世界一の繁栄を誇る唐の都・長安。 きらびやかな宮廷や異国の品々で溢れる市街の裏側では、常に妖しげな噂と、権力を巡る陰謀が渦巻いていました。 人間たちが私欲のために騙し合い、五感を狂わせる中、そのすべてを静かに見つめる一対の「琥珀色の瞳」がありました。 短い黒漆の毛並みを闇に溶かし、音もなく長安の夜を駆ける黒猫。その名は「玄(シュエン)」。 これは、言葉を持たぬ一匹の黒猫が、都を揺るがす怪事件の真相を暴く、ある一夜の記録です。 『長安の夜、琥珀の瞳はすべてを見る』 大明宮(だいめいきゅう)の屋根の上から見下ろす長安の夜は、まるで星をぶちまけたように輝いていた。 黒猫の玄(シュエン)は、西域から伝わった香油の匂いが漂う夜風を浴びながら、琥珀色の瞳を細めていた。 玄には、この大明宮のなかで、毎晩のように美味しい「お裾分け」をくれるお気に入りの人間がいた。若き宮廷絵師の李(リー)だ。李は、猫の姿にはインスピレーションを刺激する神秘の力があると信じており、玄を見つけるといつも、長江から運ばれた新鮮な魚の干物を差し出してくれた。 しかし、その夜の李の部屋は、いつもと様子が違っていた。 部屋の灯りは消え、静まり返っている。玄が障子の隙間から音もなく滑り込むと、そこには濃厚な「血の匂い」が立ち込めていた。 琥珀色の瞳が暗闇を捉える。床に倒れていたのは、李ではない。時の権力者、楊(ヤン)宰相の親族である高官だった。背中を鋭い短刀で刺されている。 そしてその傍らで、李が血のついた衣服をまとい、放心状態で座り込んでいた。 「違う……私は殺していない。部屋に戻ったら、すでにこの方が……」 すぐに、異変を察知した近衛兵たちの足音が近づいてくる。李は罠にはめられたのだ。捕まれば、弁明の余地なく死罪。玄は李の指先をザラザラした舌で一度だけ舐めると、窓から夜の闇へと飛び出した。 ──相棒の無実を証明する。それが、極上の干物をくれた人間への、玄なりの義理だった。 玄は、鋭い嗅覚とすべてを見通す琥珀色の瞳を頼りに、事件の夜の長安を疾走した。 まず目をつけたのは、現場の床に落ちていた「一枚の牡丹の花びら」。 今の季節、長安に牡丹は咲かない。唯一、ある場所を除いては。玄は西の市(にしのいち)にある、ペルシャの商人が営む幻の香水店へと向かった。屋根裏から忍び込み、店主の会話に耳を澄ます。 「例の『毒牡丹の香油』は、無事に大明宮の仕え人に渡しただろうな?」 「へえ、禁軍(近衛兵)の隊長殿に。あれを嗅いだ者は、一刻の間、手足の自由が利きなくなります」 謎が繋がった。犯人は、香油で高官の動きを止め、殺害したのだ。そして、その罪を絵師の李に着せた。衣服の血は、李が倒れた高官を抱き起こした時についたものに違いない。 問題は、どうやって人間の裁判官にそれを伝えるかだ。猫の言葉は人間には届かない。 翌朝、宮廷の広場で李の公開尋問が始まろうとしていた。引き立てられる李の顔は青ざめている。裁くのは、件の禁軍の隊長。自ら仕組んだ罠で、李を処刑しようとしていた。 その時、式典の屋根から、一筋の「黒い影」が飛び降りた。玄だ。 「ニャアオォォン!」 裂けるような鳴き声とともに、玄は禁軍隊長の胸元へ目掛けて弾丸のように飛びかかった。驚いた隊長が身をよじる。玄の鋭い爪が、隊長の懐を正確に引き裂いた。 パラパラと、床に落ちたのは小さな硝子の瓶。そして、現場にあったものと全く同じ、不自然に瑞々しい「牡丹の花びら」だった。 瓶が割れ、辺りに強烈な牡丹の香りが広がる。最前列にいた高官の護衛兵たちが、ハッと目を見張った。 「これは……殺害現場の遺体から漂っていた香油と同じ匂いだ!」 どよめく広場。隊長は顔を真っ赤にし、「この不吉な黒猫を殺せ!」と剣を抜いた。 しかし、玄はすでにその刃を軽々と身をかわし、高い回廊の上へと駆け上がっていた。 残された証拠の前で、隊長は言い逃れができなくなり、その場で他の兵たちに取り押さえられた。李の無実は、言葉を持たぬ黒猫の「一撃」によって証明されたのだ。 数日後。 事件の興奮が冷めやらぬ長安の街に、また静かな夜が戻ってきた。 大明宮の縁側で、李は新しく仕入れた最高級の魚の干物を、誇らしげに胸を張る玄の前に置いた。 「ありがとう、玄(シュエン)。君が僕の無実を教えてくれたんだね。君のその琥珀色の瞳には、人間の嘘なんてすべてお見通しだったわけだ」 李は愛おしそうに玄の顎の下を撫でる。玄は満足げに「ゴロゴロ」と喉を鳴らし、お日様のような温かい目で李を見つめ返した。 長安の夜を統べる黒い名探偵は、今夜も大好きな人間の平穏を守り抜き、静かにその美しい瞳を閉じるのだった。