地中海の強い太陽が、マルタの街をハチミツ色に染め上げていく。 ヴァレッタの丘の上、アッパー・バラッカ・ガーデンからは、紺碧のグランドハーバーが一望できた。行き交う白いクルーズ船を眺めていた観光客の足元に、一匹の影が滑り込む。 艶やかな、短い黒毛。男爵のように引き締まった体躯。その猫が顔を上げた瞬間、観光客は小さく息を呑んだ。 陽光を浴びてらんらんと輝く、燃えるような琥珀色(アンバー)の瞳。 「美しい目だろう?」 不意に声をかけてきたのは、ベンチに腰掛けた地元の老人だった。深く刻まれた目尻の皺を優しく崩し、老人はポケットから取り出したキャットフードをそっと地面に置く。黒猫は慣れた様子でそれを食べ、満足そうに喉を鳴らした。 「今でこそ、この島は世界中から『猫の楽園』なんて呼ばれているがね。昔からそうだったわけじゃない。むしろ、人間にとって猫はただの害獣か、不吉な影だった時代もあるのさ」 遠い海を見つめる老人の瞳に、過去の光景が映っているようだった。 「これはね、マルタがまだ猫の島と呼ばれる前――世界を旅する一匹の『船乗り猫』と、この島を気高く生き抜いた『島猫』の、古い恋の物語さ。今のマルタ猫たちが、なぜこんなにも勇敢で、そして人懐っこいのか。その答えが、ここにあるんだよ」 老人のしゃがれた声が、ハチミツ色の石畳に溶けていく。 時計の針が、150年以上の過去へと巻き戻り始めた。 『ハチミツ色の島に、琥珀の帆を上げて』 19世紀半ば。イギリスの大型交易船『レディ・アイリス号』が、グランドハーバーの重厚な波を割って入港した。 船首のキャットヘッド(錨床)に座り、大英帝国の威厳を体現するかのように海を見下ろしているのは、黒猫のノアだった。 ノアは生まれながらのシップスキャット(船乗り猫)だ。船内のネズミを駆除し、嵐の予兆を敏感に察知する彼は、船乗りたちから「幸運を呼ぶ黒猫」として神聖視されていた。コックからは毎晩新鮮な肉を分け与えられ、船長のキャビンで眠る。それがノアの日常であり、世界だった。 「おい、ノア。また退屈そうな顔をしてやがるな」 背後から声をかけたのは、片耳がちぎれた大柄なサバトラの老猫、バーナビーだった。幾度もの嵐を乗り越え、まもなく退役を迎えるノアの兄貴分だ。 「今回は船の修理でしばらく錨を下ろすそうだ。だがな、ノア。陸(おか)に降りても、地元の野良猫どもには近づくなよ。あいつらは飢えていて、泥臭くて、俺たち船乗り猫とは住む世界が違う」 「わかっているさ、バーナビー。僕は船の王だ。陸の乾いた土は、僕の肉球には少し硬すぎる」 ノアは琥珀色の瞳を細め、軽やかにタラップを駆け下りた。それが、退屈な滞在期間の、ほんの気晴らしのつもりだった。 港の市場は、活気と魚の生臭さで満ちていた。 ノアがハチミツ色のライムストーン(石灰岩)の路地を歩いていると、突然、激しい怒声が響いた。 「泥棒猫め! ぶち殺してやる、あっちへ行け!」 飛んできたのは、木製の魚箱の破片だった。 逃げてきたのは、驚くほど美しい、淡いハチミツ色の毛並みを持った雌猫だった。彼女の名前はエレナ。 そのエメラルドグリーンの瞳は、人間に追われながらも、決して恐怖に屈しない気高い光を放っていた。 「おい、余所者。見惚れてる暇があったらそこを退きな!」 エレナはノアの横を風のようにすり抜け、狭い壁の隙間へと飛び込んだ。ノアが呆然とその場に立ち尽くしていると、背後のゴミ箱から、もう一匹のすばしっこいサバトラ猫が飛び出してきた。