1888年。ヴィクトリア朝後期のイギリスは、産業革命の最盛期にあった。 ロンドンの東、荒ぶる北海に浮かぶ孤島「オズワルド・エンド」もまた、石炭の煤煙と濃い海霧に包まれた、急速に近代化を遂げた港湾都市である。 この島がこれほど栄えたのは、五十年前、時の領主「オズワルド大公」が最新鋭の蒸気機関を導入し、巨大な紡績工場と、島中を見下ろす壮麗な大時計塔を建設したからだった。島民たちは、大公家を「貧困から救ってくれた聖人」と崇め、工場から吐き出される黒煙を繁栄の証として受け入れた。 しかし、この島には本土のロンドンにはない、奇妙で厳格な「二つの公式ルール」が存在していた。 一つは、「午後八時の鐘を合図に始まる、絶対的な夜間外出禁止令」。 大公家は「夜霧には肺を侵す毒(ミアズマ)が含まれているため」と説明したが、それは都合のいい嘘だった。本当は、ガス灯を消した暗闇のなかで、大公の配下たちが邪魔されずに人間を自由に狩るための時間だった。 もう一つは、「優秀な若い工場労働者は、ロンドンへ出稼ぎに行ける」という栄転制度。 これも残酷な罠だった。選ばれた若者たちは馬車に乗せられて大公の城へと連れ去られ、二度と戻ることはなかった。翌朝の路地裏に、全身の血を抜かれた死体が転がっている理由を、島民たちは富と引き換えに見ないふりをした。 だが、その欺瞞を冷徹に見つめる存在がいた。 大公家が島にやってくる遥か昔、この地がまだ静かな漁村だった頃から、教会の守り神のように生きてきた一匹の黒猫。短く引き締まった漆黒の毛並みと、闇の中で怪しく燃える琥珀色の瞳を持つその猫の名は、エドガー。 彼はただの獣ではない。イギリスの古い伝承に語られる化け猫――「ケット・シー」の血を引く、人智を超えた長寿と神秘の力を持つ怪異であった。 エドガーにとって、オズワルド・エンドは「自分の縄張り(テリトリー)」だった。そこに住む人間たちがのんびりと暮らす居心地の良い空間。それを、大公家はスチームパンクの巨大な家畜小屋へと変え、不気味な死臭で縄張りを汚し始めた。 エドガーが従うのは、正義などという生ぬるいものではない。「我が縄張りを荒らす害獣は駆除する」という、孤高なる猫の王としてのプライドだった。 『銀の薫香、琥珀の眼光』 大時計塔が午後八時の鐘を響かせると、街から一斉に人影が消えた。 規則正しく並ぶガス灯が次々と消灯され、オズワルド・エンドは一瞬にして漆黒と濃霧の底に沈む。 エドガーは、霧に濡れる教会のスレート屋根の上を、音もなく歩いていた。彼の琥珀色の瞳は、光を失った街の細部までを正確に捉えている。 カツン、カツンと、静まり返った石畳を叩く歪な足音が聞こえた。それは人間の歩調ではない。もっと重く、冷たい足取り。この街の絶対的支配者であり、夜の怪物でもある「オズワルド大公」の眷属の足音だった。 50年前、大公は若くして不治の病に冒され、死の恐怖に怯えていた。自らの富と権力、そして命への異常な執着から、彼は北海の採掘場で見つかった未知の「黒い寄生菌」を自らの体内へと取り込んだ。それまで誰もが拒絶反応で破滅したその禁忌の菌に、大公は世界で初めて適合した。こうして彼は、世界中に存在するあらゆる吸血鬼の源流にして、人類史上最初の吸血鬼――『始祖(オリジン)』となったのだ。 そして大公に血を吸われ、菌の因子を分け与えられた部下や島民の成れの果てが、自我を失い夜を徘徊する「眷属」たちだった。 エドガーは屋根から路地へと飛び降り、影に紛れてその眷属を追った。 行き着いたのは、霧に煙るどん詰まりの路地。そこには、背後から襲われたばかりの、若い仕立て屋の娘が組み伏せられていた。 エドガーが物陰から見つめるなか、眷属は娘の首筋に鋭い牙を突き立て、強引に血をすすった。