猫の物語 - 第24話 ルナ
古城の琥珀(こはく) ――守護獣となった黒猫の物語――
冷たい石の記憶
ルナがまだ温かい血の通った子猫だった頃、時代は黒死病(ペスト)と魔女狩りの恐怖に狂っていた。当時、北部の険しい崖の上にそびえる城を治めていたのは、残虐で猜疑心の強い領主・バルトロメウス伯爵。熱病で最愛の息子を亡くした伯爵は、「これは悪魔の呪いだ」と思い込み、城中を疑心暗鬼の渦に巻き込んでいた。
その矢先、城の厨房に迷い込んだのが、どこか神秘的な琥珀色の瞳を持つ黒猫――ルナだった。「黒猫は悪魔の使いだ!」と兵士たちが騒ぎ立てる中、お抱えの老魔術師が伯爵に冷酷な進言をする。「閣下、これこそ天の配剤。この黒猫を生きたまま城の基盤に封じ込めるのです。悪魔の眷属を人柱とすれば、その魔力は反転し、あらゆる呪いを跳ね返す不滅の盾となりましょう」
嵐の夜、ルナは小さな身体を麻袋に詰め込まれ、地下の湿った壁の空洞へと押し込められた。職人の手によって、目の前でレンガが一つ、また一つと積まれていき、光が閉ざされていく。「ミャー、ミャー」と必死に鳴くルナの声を、伯爵たちは祈りの呪文でかき消した。最後のレンガがはめ込まれ、完全な闇と静寂が訪れたとき、ルナの小さな命は絶え、代わりに「城を守る呪術的な力」としての新しい存在へと変貌した。
それから数百年。伯爵の血筋は途絶え、城は何度も主を変えたが、そのたびに「夜な夜な黒い影が出る」「主が謎の病に倒れる」といった怪奇現象が相次ぎ、いつしか誰も近づかない「呪われた廃墟」として放置されるようになった。
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学者アーサーの計算
それから長い年月が流れ、ルナの眠りを覚ましたのは、何百年ぶりかに城に響いた、賑やかで温かい人間の足音だった。
新しく移り住んできたのは、王都の宮廷闘争に敗れ、地方へ左遷されたハートフィールド家の一家だった。
主人のアーサーは、かつて王立アカデミーに籍を置く実直な学者だったが、宮廷の派閥争いに巻き込まれ、エリートとしての地位を追われた。彼に下されたのは、北の果ての未開拓地で「植生と鉱物資源を調査せよ」という、過酷なフィールドワークの命令。給料は王都時代の30%減という厳しいものだった。
王都での彼らは、贅沢はできずとも、家族3人が小さな借家で暮らし、病弱な娘の薬代を払えば毎月トントンという中流の暮らしだった。妻のエレノアも、実家で母親の手伝いを見よう見まねで覚えていたため、最低限の家事の知識はあった。
しかし、給料が3割も減るとなると話は別だ。地方の町で普通に家を借りようものなら、家賃を払った時点で、娘のエマに十分な食事を与えることも、王都から高価な薬を取り寄せ続けることもできなくなる。数ヶ月で破産するのは目に見えていた。
そこで、学者であるアーサーは冷徹に、そして必死に計算した。(調査地のすぐ近くに、不気味な噂のせいで『パン数個分の手数料』だけで売りに出されている古城がある。幽霊など非科学的だ。あそこを選べば家賃は一生ゼロになる。浮いた家賃分で減給の30%を相殺すれば、エマに毎日温かいお粥を食べさせ、薬を買い続けることができる!)