エレナの幼馴染、トニオだ。 「へえ、見慣れない上等な毛並みだな、お坊ちゃん」 トニオはノアの周囲をぐるぐると回り、品定めするように鼻を鳴らした。 「イギリスの船から降りてきたってか? 首輪なんかつけられちゃって、人間の奴隷が何の用だ。ここは俺たちの縄張りだ、さっさと船に帰りな」 「私は奴隷ではない。船の相棒だ」 ノアが威嚇するように背中の毛を逆立て、琥珀色の瞳を鋭く輝かせた。一触即発の空気が流れたその時、壁の隙間からエレナが顔を出した。 「やめなよ、トニオ。人間に見つかったら面倒。……あんたも、お高くとまった船乗り猫さん。この島で生きていきたいなら、その綺麗な毛並みを汚さないように気をつけることね」 エレナは冷ややかにそう言い残すと、トニオを促して路地の奥へと消えていった。 残されたノアの胸には、今まで感じたことのない奇妙な高鳴りが残っていた。 その夜、ノアはバーナビーの忠告を無視して、再び船を抜け出した。 月光に照らされたヴァレッタの街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、まるで巨大な彫刻の迷宮のようだった。 ノアは持ち前の鋭い嗅覚で、昼間のハチミツ色の毛並みの香りを追いかけた。急な坂道を上り、城壁の隅へとたどり着いた時、頭上から鈴の転がるような声がした。 「本当に物好きな猫。船にいれば安全に美味しいご飯が食べられるのに」 見上げると、月を背負ったエレナが、城壁の細い縁を危なげなく歩いていた。 「僕は世界の海を見てきた。だが、君のような色の猫はどこにもいなかった。だから、君のことが知りたくなったんだ」 ノアがまっすぐに琥珀色の瞳を向けると、エレナは一瞬だけ驚いたようにエメラルドの目を丸くし、それからふっと物憂げに目を伏せた。 「私たちは、あんたたちとは違うの。明日のご飯がどこにあるかもわからない。人間は気まぐれで、機嫌が良い時はパンの屑を投げてくれるけど、悪い時は石を投げつけてくる。この島で生きるっていうのは、戦い続けることよ」 エレナはそう言うと、静かに歩き出した。ノアは黙って彼女の後を追った。 エレナが案内してくれたのは、島で最も高い丘にあるアッパー・バラッカ・ガーデン、そしてかつての古都イムディーナの静寂な路地だった。月光に洗われたハチミツ色の石壁が、二匹の影を長く引き伸ばす。 路地を歩いていると、足音が響いた。地元の住人が通りかかったのだ。 ノアはいつものように、挨拶代わりに尾を立てて近づこうとした。しかし、エレナが鋭い声を出す。 「ダメ! 隠れて!」 エレナはノアの首根っこを咥えんばかりの勢いで、近くの暗がりに引きずり込んだ。直後、男が忌々しそうに足元へ唾を吐き捨てて通り過ぎていった。 「信じられない……。船では、人間は最高の仲間だ。僕が近づけば、みんな笑顔で頭を撫でてくれるのに」 「ここは船の上じゃない。この島では、猫はただの影。誰にも愛されない、ただの背景よ」 エレナの言葉には、深い諦めと、それゆえの強い自立心が滲んでいた。 「でも」と、ノアはエレナのハチミツ色の前足に、そっと自分の黒い前足を重ねた。 「僕は君を美しいと思う。君がこの島を愛していることも、歩き方を見ていればわかる。僕がこの島にいる間は、君の影を一人にはさせない」 エレナは重ねられたノアの足を見つめ、それから恥ずかしそうに顔を背けた。 「……おめでたい頭をしてるのね、船乗りさん」 ぶっきらぼうな口調だったが、そのエメラルドの瞳は、夜の地中海のように優しく揺れていた。