9世紀の北欧、フィヨルドの風がまだ冷たい春の初め。男たちがロングシップ(バイキングの長大な遠征船)に乗って西の海へと旅立つと、残された農場は一気に女性たちの戦場へと変わります。 村外れにある大農場を切り盛りするのは、家長であるアストリッド。彼女は毎朝、腰にジャラジャラと青銅製の鍵の束をぶら下げ、奴隷や農民たちにテキパキと指示を飛ばす、誰もが恐れる「鉄の女主(おんなあるじ)」でした。 しかし、そんな彼女の威厳が、我が家の中でだけは1ミリも通用しません。 暖炉の特等席で、カラスの羽のようにツヤツヤした短い黒毛を丸め、夕暮れの太陽のような琥珀色の瞳でアストリッドを見下ろしているのは、黒猫のコール。彼は自分がこの農場の「真の王」であると、一片の疑いもなく信じていました。 『琥珀色の瞳と青銅の鍵』 その日、アストリッドの農場は朝から緊迫した空気に包まれていました。なぜなら、村の重要な民会・裁判である**「シング(Thing)」**が、数日後にこの農場の広間で開かれることになったからです。 当時の北欧において、シングは法律を決め、争いごとを裁く最も神聖な場。近隣の村々から有力者や、法律の暗唱者である「法官」たちが一堂に会します。もてなしを失敗すれば、アストリッドの名声は一落ち、最悪の場合は土地の権利すら危うくなります。 「みんな、手を動かしておくれ! 床には新しい藁(わら)を敷き詰めて、壁には極上のタペストリーを飾るんだ。ハニーミード(蜂蜜酒)の樽も一番いいやつを出して!」 アストリッドが声を張り上げる中、コールは長机の上をトコトコと優雅に歩いていました。 「にゃお(邪魔だ)」 コールは、アストリッドが真剣な顔で確認していた**「ルーン文字が刻まれた木片」**(当時の記録媒体であり、会議の議事メモのようなもの)の上に、どっかりとお尻を乗せました。 「ちょっと、コール! どいておくれ、それは大事な法律のメモなんだよ」 アストリッドが退かそうとすると、コールは琥珀色の瞳を細め、前足で木片を「チョイ、チョイ」と机の端へ。 「あ、ダメ、落ちる――」 カツン。 木片は床の溝へと吸い込まれていきました。 「フニャー(これで私を撫でる時間ができたな)」と満足げに喉を鳴らすコール。アストリッドは額に青筋を立てながらも、神聖な猫を叱ると「女神フレイヤの呪い」がかかると信じられていたため、ぐっとこらえてコールの顎の下を激しく(しかし丁寧に)撫で回すしかありませんでした。 シングの当日、広間には髭モジャの屈強な男たちや、着飾った女性たちが集まり、熱気で溢れかえっていました。 その中には、近隣で最も頑固で気難しいとされる首長、トールケルの姿もありました。彼は「法律に書かれていないことは一切認めん」という堅物で、猫という生き物が大嫌いなことでも有名でした。 当時の法律(グラーガース法など)では、猫は「ネズミを捕る神聖な財産」として保護されており、他人の猫を殺した場合は「雄牛1頭分の罰金」を支払う義務があるほど価値が高かったのですが、トールケルは「あんな気まぐれな獣に雄牛1頭の価値などない」と公言していたのです。 宴が始まり、大樽からハニーミードが注がれ、雄牛のローストが運ばれてきます。アストリッドの見事なもてなしに、トールケルも満足げに髭を揺らしていました。 「ふむ、アストリッド。見事な宴だ。お前がこの土地を正しく治めていることがよく分かる」 アストリッドがホッと胸をなでおろした、その瞬間。 トールケルの豪華な「熊の毛皮の帽子」の影から、2つの琥珀色の光が不気味に浮かび上がりました。 いつの間にか、コールがトールケルの椅子の背もたれに登っていたのです。 コールにとって、トールケルが被っている熊の毛皮の帽子は、どう見ても**「巨大で非常に生意気な未知の獲物」**にしか見えませんでした。 お尻をフリフリし、照準を合わせるコール。 アストリッドは遠くからそれを見つけ、顔面蒼白になりました。