娘が完全に意識を失うと、眷属は手際よく路地の隅にある真鍮製の排水口を開け、そこに娘の首の傷口を押し当てた。 娘の首からドクドクと流れ出た鮮血は、下水道ではなく、その奥に隠された「採血用の真鍮管」へと吸い込まれていく。 これこそが、街の地下に張り巡らされた第三の裏ルール(インフラ)だった。 街中の路地裏にある排水口は、すべて中央の大時計塔へと繋がっている。眷属たちが夜な夜な流し込んだ人間の血液は、蒸気ポンプの力で大時計塔へと集約される仕組みだ。不老不死のエネルギーとして大量の血を消費する大公一族は、街そのものを「効率的な巨大な注射器」へと改造していたのである。 仕事を終えた眷属は、音もなく闇の向こうへと去っていった。 静まり返った路地に、エドガーが近づく。仕立て屋の娘の肌は、すでに蝋人形のように白く冷たくなっていた。 ふと見ると、先ほど娘が激しく抵抗した際、眷属の衣服から引きちぎられたのだろう、鈍い輝きを放つ「銀のボタン」が石畳に転がっていた。ボタンの表面には、大公家の忌まわしい紋章が刻まれている。大公家の人間や、その直属の部下しか身につけることを許されない特別な証だ。 「また、我が縄張りの人間を減らしおって。そしてこの不快な臭い……」 エドガーは喉の奥で低く鳴らした。この黒い寄生菌は人間の遺伝子にのみ適合するため、化け猫であるエドガーの肉体には通用しない。それどころか、エドガーの野生の抗体は、菌を即座に拒絶し死滅させる。 エドガーは地面に落ちていた「大公家の銀のボタン」を鋭い牙でしっかりと咥えると、屋根裏へと跳び上がり、闇の中を駆け去った。 街の片隅、煤けたレンガ造りのアトリエに、エドガーは滑り込んだ。 白磁のランプが灯る部屋で待っていたのは、調香師の青年ジュリアンだ。 「戻ったか、エドガー」 エドガーが口からポトリと落とした「大公家の銀のボタン」を見て、ジュリアンの端正な顔が激しい怒りと、深い哀しみに歪んだ。このボタンは、かつて妹の命を奪ったあの夜の悪夢と、まったく同じものだったからだ。 ジュリアンは元々、大公家にその才能を買われた、お抱えの優秀な薬剤師(調香師)だった。しかし数年前、最愛の妹リリーが「ロンドンへの出稼ぎ」として城に召集された際、その不可解な選出を疑った彼は、夜間に城の地下研究所へと潜入した。 そこでジュリアンが見つけたのは、大公自らが冷徹に記録した『黒い寄生菌による人体変異レポート(生態資料)』だった。 資料によって街の恐るべき真実を知ったジュリアンだったが、時すでに遅く、妹はすでに菌を植え付けられ、大公の実験台として自我を失った眷属と化していた。兄であるジュリアンの顔さえ忘れ、血に飢えた獣のように牙を剥いて襲いかかってきたリリー。ジュリアンは涙を流しながら、研究所にあった未完成の銀の試作薬を彼女に浴びせるしかなかった。 「お兄ちゃん、寒いよ……」 崩壊していく脳の片隅で、一瞬だけ正気を取り戻した妹は、そう呟いてジュリアンの腕の中で静かに灰となって消えた。ジュリアンは狂乱する城からその生態資料だけを掴み取り、妹の遺灰を抱いて命からがら街へと逃げ延びたのだった。 最愛の妹を自らの手で葬るという地獄を見たジュリアンは、それ以来、調香師の看板の裏で、吸血鬼を完全に滅ぼすための兵器開発に全てを捧げていた。 そんなある雨の夜、孤独な復讐者として絶望の淵にいたジュリアンのもとに、大公家の紋章が入った指輪を咥えたエドガーが現れた。 エドガーは、ジュリアンが夜な夜な吸血鬼を殺すための薬香(ハーブ)を調合している匂いを嗅ぎつけ、「この人間なら、あの害獣を駆除する武器を作れる」と見抜いて取引を持ちかけたのだ。 「妹の復讐を果たしたい人間」と、「縄張りを荒らされて怒っている化け猫」 。 言葉は通じなくとも、二人の利害は完全に一致していた。