二匹の距離が、ハチミツ色の迷宮の片隅で、確かに縮まった夜だった。 イギリス船の滞在が数週間に及ぶにつれ、ノアとエレナの密かな夜の逢瀬は回数を重ねていた。お互いの生き方を認め合い始めた矢先、ハチミツ色の島を、ねっとりとした不穏な暗雲が覆い始める。 始まりは、東方からやってきた正体不明の大型貨物船だった。グランドハーバーの最奥にその黒い船体が錨を下ろした夜、船底の歪んだ隙間から、島猫たちでさえ見たこともない、異様に巨大で凶暴な「外来のドブネズミ」の一群が、音もなく島へと這い上がってきたのだ。 ネズミたちは、瞬く間に港の穀物倉庫を侵食していった。それだけではない。彼らは島にない不潔な疫病の種を街に撒き散らした。 「子供が熱を出した」「市場の荷出しが倒れた」―― ヴァレッタの至る所で、人間たちの悲鳴と奇病の流行が始まり、平穏は一瞬にして崩れ去る。 恐怖は、やがて盲目的な憎悪へと変わった。 「猫のせいだ! あの泥棒猫どもが、どこからか病気を持ってきたんだ!」 根拠のない噂は火がつくように広がり、市場の人間たちは棍棒や松明を手に取り、情け容赦のない「猫狩り」を始めた。昨日まで魚のハラワタを投げてくれた優しい肉屋の親父が、今日は目を血走らせて鉄パイプを振り下ろしてくる。 「くそっ、どいつもこいつも狂いやがって……!」 トニオが泥と返り血にまみれながら、狭い路地を命からがら駆け抜ける。島猫たちは、容赦なく襲いくる人間の手から逃げ惑い、同時に、夜闇の影から鋭い牙を剥いて集団で襲いかかってくる巨大ネズミの群れとも戦わねばならなかった。安住の地だったはずのハチミツ色の迷宮は、一夜にして凄惨な狩り場と化したのだ。 ある夜、激しい雨の中、ノアは街のゴミ溜めの奥で、ボロボロに傷ついたエレナを見つけた。 その美しいハチミツ色の毛並みは引き裂かれ、冷たい雨水に血が滲んでいる。息を切らし、小さな体を震わせながらも、彼女はまだ、押し寄せるネズミの気配にエメラルドグリーンの瞳を鋭く光らせていた。 ノアはたまらずエレナの前に飛び出し、その体を抱きすくめるようにして、胸の奥から絞り出すような声をあげた。 「エレナ、もう限界だ。僕の船に来るんだ。船長に頼めば、君の安全は絶対に保証する。こんな酷い、猫を裏切るような島、もう捨ててしまえばいい!」 ノアの必死の訴えは、本気だった。世界の海を知る彼にとって、何も一つの島に執着する必要などないはずだった。 しかし、エレナは冷たい雨に打たれながら、弱々しく、しかし爪が折れるほど強く石畳を引っ掻き、ゆっくりと首を振った。 「ダメよ、ノア……。ここは、私たちの島。トニオだって、動けないお年寄りの猫たちだって、みんなここで必死に生きてる。人間が私たちを忘れても、私たちはこの島を忘れない。私だけが船に逃げて、ぬくぬくと生き延びるなんて……そんなの、私は絶対に嫌!」 エレナの言葉には、島猫としての、そしてエレナという一匹の雌猫としての、絶対に譲れない誇りが宿っていた。 「分からず屋め! 死んでしまったら、誇りなんて何の意味もない!」 ノアは怒りと、彼女を失う恐怖から激しく叫んだ。 激しい雨の音が、二匹の間に冷たい壁を作る。 お互いを深く想い合っているはずなのに、生きる世界の決定的な違いが、二匹の心を無情に引き裂いていく。救えぬ絶望を抱えたまま、ノアの滞在期限である「出航の朝」が、すぐそこまで迫っていた。 『レディ・アイリス号』の修理が終わり、出航の鐘が鳴る前夜。 