猫の物語 - 第21話 ニノ
『琥珀の瞳と、世界で一番平和な魔女狩り』
不吉な赤き月が、鬱蒼とした森を照らしていた。
「ニノ、もう時間がない。早く、裏口から街へ……!」
古びた調合室の片隅で、若き魔女ルナは震える手で魔法の杖を握りしめていた。外からは、静寂を切り裂く重々しい足音が近づいてくる。何十人もの男たちが、鉄の防具を擦れ合わせる不穏な音。松明のパチパチとはぜる火の粉が、窓の隙間から不気味な赤い光を投げ込んでいた。
ついに、この静かな森にまで「魔女狩り」の魔の手が伸びてしまったのだ。
「……にゃあ」
緊迫した空気の中、ルナの足元で静かに鳴く影があった。短く艶やかな黒い毛並みに、夜闇のなかで妖しく、しかし美しく輝く琥珀色の瞳。ルナの最愛の相棒であり、この家でともに暮らしてきた黒猫の「ニノ」である。
「ニノ……ごめんね。私と一緒にいたら、あんたまで……」
ルナの目から涙がこぼれ落ちる。
ドォン!!!
激しい音を立てて、頑丈な木製のドアが蹴り開けられた。室内に吹き込む夜風。松明の炎に照らされて現れたのは、巨大な体躯に冷徹な鉄の仮面を被った、魔女狩り隊の総隊長ガイルだった。その手には、幾人もの魔女を震え上がらせてきたであろう、巨大な大剣が握られている。
「……見つけたぞ、邪悪なる魔女め」
地を這うようなガイルの低い声が、部屋の温度を凍りつかせる。大剣がルナに向けられたその瞬間、ルナの脳裏には、なぜ自分がこんな状況に追い込まれてしまったのかという、これまでの経緯が走走馬灯のように駆け巡っていた。
◇
もともと、この国において魔女は恐れる対象ではなく、人々に寄り添う存在だった。ルナもこの森の奥で、ニノと一緒に薬草を育て、村人の風邪薬や傷薬を作って生計を立てる、ごく普通の街の薬師のような日常を送っていたのだ。ニノはいつも調合中の鍋の横で、ぬくぬくと暖まりながらルナの作業を眺めているだけの、ただののんきな飼い猫だった。
しかし半年前、国を治める冷酷な新国王が「天災や飢饉はすべて魔女の呪いのせいだ」という身勝手な布告を出したことで、世界は一変した。「魔女を捕らえた者には、生涯遊んで暮らせるほどの莫大な賞金を与える」その冷酷な命令によって、欲に駆られた兵士たちが「魔女狩り隊」を結成し、またたく間に各地の魔女を捕らえていった。そして今日、ついに一番の武闘派として恐れられるガイル総隊長の部隊が、ルナの家を突き止めてしまったのである。
捕まれば、待っているのは冷酷な審問と、容赦のない処刑。ルナは覚悟を決めた。相棒のニノの命だけは、刺し違えてでも守らなければならない。
◇
「……覚悟、しろ」
ガイルが静かに大剣を振り上げる。ルナは震える手で杖を強く握り、禁忌とされる攻撃魔法の詠唱を口の中で始めた。
今、世紀の大魔法戦の火蓋が切って落されようと――
「にゃ〜〜〜〜〜〜〜ん(お腹すいた)」
緊迫感を跡形もなく消し去る、気の抜けた高い声が響いた。
静止する一同。ルナが驚愕の目で見つめる先で、黒猫のニノは、あろうことか魔女狩り隊の総隊長ガイルの足元へとトコトコと歩み寄っていった。そして、鉄の調度品のように冷酷なガイルのすね当てに、己の短い黒毛をこれでもかとすり付け始めたのである。
「ニ、ニノ!? 離れて、そいつは――!」
ルナの悲鳴のような制止は届かない。ニノはさらにゴロゴロと喉を鳴らし、ガイルを見上げて琥珀色の瞳をきらめかせた。
ガイルの身体が、ピきりと硬直する。大剣を握る手が小刻みに震え、鉄の仮面の奥から「ほぅ……っ」という、およそ戦士とは思えない奇妙な吐息が漏れた。
ガイルは音も立てずに大剣を床に置くと、吸い寄せられるように膝をついた。そして、鉄の手袋をそっと外すと、肉厚な手のひらでニノの顎の下を優しく撫で始めたのだ。ニノが気持ちよさそうに目を細めて「ふにゃあ」と鳴く。
「……おい、お前たち」
ガイルが背後の部下たちに、低く冷徹な声で命じた。この魔女狩り隊は、隊長の命令が絶対の「超・縦社会」である。たとえ隊長がどれほど狂った命令を下そうとも、逆らうことは即座に軍法会議を意味する。
部下たちは、背後で直立不動のまま、仮面の裏で(ああ、また始まったよ……)と深くため息をついていた。じつは彼らにとって、これは日常茶飯事だった。前回の任務でも、潜入先の民家で野良猫を見つけた隊長が「この家は聖域である」と主張し、任務を放棄した前科があるのだ。
ガイルが威厳たっぷりに告げる。「この家をくまなく捜索せよ。ただし、そこに転がっている『最高級マグロのパテ缶』と『またたび入りの高級クッション』は、今すぐ我が国の全予算を投じて買い占め、この聖なる空間へ献上するのだ」
新人兵士が慌てて「たい、隊長!? 魔女の連行は……!」と声を荒らげたが、隣のベテラン副官が即座にその頭を小突いて黙らせた。副官は慣れた手つきで懐から「活動記録帳」を取り出すと、すらすらと嘘の報告書を書き始める。
「了解いたしました、ガイル隊長。報告書には『該当の家屋を徹底捜索した結果、魔女はすでに逃亡。代わりに室内にて“神の化身”たる高潔な黒き聖獣(猫)を発見。隊長が身を挺してこれを手懐け、我が国の守護獣とした』と記載しておきます」
「うむ。完璧な職務報告だ。さすがは我が右腕」
ガイルは満足げに頷くと、ニノを両手でそっとすくい上げ、自分の顔面に思い切り押し当てて深呼吸をした。いわゆる「猫吸い」である。
「ああ、至高の香気……。我が戦いの汚れが、今、完全に浄化されてゆく……」
数分後。呆然と立ち尽くすルナの机の上には、魔女狩り隊のお詫び金……もとい、副官がテキパキと予算から捻出した「聖獣の維持費(ニノのおやつ代)」として、山のような金貨が積み上げられていた。
「ではルナ殿、また来週、ニノ殿の『ご機嫌伺い(直にモフること)』に参る。……撤退!」
ガイルは満足げな顔で部下を率い、嵐のように去っていった。部下たちもまた、一糸乱れぬ統率力で「はっ!撤退!」と叫び、隊長の後を綺麗に行進して消えていく。その完璧な軍隊の動きと、やっていることのくだらなさのギャップは凄まじかった。
静まり返った部屋で、ルナはガサゴソという音に気づいて視線を落とす。
そこには、残された金貨の袋をさっそくバリバリと爪研ぎ代わりに使い、ルナに向かって「早くいつものご飯ちょうだい」と催促の視線を送る、相棒のニノの姿があった。
ルナは脱力し、杖を床にぽてりと落とした。
「……魔女狩りの対策より、あんたの甘やかされすぎ対策の方が、これからは大変そうね」
窓の外では、先ほどまでの不吉な赤き月が、心なしか優しくニノの琥珀色の瞳を照らし返していた。Noveliaとは?
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