(やめなさい、コール! その男を怒らせたら、うちの農場の税金が3倍になる!)と言葉にならない視線を送ります。 しかし、バイキングの黒猫に、人間の政治など関係ありません。 「ニャァァァオウ!」 コールはトールケルの頭上めがけてダイブしました。 宴のパニックと、コールのバイキング戦術 「うおァァァ!? 何だ、何が起きた!?」 静まり返っていた広間に、トールケルの絶叫が響き渡りました。 コールはトールケルの頭の上で、熊の毛皮の帽子と激しい「死闘」を繰り広げています。バリバリと爪を立て、短い黒毛を逆立てて大立ち回り。トールケルは巨体を振り回して暴れ、テーブルの上のハニーミードの角杯が次々とひっくり返りました。 「首長! 動かないで!」 アストリッドが叫びながら駆け寄ったとき、コールはトールケルの頭から飛び降りました。コールの爪には、見事に仕留められた(ちぎれた)熊の毛皮の破片が握られています。 トールケルは帽子を叩きつけ、怒りで顔を真っ赤にして立ち上がりました。 「アストリッド! なんだこの無礼な化け物は! 私の神聖な帽子を愚弄するとは、タダでは済まさんぞ! 法律に則り、この場で――」 その時でした。 コールの琥珀色の瞳が、別のものを捉えました。宴会のごちそうの匂いに釣られて、広間の隅の藁から、丸々と太った「本物の大ネズミ」が顔を出したのです。 コールは一瞬で「仕事モード」に入りました。 先ほどまでのパニックが嘘のように、音もなく伏せ、床を這うように進みます。その動きは、まさに夜闇に乗じて敵の村に忍び寄るバイキングの奇襲そのもの。 全員が息を呑んで見守る中、コールは弾丸のように跳びました。 パシィィィン! 見事な一撃。コールはトールケルの足元で、農場の天敵である大ネズミを完璧に仕留めてみせたのです。 広間は静まり返りました。 コールは仕留めたネズミをトールケルのブーツの前にポイと置くと、ふん、と鼻を鳴らし、自分の前足をペロペロと舐め始めました。「これが私の本来の価値だが、何か文句あるか?」とでも言いたげな態度です。 トールケルは足元のネズミと、堂々とした黒猫を交互に見つめました。 当時の法律において、蔵の穀物を守るネズミ捕り猫の価値は絶対です。しかも、これほど見事な腕前を見せつけられては、法律家としてのプライドが邪魔をして文句が言えません。 トールケルは深くため息をつき、乱れた髪を整えながら言いました。 「……ふむ。グラーガース法・第12条。穀物を守る優秀な猫は、雄牛1頭分、いや、この腕前なら雄牛2頭分の価値があると言わざるを得ん。アストリッド、お前の農場がネズミの害から守られているのは、この『小さな戦士』のおかげというわけだな」 アストリッドは心の中でガッツポーズをしながら、にっこりと微笑みました。 「ええ、首長。コールは我が農場の誇り高き守護者でございます。トールケル様の帽子に不敬を働いたのは、その……帽子があまりに見事な毛皮だったため、生きている熊と勘違いしたのでしょう」 その絶妙なお世辞に、トールケルは悪い気がせず、「そうか、私の毛皮が本物すぎたか! ハッハッハ!」と上機嫌で笑い出しました。こうして、農場の危機は脱したのです。 その夜、シングの参加者たちが帰り、静まり返った広間で、アストリッドはぐったりと椅子に座り込んでいました。 腰の鍵の束を外して机に置くと、その音を聞きつけたコールが、待ってましたとばかりにトコトコと歩み寄ってきます。そして、アストリッドの膝の上に飛び乗り、一番偉そうな態度で丸くなりました。 「まったく、お前ってやつは……」 アストリッドは呆れながらも、コールのツヤツヤした黒い背中を優しく撫でました。コールは琥珀色の瞳を満足げに閉じ、家中に響き渡るような大きなゴロゴロ音を鳴らし始めます。 外の海ではバイキングの男たちが命がけで戦っていましたが、この北欧の小さな農場では、今夜も女主人の鍵の音と、それを支配する黒猫のゴロゴロ音だけが、平和に響いているのでした。