ノアの様子がおかしいことに気づいた船長は、彼を安全なキャビンに閉じ込め、鍵をかけてしまった。 「おい、ノア。本当にあの島猫のところへ行くつもりか?」 暗いキャビンの窓枠に、老猫バーナビーが音もなく飛び乗ってきた。その片耳のちぎれた顔には、かつてないほど真剣な眼差しが宿っている。 「船を降りれば、お前はもう『幸運の黒猫』じゃない。ただの、飢えた野良猫になるんだぞ」 「構わないさ、バーナビー。僕の琥珀色の瞳は、暗闇のネズミを捕らえるためにある。でも、それ以上に……あのハチミツ色の光を、闇に消させないためにあるんだ」 ノアの燃えるような瞳を見たバーナビーは、ふっと不敵な笑みを浮かべた。 「まったく、大英帝国のシップスキャットが形無しだな。――おい、下がってろ」 バーナビーは器用に前足を使ってキャビンの天窓のフックを引っ掛け、外枠を緩めた。 「行け、ノア。大英帝国のシップスキャットが、陸のネズミごときに遅れをとるなよ」 老猫バーナビーの不敵な声を背に、ノアは迷わず夜のグランドハーバーへと飛び降りた。 バシャァン! と冷たい漆黒の海がノアの全身を包み込む。本来、猫にとって水は忌むべきものだ。しかし、ノアの心にあるのは、冷たさへの恐怖ではなく、ただ一筋の焦燥だけだった。 (待っていてくれ、エレナ……!) ノアが引き締まった四肢を必死に動かし、波を掻き分ける姿を、バーナビーは甲板の影から静かに見つめていた。 「全く、どいつもこいつも、陸の女に狂いやがって……」 バーナビーはちぎれた片耳をいまいましそうにピクリと動かし、ふう、と小さくため息をついた。 ノアは若い。体も動くし、牙も鋭い。だが、陸のネズミが数千匹もの大群で押し寄せているとなれば、力押しだけでは勝ち目がないことを、百戦錬磨の老猫であるバーナビーはよく知っていた。あいつをただの無鉄砲な死に損ないにさせるわけにはいかない。それが、兄貴分としての不器用なプライドだった。 「おい、新入り。ちょっと手を貸しな」 バーナビーは、物陰で怯えていた若い別の船乗り猫を鋭い鳴き声で呼び寄せた。そして、甲板の隅にまとめられていた、手頃な太さの古い漁網と、丈夫な麻ロープの束を顎で指し示す。 「これを陸まで運ぶぞ。大英帝国のネズミ捕りは、牙だけでやるもんじゃないってところを、島猫どもに教えてやるんだ」 引退間近の老体には堪える重さだったが、バーナビーの目に衰えはなかった。彼は若い猫と二匹がかりで、人間たちに見つからないよう細心の注意を払いながら、係留ロープを伝って、闇に紛れてマルタの岸壁へと静かに上陸を果たした。 ノアが真っ直ぐエレナの元へ駆けていったのに対し、バーナビーは重い網を呼び寄せた仲間と共に引きずりながら、港の地形を素早く観察していた。そして、ネズミの通り道となるであろう地下遺構(カタコンベ)の出口の構造を見抜き、あらかじめ地上側に網を張り巡らせるという「罠」を仕掛け始めたのだった。 ――その頃、ヴァレッタの地下深くには、何世紀も前の人間たちが掘り進めたハチミツ色の迷宮――地下遺構(カタコンベ)が広がっている。ひんやりとした静寂が支配するはずのその暗闇は今、おぞましい「生への執着」と「死の気配」で満ち満ちていた。 「ハァ、ハァ……くそっ、キリがねえ……!」 トニオが荒い息を吐きながら、暗闇に向かって鋭い威嚇の声をあげる。その自慢のサバトラの毛並みは破れ、右耳からは血が滴っていた。 彼らの周囲を取り囲むのは、壁の隙間、崩れた石柱の陰から果てしなく湧き出す、外来の巨大ネズミの群れだった。