エドガーが夜の街から大公家の動向という現場の情報(スカウティング)を持ち帰り、ジュリアンがそれを分析して対抗手段を精製する。その共同研究が、今夜、ついに結実しようとしていた。 「エドガー、大公の『収穫』は最終段階に入っている。このボタンの主……大公の直属部隊が動いたということは、今夜、街全体の真鍮管を一斉に稼働させ、全島民の血を吸い上げる気だ」 ジュリアンは、完成した「高濃度銀イオンの香炉」を手に取った。 真鍮製の球体内部には小型の蒸気ボイラーが内蔵されており、純銀を強酸で溶かし、資料を元に割り出した吸血鬼の弱点(トリカブトや毒人参のエキス)を配合した特殊な液体を、蒸気の熱で一気に気化させるガジェット。これを吸い込んだ吸血鬼は、血管の内側から銀に侵され、塵となって崩壊する。 大公たちが放つ「催眠の波動」も、化け猫であるエドガーの琥珀色の瞳には一切通用しない。それどころか、エドガーの瞳には菌の精神支配を反射・無効化し、彼らの脳を直接破壊する野生の魔力が宿っていた。 「行こう。この街に、本当の夜明けを取り戻すために」 黒猫と調香師は、音もなく夜の霧へと溶け込んでいった。 真夜中。エドガーとジュリアンは、厳重に警戒された大時計塔の最下層へ達した。 見上げるほどの巨大な鋼鉄の扉。ジュリアンには到底通れない隙間も、エドガーにとってはただの通り道に過ぎない。エドガーは配管を伝って内部に潜入し、内側からボルトを爪で弾き飛ばして扉を開けた。 タラップを登るにつれ、地鳴りのような「ドク、ドク」という不気味な音が大きくなる。 最上階の機関室にたどり着いた二人が目にしたのは、まさに悪夢の結晶だった。 部屋の中央には、真鍮とガラスで出来た巨大な「心臓型の機械装置」が鎮座していた。街中の地下配管から吸い上げられた大量の血液が、ガラス管の中をのたうつように流れ込み、中央のタンクで怪しく脈打っている。 その前で、ヴィクトリア朝の豪奢なフロックコートを着たオズワルド大公が、恍惚の表情で両腕を広げていた。 「素晴らしい。この街のすべての命が、今夜、我が真なる不老不死の糧となるのだ」 大公の背後から、影のような眷属たちが次々と湧き出てくる。ジュリアンは香炉に火をつけ、銀の煙を薄く引き回したが、圧倒的な数の前にジリジリと壁際まで追い詰められていく。 (人間では、あの装置には近づけない……!) 梁の上から見下ろしていたエドガーは、琥珀色の瞳を限界まで見開いた。 ターゲットは、大公ではない。あの装置の底で、蒸気圧をコントロールしている一番太いゴム製の高圧ホースだ。あそこを破壊すれば、システム全体が自壊する。 エドガーは梁から猛然と飛び降りた。 空中を舞う漆黒の影。吸血鬼の鋭い爪がエドガーの毛並みをかすめ、血が滲む。だがエドガーは構わず、ホースへと着地した。 短い四肢に全ての筋力を集中させ、野生の爪を深く、深くゴムの奥へと突き立てる。 さらに、ケット・シーとしての魔力を爪に込め、渾身の力でそれを横に引き裂いた。 「な、何だその狂った黒猫は! 叩き潰せ!」 大公の絶叫。しかし、もう遅かった。 バリバリと音を立ててホースが裂けた瞬間、プシューという凄まじい悲鳴のような音とともに、超高圧の血液と熱い蒸気が機関室中に噴出した。 「ジュリアン、今だ!」と言わんばかりに、エドガーは鋭く鳴いた。 蒸気と血飛沫が吹き荒れる中、ジュリアンは香炉の弁を全開にした。 ボイラーが臨界に達し、超高濃度の銀イオンを含んだ純白の煙が、爆発的に室内に広がっていく。 「ギャアアアアッ!」 煙を浴びた眷属たちが、皮膚を焼き、肺を血に変えながら、次々と灰の塊となって床に崩れ落ちていく。 しかし、すべての吸血鬼の始まりである始祖、オズワルド大公だけは違った。肉体を侵され、狂いながらも、大公は煙を切り裂いてジュリアンに迫った。 「貴様らァ! 我が50年の大業をォ!」 