猫の物語 - 第16話 クロ
月明かりが照らす、古びた神社の屋根の上。そこは、この街の猫たちにとっての最高裁判所であり、社交場であり、そして今夜は「史上最も不毛な大論争」の舞台となっていた。
『我こそは、福猫である!』
事の発端は、数時間前の夕暮れ時。神社に一人の受験生がやってきて、最高級マグロ缶のフタをパカリと開けて差し出し、こう呟いたのだ。
「ここにいる一番縁起のいい猫にお願いです。どうか僕を合格させてください!」
受験生が去ったあと、残されたのは最高級のマグロ缶。それは、たったの一つ。対して、そこにいた猫は数匹。
「おい、誰がこれを食べる?」
「そりゃあ、一番縁起がいい、つまり『最も福猫なやつ』が食うべきだろ」
こうして、己のプライドと胃袋を賭けた、仁義なきマウント合戦が幕を開けたのである。
漆黒の短毛を夜空に溶け込ませ、琥珀色の瞳をギラリと輝かせる猫――彼こそが、この物語の「一応」の主人公である黒猫の「クロ」だ。クロは屋根の棟に堂々と立ち、高らかに宣言する。
「聞け、愚かなる同胞たちよ! この缶詰は私がいただく。世界を見渡せば、黒猫こそが真の福猫だ。イギリスでは富と繁栄を運ぶ神の使い! 日本でも江戸時代には結核を治す魔除けとされていた。つまり、この街の運気は、この私の一存で決まっているのだ!」
しかし、その言葉を鼻で笑ったのが、毛並みを完璧に整えた三毛猫のオス、通称「ミケ男」だ。
「やれやれ、クロ。古い慣習を持ち出すとはね。少しは遺伝学を学びたまえ。私は『オスの三毛猫』だ。数千分の一という奇跡の確率で生まれたこの私こそが、古来より船乗りたちに『遭難を避ける宝』として命がけで崇められてきたのだよ。そこら中にいる黒い毛玉と一緒にしないでほしいね。缶詰は僕のものだ」
ミケ男のドヤ顔に、周りの男気あふれる野良猫たちが「さすがミケ男!」「圧倒的レアリティ!」と歓声を上げる。
「ちょっと待ちなさいよ。レアリティならこっちだって負けていないわ」
鋭い声で割って入ったのは、左右の瞳の色が違うオッドアイの美しい白猫、「ルナ」だ。片方は神秘的な青、もう片方は輝く黄色。
「私のこの瞳は、天と地を見通す。タイの王室では、オッドアイは『幸せを呼ぶ守護神』としてお城で大切にされてきたの。男の子たちってすぐ確率だの歴史だの言うけれど、この美しさこそが至高の福。その汚いお口で最高級缶詰を食べようなんて100年早いわ」
クロは尻尾を逆立てた。
「いや、この琥珀色の瞳には、飼い主がちゅ〜るの袋を開けるタイミングが正確に映る! それこそが実用的な福だ!」
さらに、少し曲がった尻尾を誇らしげに振る、サビ猫の「おんぶ」がひょいと現れた。
「まあまあ、美しさじゃお腹は膨らまないわよ」
おんぶは、まるで幸運を引っ掛けてくる釣り針のような「カギしっぽ」を見せつける。
「私はカギしっぽ。欧州じゃ『幸運を引っ掛けて離さない十字架』、日本じゃ『財産を貯め込む蔵の鍵』。アンタたちがどんなに福を呼んだって、私がその尻尾で引っ掛けてキープしなきゃ意味ないでしょ? だから缶詰は私が管理(完食)するわ」
「ちょっと、そこの錆びた鍵さん、私の存在を忘れてもらっちゃ困るわね」
大きな足音を立てて現れたのは、ふくよかな体型をした大柄なサバトラの「おトメ」だ。
「私は海外で『マネー・キャット』って言われてるのよ! この縞模様が魚の骨に見えるから、漁師たちに大豊漁をもたらすってね! この立派な体格を見なさい、これぞ豊穣の神、福猫の完成形よ! 缶詰を食べる資格があるのはこの私!」
神社の上は、たちまち大騒然となった。
「レアな僕が一番!」
「神秘的な私が上よ!」
「引っ掛ける私が最強!」
「マネー・キャットの私にひれ伏しなさい!」
クロは苛立った。自分の黒い毛並みは、どんな暗闇にも目立たず、完璧なハンターの姿なのに、なぜこうも「福」という概念でマウントを取られ、缶詰が遠のいていくのか。