カサカサ、カサカサと、無数の爪が石を引っ掻く音が反響し、暗闇の中にぎらぎらと光る無数の不気味な赤い目が、じわじわと円を縮めてくる。島猫たちは、すでに数日間にわたる人間からの逃走と、ネズミとの散発的な戦闘で体力を消耗しきっていた。動けない老猫や子猫たちを背後に庇い、戦えるのはエレナとトニオ、そしてわずか数匹の若者だけだった。 「トニオ、下がって。怪我を深くしちゃダメ」 エレナが前に出る。そのハチミツ色の体は泥と雨水で汚れ、かつての美しさは見る影もない。しかし、エメラルドグリーンの瞳だけは、凍てつくような強い光を放っていた。 ジリ、とネズミの包囲網がさらに狭まる。 群れを率いる一際巨大なネズミのボスが、耳を劈くような金属音に似た鳴き声をあげた。それを合図に、十数匹のネズミが牙を剥き、一斉にエレナたちへ飛びかかる。 「来なさい……! ここは私たちの島よ!」 エレナは鋭い爪を剥き出し、迎え撃つために地を蹴った。執拗なネズミの噛みつきをかわし、一匹の首筋を裂く。しかし、多勢に無勢だった。別のネズミの鋭い牙が、エレナの脇腹をかすめる。激痛にわずかに体勢を崩したエレナの死角から、ネズミのボスがその太い顎を開いて彼女の喉元へと飛び出した。 (ここまで、なの……?) 引き裂かれる痛みを覚悟し、エレナが視界をよぎる死の影を睨みつけた、まさにその瞬間だった。 「エレナ――ッ!」 凄まじい咆哮とともに、漆黒の影が空間を横切った。 ノアは空中ですれ違いざまにネズミのボスを組み伏せ、ハチミツ色の石畳へと叩きつけた。鋭い爪がネズミの分厚い皮を切り裂き、ボスは悲鳴をあげて転がっていく。 土煙が舞う中、ノアはエレナの前に立ちはだかり、背中の毛を限界まで逆立てて地響きのような威嚇の声をあげた。その姿は、小さな猫ではなく、一頭の若き黒豹のようだった。 「ノア……? どうして……船へ、戻ったんじゃなかったの……?」 呆然とするエレナに、ノアは振り返ることなく、しかし優しく力強い声で告げた。 「言っただろう。君の影を、一人にはさせないと」 ノアは低く身を構え、溢れんばかりのネズミの群れを琥珀色の瞳で睨み据えた。ボスを痛めつけられたネズミの群れが、一瞬怯み、すぐに倍の凶暴さでジリジリと距離を詰めてくる。 「トニオ、まだ動けるか! エレナを後ろへ! ここからは僕たちの戦い方を見せてやる!」 怪我を負ったトニオが、ノアの圧倒的な佇まいに息を呑み、それからニヤリと血塗れの牙を見せて笑った。 「遅いんだよ、お坊ちゃん……! だが、待ってたぜ!」 島猫達の士気がいっきに上がり、ネズミの群れが再び一斉に飛びかかろうとした…… その時だった。 カタコンベの遥か高い天井――地上へと繋がる古い通気口の隙間から、聞き慣れた野太い声が降ってきた。 「おい、ノア! そこから地上へ続く『北の大通路』へネズミどもを追い込め!」 見上げると、月光が差し込む細い隙間に、ちぎれた片耳を持つ老猫バーナビーのシルエットがあった。 「地上の出口には、船から持ち込んだ漁網とロープで特製の『袋網(トラップ)』を仕掛けてある! そこへ飛び込ませれば、一網打尽だ!」 バーナビーの言葉に、ノアの琥珀色の瞳がパッと輝いた。地上の罠と、地下の頭脳。勝つためのパズルのピースが、完全に揃ったのだ。 「聞いたか、トニオ! 奴らをあの北の通路へ叩き込むぞ! 全員、僕の指示に従え!」 ノアの叫びと同時に、島猫たちの鮮やかな大反撃が始まった。 