大公の黒く長い爪が、ジュリアンを切り裂こうとしたその刹那。 大公の視界を、圧倒的な「漆黒」が遮った。エドガーが大公の顔面に正面から飛びかかり、その肉球で大公の鼻面を捉えたのだ。 さらに、大公の眼前に、エドガーの「琥珀色の瞳」が至近距離で突きつけられた。 闇の中で燃え盛る、怪しい硝子のような瞳。 エドガーの瞳から放たれる野生の霊格の光は、大公の脳内で暴れ回る「黒い寄生菌」に致命的な拒絶反応を引き起こした。菌の精神支配が完全に無効化され、逆に強烈な恐怖となって大公の精神を直撃する。 「ヒッ……あ、ああ、その眼、その眼は……脳が、燃える……!」 大公は発狂したように頭を抱え、たたらを踏んで後退した。 その先には、ホースの破壊によって制御を失い、異常な高速で逆回転を始めていた時計の巨大なメイン歯車があった。 ガチ、ガチガチガチ! フロックコートの裾が歯車に巻き込まれ、大公の肉体は容赦なく鋼鉄の噛み合わせの中へと引きずり込まれていく。銀の煙に侵され、再生能力を失った大公の身体は、骨ごと噛み砕かれ、黒い塵となって時計の内部へと消えていった。 ジュリアンはその隙に、装置のメイン緊急停止レバーを渾身の力で叩き折った。 ドガァァァン! 限界を迎えた蒸気ボイラーが爆発し、大時計塔の巨大な文字盤が内側から吹き飛んだ。ガラスの破片が、まるで夜空に煌めく星のように、霧の街へと降り注いでいく。 オズワルド・エンドに、五十年間訪れることのなかった「本物の朝日」が差し込もうとしていた。 崩壊した時計塔の頂上から、重い煤煙と吸血鬼たちの呪縛であった怪しい霧が、朝風に流されてゆっくりと晴れていく。 島民たちは、窓を開けてその眩しい光に目を細めた。 自分たちの街に何が起きたのか、本当の意味では誰も知らない。ただ、「呪われた時計塔が事故で壊れ、奇妙な夜霧が消え去った」とだけ記憶し、彼らは本当の人間としての生活を始めていくのだろう。 もし、言葉を理解し、吸血鬼を滅ぼした化け猫エドガーと、異端の兵器を作った調香師ジュリアンがそのまま街に残り続ければ、今度は彼ら自身が、人間たちから「新たな怪異」として恐れられ、平穏を乱す火種になってしまう。 エドガーにとって、大好きな縄張りは「人間たちがのんびり暮らしている場所」でなければならない。だからこそ、街の平穏と引き換えに、自らは伝説(影)となって去る道を選んだ。 そしてもう一つ、ジュリアンが大公の地下研究所から盗み出した残りの資料には、さらなる不穏な事実が記されていた。 大公が菌との適合に成功したという噂を聞きつけた世界中の闇の勢力が、各地の古い鉱山から同じ菌を掘り起こし、第二、第三の吸血鬼を生み出そうと暗躍しているというのだ。 「オズワルド・エンドを救っても、世界中にこの菌が広がれば、いずれまたリリーのような犠牲者が出る。……僕は世界を巡り、この菌を根絶する旅に出るよ」 ジュリアンの言葉に、教会の屋根の上で黒の毛並みを舐め整えていたエドガーは、ふんと鼻を鳴らした。 「世界中にあの害獣どもが増えるなんて、猫の王として看過できん。何より、お前の作る香りは、あの化け物どもの肉をよく焼くからな。次に行く街でも、特等席で見届けてやる」と言わんばかりに。 何より、一度ジュリアンという最高の相棒と「怪物を狩る愉悦」を覚えてしまったエドガーにとって、平穏になった街でただネズミを追いかけるだけの生活は、少し退屈になってしまったのだ。 「行こう、エドガー。次の街が、僕たちの香りを待っている」 地上から、革のカバンを肩にかけたジュリアンが呼ぶ声が聞こえる。 黒猫は一度だけ、長々と尾を振って大いなる伸びをすると、朝日のなかへと音もなく飛び降りた。 オズワルド・エンドの事件は、彼らにとって「世界中の闇を狩る、一人と一匹の長い旅」の始まりに過ぎなかったのだ。