一家は、飢えから娘の命を守るための「現実的な選択」として、呪われた古城へ移り住んだのだ。
エレノアは生活水準が落ちたことを嘆く暇もなく、埃まみれの城の床を雑巾で必死に磨き、持ち前の明るさで陰気な空間をハーブの香りで満たしていった。そして娘のエマ。生まれつき肺が弱かった彼女にとって、汚れた王都の空気よりも、この北部の澄んだ空気はむしろ身体に合っていた。エマは城の図書室で見つけた古い本を読みながら、静かに療養生活を始めた。
影の姿となったルナは、最初は天井の梁(はり)の上や、暗い柱の影から彼らをじっと見下ろしていた。(また新しい生贄がやってきた。どうせこれまでの奴らのように、恐怖に耐えかねて逃げ出すか、悪魔に魂を食われるだけだ)
ルナはわざと床をきしませたり、冷たい風を吹き付けたりして彼らを試した。しかし、父親のアーサーは「古い建物特有の隙間風だな。明日は隙間を塞ぐ粘土を練ろう」と眉をひそめるだけで、怯える様子はない。それどころか、母親のエレノアが磨き上げた床や、窓辺に飾られた野の花のせいで、陰気だった城の空気は少しずつ、ルナの知らない「生活の匂い」へと変わっていった。
そんなある日、エマが図書室で埃をかぶったルナの記録――かつての魔術師が残した、黒猫を生き埋めにした儀式の書き置き――を見つけた。ルナは梁の上から、彼女が恐怖に顔を歪めるのを期待して見ていた。しかし、エマの瞳から溢れたのは、恐怖ではなく大粒の涙だった。
「かわいそうに……どんなに怖くて、寂しかったことでしょう。私がお守りしてあげられたらよかったのに」
その優しい言葉が、ルナの胸の奥に刺さった。何百年もの間、彼に向けられたのは恐怖か呪詛、あるいは悪魔の嘲笑だけだった。同情されたことなど、ただの一度もなかった。(バカな娘だ。俺は悪魔の力を持つ怪物だぞ。お前のような脆い人間に何ができる)ルナはふいと顔を背けたが、その夜から、エマのことがどうしても気になり始めてしまった。
次の夜、ルナはエマの寝室の片隅、月光の届かない闇の中にそっと佇んでいた。ベッドで本を読んでいたエマが、ふと顔を上げた。純粋な心を持つ彼女の瞳に、闇の中で怪しく輝くルナの琥珀色の瞳が映る。
「あ……」エマは息を呑んだ。ルナは「やはり怖がって悲鳴を上げるか」と身構えたが、彼女はただ、そっと微笑んだ。「あなたが、本に書いてあったルナね? 会いに来てくれたの?」
ルナは答えず、ただじっと見つめ返した。エマがベッドから降りて近づこうとすると、ルナはしなやかな動作で一歩後ろの闇へと退いた。まだ、人間を信じきったわけではない。エマもそれ以上は近づかず、「おやすみなさい、ルナ」と静かにベッドに戻った。
そんな「つかず離れず」の夜が十日ほど続いた。ルナは少しずつ、出現する位置をベッドに近づけていった。最初は部屋の隅、次は椅子の影、そして机の上。エマは決して大声を出すことも、無理に触ろうとすることもなく、ただ今日読んだ本の話や、お父さんが見つけてくれた珍しい青い花の話を、ルナに語りかけた。
距離が決定的に縮まったのは、激しい雨が降る夜のことだった。エマは昼間の無理が祟ったのか、激しい咳を繰り返していた。アーサーたちが薬を飲ませ、彼女がようやく寝入った後も、エマは苦しそうな呼吸を続けていた。
ルナはベッドの枕元に飛び乗った。彼女の胸の奥で、病の影が蠢いているのが見えた。ルナは影の身体をエマの胸元にそっと重ねた。かつて人間が彼に込めた「魔除けの力」が、ほんの少しだけエマの苦しみを和らげ、呼吸を楽にさせていく。
翌朝、目が覚めたエマは、いつもより身体が軽いことに気づいた。そして、枕元にうっすらと残る、冷たい風のような心地よい気配を感じ取った。
「ルナ、あなたが守ってくれたのね」
その夜、現れたルナに対し、エマはそっと右手を差し出した。ルナはもう逃げなかった。ゆっくりと近づき、実体のない影の頭を、エマの小さな手のひらに滑り込ませた。エマの手がルナの身体をすり抜ける。けれど、ルナにはエマの手のひらの温もりが確かに伝わり、エマにはルナのひんやりとした優しい意思が伝わった。