作戦のゴールが決まったトニオは、そのすばしっこさを極限まで活かし、狭い地下水道の分岐点を縦横無尽に駆け回った。ネズミの群れの横腹を急襲しては逃げ、彼らの意識を巧みにコントロールして、バーナビーの待つ「北の大通路」へと文字通りネズミを分断・誘導していく。 「今よ、みんな! 私たちの家を守るの!」 エレナの鋭い号令とともに、島猫たちが一斉に牙を剥き、ネズミの背中を押し出す。 ノアの黒い毛並みとエレナのハチミツ色の毛並みが、地下の松明の光の中で美しく、激しく躍動する。二匹は背中を合わせ、互いの死角を完璧に補い合いながら、ネズミの大群を通路の奥へと猛烈な勢いで追い詰めていった。 逃げ道を失い、命からがら地上の出口へと一気に駆け上がっていく数千匹のネズミたち。 しかし、彼らがハチミツ色の月光の下へ飛び出した瞬間、待ち構えていたバーナビーが、キチキチに張られたメインロープを鋭い爪で一気に引きちぎった。 ガラガラガラッ! と音を立てて崩れ落ちたのは、強固な漁網の壁。 バーナビーが仕掛けた完璧なトラップにより、ネズミの群れは生きたまま巨大な網の袋へと閉じ込められ、完全に退路を断たれた。 それは、人間の知らない、船乗り猫の知恵と島猫の誇りが融合した、歴史的な夜の総力戦だった。 朝が来ると、激しい嵐が嘘のように去り、ヴァレッタの街にまばゆい黄金色の朝焼けが広がった。 港の人間たちが恐る恐る倉庫街や地下遺構(カタコンベ)を覗き込んだとき、彼らは自分の目を疑った。そこには、街を恐怖に陥れていた巨大ネズミたちの死骸が山をなしていたのだ。そしてその中央、朝日に照らされたハチミツ色の石畳の上で、傷だらけになりながらも、誇り高く胸を張る猫たちの姿があった。 「猫たちが……病気の元を退治してくれたんだ……」 棍棒を握りしめていた人間の手が、がたがたと震え、やがてその武器が地面に落ちた。人々は自らの愚かさを恥じ、猫たちに極上の魚や温かいミルクを捧げ、涙を流して感謝を伝えた。この日を境に、マルタの人々の猫に対する目は180度変わった。猫は「不吉な影」から、「島を守る大切な家族」へと変わったのだ。 人々が歓喜と感謝に沸き返り、島猫たちに次々とご馳走を運び込んでいる喧騒から、少し離れた港の物陰。 朝露に濡れたタラップの手前で、バーナビーは足を止め、振り返った。その視線の先には、エレナを少し後ろに待たせ、まっすぐに佇むノアの姿があった。 「……本当に、あの船長の上等なキャビンを捨てるんだな、ノア」 バーナビーはちぎれた耳をピクリと動かし、ぶっきらぼうに言った。 「ああ。僕の琥珀色の瞳は、もうこの島のハチミツ色の光しか映さないんだ」 ノアが迷いのない声で答えると、老猫はフン、と鼻を鳴らした。 「おめでたい野郎だ。だが、昨夜のお前の戦いぶり……大英帝国のシップスキャットとして、最高の働きだった。俺の自慢の弟分だ」 バーナビーはゆっくりと歩み寄り、ノアの額に、自分の額をゴツンと一度だけ強くぶつけた。猫たちの、言葉のない深い親愛の挨拶だった。 「せいぜい陸の泥にまみれて、幸せになりな。……元気でやれよ」 「ありがとう、バーナビー。あなたも、良い航海を」 バーナビーは二度と振り返ることなく、軽い身のこなしでタラップを駆け上がり、船へと戻っていった。 グランドハーバーに、ボウ、と低く重厚な汽笛が響き渡った。 朝日に照らされた白い帆が、地中海の心地よい風をいっぱいに孕んで膨らんでいく。ノアのこれまでの人生そのものだった『レディ・アイリス号』が、ゆっくりと、しかし確実に港を離れ、水平線の彼方へと動き出していた。 