力を維持するため、そして一人でも多くの乗客を救命ボートに乗せるため、トムたち機関員は絶望的な状況のなか、退路を断って働き続けた。 水が膝の高さまで迫ったとき、トムはふと足元を見た。そこには、びしょ濡れになりながらも、じっと自分を見つめるジェニーの琥珀色の瞳があった。 「ジェニー……! なんでここにいる、逃げろ!」 トムはジェニーを抱き上げ、衣服のなかに押し込もうとした。しかし、ジェニーは静かに「にゃあ」と鳴き、トムの手のひらをザラザラした舌で舐めた。 ──私はどこにも行かないよ、トム。 「だめだ、お前だけでも助かるんだ」 トムは涙で顔を濡らしながら、ジェニーを抱え、まだ浸水していない上層甲板へと続く梯子へと駆け上がった。 たどり着いた一等客室のデッキは、パニックに陥った人間たちと、冷たい夜風で混沌としていた。トムは最後の救命ボートが海へと下ろされるのを見つめ、その中にいた一人の親切そうな女性の足元へ、ジェニーをそっと滑り込ませた。 「ジェニー、生きろ。お前は、俺たちの幸運の猫だからな」 それが、トムの最後の言葉だった。 トムは回れ右をすると、まだ明かりが灯る、けれど確実に沈みゆく船底の機関室へと戻っていった。残された仲間たちのために、最期まで電力を送り続けるために。 ボートが船から離れていく。 冷たい海の上、ボートの底で丸くなりながら、ジェニーはただじっと、巨大なタイタニック号を見つめていた。 またたく間に傾いていく船体。そして、深夜2時20分。世界一の豪華客船は、轟音とともに真っ二つに割れ、大西洋の冷たい闇の底へと姿を消した。船の灯りが完全に消えたその瞬間、ジェニーの琥珀色の瞳から、大好きな青年の姿も永遠に失われた。 数日後、救助されたジェニーは、ニューヨークの港にいた。 見知らぬ土地、賑やかな街並み。ジェニーを拾ってくれた女性は優しく、毎日温かいミルクをくれた。 けれど、ジェニーは夕暮れ時になると、いつも港の見える静かな屋根の上に登った。 短い黒漆の毛並みは、ニューヨークの夜の闇に溶けていく。 ただその大きな瞳だけが、はるか東の、冷たい大西洋の空を見つめて、琥珀色にぽつりと輝いていた。 ジェニーは知っていた。あの不沈船の底で、最期まで命の灯火を燃やし続けた優しい青年たちのことを。言葉は届かなくても、彼らがくれたローストビーフの味も、顎を撫でてくれた手のひらの温もりも、この胸の中にずっと生きている。 「にゃあ」 ジェニーは、夜風に向かって小さく鳴いた。 それは、暗い船底で、大好きな相棒にいつも返していたのと同じ、温かい挨拶だった。星空の下、黒い幸運の守り神は、今夜も遠い海で眠る大切な人たちへ、静かな祈りを捧げ続けるのだった。