「もう誰も、あなたを暗い場所に閉じ込めたりしないわ。私があなたの家族になるもの」
エマの細い指先が、愛おしそうにルナの頭の輪郭をなぞる。ルナは満足そうに目を細め、ゴロゴロと、何百年ぶりかで喉を鳴らした。それは、一匹の孤独な黒猫が、自分の意志でこの少女の「お守り」になると決めた瞬間だった。
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嵐の夜の決戦
ある秋の夜、エマの容態が急変した。激しい雷雨の中、彼女は高熱に浮かされ、寝室で苦しそうに息を吐いていた。アーサーとエレノアが必死に薬草を煎じているその時、城全体の温度が急激に下がった。
窓の外の闇がぐにゃりと歪み、鋭い爪と影の翼を持った本物の「悪魔」が姿を現した。この土地に巣食う悪魔は、歴代の城主たちの絶望を喰らい、彼らを死に追いやった元凶だった。今夜は、弱り切ったエマの魂の香りに引き寄せられてやってきたのだ。悪魔はガラスを叩き割り、黒い霧となってエマのベッドへと忍び寄る。
アーサーたちが恐怖で身をすくませる中、ベッドの枕元で、一対の琥珀色の光が妖しく爆ぜた。
「消え失せろ、羽虫め。この城と、この少女は俺の縄張りだ」
ルナがベッドの前に立ちはだかった。悪魔はルナの姿を見て、嘲笑うように言った。「滑稽な。お前は人間に裏切られ、生きたまま壁に埋められた惨めな猫ではないか。なぜそんな奴らの味方をする? その娘の魂を差し出せば、お前をこの城の呪縛から解放してやってもよいぞ」
ルナは背中の毛(のように見える闇の波動)を逆立て、低く唸った。
「勘違いするな。俺は人間を許したわけじゃない。だが、俺をここに封じた者たちは『黒猫の魔力は悪魔を退ける』と本気で信じていた。――ならば、その呪い、今ここで証明してやる!」
ルナが咆哮すると、城の地下深くに眠っていた数百年分の「防邪の魔力」が、城の石壁を伝って一気に噴き上がった。中世の人々がルナに込めた純粋な信仰の力と、ハートフィールド一家がこの城に灯した温かい生活の光が融合し、ルナの影の身体は部屋を埋め尽くすほど巨大な黒豹の姿へと膨れ上がった。
「グアアアッ! 何だこの力は……!?」
ルナが放つ圧倒的な「聖なる闇」の奔流に飲み込まれ、悪魔は悲鳴を上げながら、嵐の夜空へと完全に消し飛ばされた。
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本物の守護獣
嵐が去り、静寂が戻った部屋で、ルナの身体は元の小さな黒猫のサイズに戻った。不思議なことに、悪魔が払われたと同時に、エマの熱はすっと引き、頬に健康的な赤みが戻っていた。この城に満ちていた「本当の呪い(悪魔)」が、ルナによって完全に消し去られたからだ。
エマはそっと目を開け、目の前にいるルナに手を伸ばした。今度は、なぜか不思議な温もりがルナの身体に伝わった。エマの温かい手のひらが、実体を持たないはずのルナの頭を、確かに優しく撫でていた。
「ありがとう、私の小さなお守りさん」
ルナは満足そうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした。それを見ていたアーサーとエレノアも、姿は見えずとも、愛娘を救ってくれた「目に見えない守護者」の気配を感じ取り、涙を流して感謝した。
かつて人間の恐怖と迷信によって生贄にされた黒猫は、今や自らの意思で、大好きな家族を守る本物の「守護獣」となった。
「タダ同然の呪われた城」は、アーサーの冷徹な計算と深い家族愛、そして一匹の黒猫の誇りによって、世界で一番安全で温かいハートフィールド家の我が家となったのである。
古城の最下層にある壁の傷跡は今も残っているが、そこから聞こえるのは悲しい鳴き声ではなく、幸せそうに喉を鳴らす、小さな鈴のような音なのであった。Noveliaとは?
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