アッパー・バラッカ・ガーデンのアーチの隙間から、ノアはその姿をじっと見つめていた。 遥か眼下、遠ざかっていく船のキャットヘッド(錨床)に、ぽつんと小さな影がある。目を凝らせば、それは片耳のちぎれた老猫のシルエットだった。バーナビーは一度も振り返らなかったが、その尾だけを、高く、誇らしげにまっすぐ立てていた。それはシップスキャットが仲間へ送る、最高敬意の告別だった。 「さようなら、バーナビー。最高の兄貴」 ノアは心の中で小さく呟いた。生まれ育った船が遠ざかっていく。もう二度と、あのふかふかの船長キャビンで眠ることも、世界の未知なる海を旅することもない。けれど、ノアの琥珀色の瞳に寂しさは微塵もなかった。 「……もう、行かなくていいの?」 不意に、隣から鈴を転がしたような声がした。 振り返ると、エレナがエメラルドグリーンの瞳に朝焼けの光を映し、どこか不安げにノアを見つめていた。そのハチミツ色の毛並みが、朝の風に優しく揺れている。 ノアは一歩歩み寄ると、エレナの少し冷えた耳の後ろを、包み込むように優しく舐めた。 「ああ、行かないさ。僕の新しい航海は、このハチミツ色の島で、君と一緒に始まるんだから」 ノアの言葉に、エレナのエメラルドの瞳が嬉しそうに細められた。 二匹はどちらからともなく寄り添い、お互いの体温を確かめ合うように、黒い尾とハチミツ色の尾を静かに絡ませた。 紺碧のグランドハーバーに、船が残した白い航跡が美しく伸びていく。それを包み込むように、マルタの街並みが、どこまでも眩しい黄金色に染まり直していった。 それから、幾度もの季節がハチミツ色の島を通り過ぎていった。 幾世紀にもわたるイギリスの統治が終わり、港に行き交う船が帆船から蒸気船へ、そして巨大なクルーズ船へと変わっても、あの嵐の夜、ライムストーンの石畳に刻まれた小さな肉球の記憶だけは、波の音とともに島に残り続けた。 何世代にもわたる猫たちの命が紡がれ、ハチミツ色の街並みに溶け込んでいく。 そして、時計の針は現在へ。陽光が降り注ぐアッパー・バラッカ・ガーデンのベンチへと、静かに時間は着地する。 「……それがね、この島が『猫の島』と呼ばれるようになった、本当の始まりさ」 老人は静かに語り終えると、ベンチの上で気持ち良さそうに丸くなっている黒猫の背中を、愛おしそうに撫でた。 その黒猫は、小柄ながらも引き締まった体を持ち、南欧の強い太陽を浴びて、まばゆい琥珀色の瞳を細めている。 「ほら、見てごらん、この子の目を。あの船乗り猫ノアと同じ、燃えるような琥珀色だろう? そしてあっちのジンジャー(ハチミツ色)の子は、エレナそっくりのエメラルドの目をしてる」 老人が指差した先では、ハチミツ色のライムストーンの床の上で、数匹の子猫たちが思い思いにじゃれ合っていた。観光客がカメラを向けても、彼らは逃げるどころか、親しげに喉を鳴らして擦り寄っていく。 「船乗り猫の『人懐っこさ』と、島猫の『たくましさ』。二匹が命懸けで遺してくれた宝物がね、今もこの島のあちこちで、のんびりと日向ぼっこをしているんだよ」 遠くグランドハーバーから、現代の大型客船の汽笛がのんびりと響き渡る。 老人は微笑み、愛おしそうに猫たちを見つめながら、最後にこう呟いた。 「さあ、お行き。お前たちの島は、今日も平和だよ」 琥珀色の瞳を持った黒猫は、まるでその言葉を理解したかのように一度だけ短く鳴ると、ハチミツ色の路地の奥へ、軽やかに消えていった。