その時だ。
「おい、お前ら! 喧嘩はやめろ!」
屋根の下から、場違いなほどデカい声が響いた。近所のボスの老猫、「トラ吉」だ。彼はただの茶トラで、特に珍しい特徴はない。
「福猫? 幸運? お前ら、そんなのどうでもいいんだよ」
トラ吉はガリガリに痩せた体に似合わない鋭い眼光で、屋根の上の面々を見上げた。
「俺はな、今まで一度も『福』なんて呼ばれたことはない。だがな、俺がここにいるおかげで、この神社の参拝客は『猫がいる!』って喜んで、毎日こうして新しい餌を持ってくる。お前らがレアだの何だのと自尊心を満たしている間に……俺はさっき、その受験生が置いていった缶詰を、もう全部平らげちまったよ。それが本当の『福』じゃねぇのか?」
「「「「「えっ!?」」」」」
一同がトラ吉の足元を見ると、そこには綺麗に舐め尽くされた、空っぽの最高級猫缶が転がっていた。
静寂が訪れた。屋根の上のお偉いさんたち(自称)は顔を見合わせる。
「……食べられた」
「私たちの議論は何だったの……」
クロはハッとした。自分の「福猫アピール」に夢中になっている間に、目の前の缶詰を失ったのだ。行動力のあるただの茶トラが、一番の幸福(マグロ)を掴み取っていた。
「俺たちは……ただの口だけ猫だったのか……」
クロが琥珀色の瞳を寂しく揺らした瞬間、神社の境内に、カシャリとカメラのシャッター音が響いた。
「あ! すごい! 屋根の上に黒猫と、オスの三毛猫と、オッドアイの白猫と、カギしっぽのサビ猫と、サバトラがいる! なんて珍しい! 今日はなんて運が良い日なんだ!」
先ほどの受験生が、スマホを向けて大興奮している。どうやら、彼らが缶詰を巡って一触即発のメンチを切り合っていた姿が、人間にとっては奇跡の「福猫大集合」に見えたらしい。
クロはスッと背筋を伸ばした。
「……見たか、みんな。どうやら俺たちが集まったこと自体が、この人間に最大の福を呼んだようだな」
ミケ男も胸を張る。
「ふっ、私の計算通りさ」
ルナが美しい瞳を輝かせる。
「私の美しさに引き寄せられたのね」
おんぶが尻尾を振る。
「私のカギが、あの人間の足を引っ掛けたのよ」
おトメがドスドスと前に出る。
「お参りしなさい! お金を持ってきなさい!」
クロがみんなに号令をかける。
「さあ、ポーズを決めようか。幸運の使者として!」
結局、猫たちの「福猫対決」は、人間を大喜びさせるという形で幕を閉じた。
興奮した受験生は、「お礼に追加です!」と、今度は猫缶をまるごと1パック(4個入り)すべて蓋を開けて置いていった。
「よし、今度こそ分配だ!」
「私は2個よ!」
「僕がレアだから1.5個!」
「おい待て、残りの0.5個を4匹で分ける気か!?」
「早いもの勝ちでしょ!」
(クチャクチャ、ペロペロ……)
大激論の最中、どこからか、至福そうに何かを貪る音が聞こえてきた。
ハッとして一同が視線を下ろすと、そこにはすでに1缶目を空け、2缶目に突入しようとしている茶色の影。
「「「「「トラ吉ぃぃぃぃぃぃ!!!!!」」」」」
神社の夜空に、福猫たちの悲痛な叫びがこだました。
――翌日、SNSには「神社の屋根に奇跡の福猫大集合! 拝んだら模試のA判定出た!」という投稿が溢れ、猫たちは今日も神社で「福」を振りまきながら、ちゃっかり高級おやつを頂戴するのであった。
「……で、明日の作戦は?」
「明日の夕方、またあの屋根の上でメンチの切り合いだ」
クロの琥珀色の瞳は、今日も明日も、仲間たちと共にちゃっかりと本物の幸運を招き寄せている。
「ああ、言い忘れたが……トラ吉には伝えるなよ」Noveliaとは?
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