灰の向こうに咲く花——テンペストの残火
戦争は終わった。テンペストは静寂に包まれている。
霧原セツナ――人間だった過去を失い、世界の狭間に囚われた少女は、戦いで亡くなった者たちの遺品を静かに集める日々を送っている。それが彼女なりの哀悼の方法だった。ほとんど口を開かず、涙も流さない。周囲の人々、つまり人間も怪物も、彼女がかろうじて踏みとどまっているのを感じ取っているが、誰も何と言えばいいのかわからない。
そんなある日、シュナが彼女の扉を叩き、無理やり夕食に連れ出す。静かな食事の席で、シュナはセツナの目を見つめて言う。「まだ泣いてないよね?泣いてもいいんだよ」と。その言葉はセツナの胸に深く刺さる――しかし涙はまだこぼれない。
やがて、紅丸に仕えた若き鬼の戦士、炎熊ライカがセツナの働く場所に現れるようになる。言葉は不器用でぶっきらぼうだが、ある日突然彼女の荷物を持ち、「手伝うよ。理由は聞かないで」とだけ言い、ただそこに毎日寄り添う。
セツナとライカが共に過ごすうちに、シュナはあることに気づく。ライカがセツナに惹かれているのだ。彼女はそれを警告のようにセツナに囁く。しかしシュナ自身もまた、誰にも心を開かない静かで壊れた少女に
灰の向こうに咲く花——テンペストの残火 - 灰色の朝——遺品と、疼く傷と、泣けない少女
手が、また震えていた。
霧原セツナは震えを無視して、瓦礫に指を差し込んだ。冷たい石の感触が、手のひらを通じて腕まで伝わってくる。
まだ夜明け前だった。
空の端がほんのり白くなり始めた頃、セツナは慰霊管理局の庁舎を出て、一人で南門を抜けていた。見張りのゴブリンが「霧原さん、また早いっすね」と声をかけようとして、やめた。毎朝そうだった。もう誰も止めない。
テンペストの南門から約2km。ここから先が焦土帯だ。
黒く焦げた大地が、どこまでも続いていた。折れた樹木が、枯れた腕のように空に向かって伸びている。土の色は灰色で、草の一本も生えていない。三ヶ月前、この場所で何が起きたか——その答えが、この荒野そのものだった。
魔王軍がテンペストに攻め込んだのは、今からちょうど三ヶ月前のことだ。約二週間の戦闘で、テンペスト側の死者は1,200名を超えた。街の南側の区画は今も再建が追いついていない。それどころか、この焦土帯には魔素——この世界の根源エネルギー——が今も滞留していて、低級魔物が勝手に生まれてくる。
つまり、ここは今も危険な場所だ。
セツナは気にしない。
灰色のマントを羽織った細い背中が、瓦礫の中を進んでいく。黒髪のショートボブが、乾いた風に少しだけ揺れた。澄んだ蒼色の瞳が、地面を静かに見渡す。その瞳孔はわずかに縦長で——人間のそれとは、少し違う。
セツナは人間だったこともある。今は、そのどちらでもない。
瓦礫をどかす。泥を掻き分ける。
錆びた剣の柄が出てきた。
セツナはそれを両手で拾い上げ、布で包んだ。丁寧に、ゆっくりと。誰かが握っていた柄だ。誰かの手の形が、錆の中に残っているかもしれない。
左肩が疼いた。
その瞬間、記憶が閃く。火の柱。雄叫び。誰かが自分の名前を呼ぶ声——。
セツナは目を細めた。動作を止めなかった。
感情を殺さないと、この仕事は続けられない。それはもうわかっていた。
*
日が少し高くなった頃、焦土帯に別の人影が現れた。
慰霊管理局の同僚たちだ。ゴブリン族の回収士が三名、少し距離を置いた場所に降り立ち、作業を始める。
一人が「霧原さん、今日も——」と声をかけようとした。
隣の同僚が、すっと肘で止めた。
無言のやり取り。それだけで十分だった。
遺品回収士という仕事が新設されたのは、大戦が終わった直後のことだ。戦場跡から遺品や遺体を回収して、遺族に届ける。報酬は日当銀貨3枚——今の相場でいえば、4,500円ほど。危険地帯に踏み込むには、少ない。それでも今、約30名の回収士がこの仕事をしている。全員、戦闘経験者だ。
毎週末には、テンペスト中央広場で「遺品返還の儀」が行われる。回収した遺品を遺族に手渡す時、回収士が故人の名前を読み上げる。その役割を、セツナが担っていた。
なぜセツナが名前を読み上げるのか、誰も本人に聞かなかった。本人も説明しなかった。
ただ、毎週末の広場でセツナが名前を読み上げる声だけが、静かに、真っ直ぐに、広場に響いていた。
午前の作業を終えて、セツナが背負い袋に遺品を詰めていく。
一つ。また一つ。手つきに感情はない。でも、雑ではない。それがかえって、見ているゴブリンたちの胸に刺さった。
誰も声をかけなかった。
*
昼過ぎになって、焦土帯の縁に人影が見えた。
白い小袖に、淡い桜色の帯。
薄紫色の長髪を後ろで緩やかにまとめ、その毛先がほんのりカールしている。身長はセツナより少し高く、銀色の瞳が静かな光を湛えていた。
シュナだ。
テンペストの最高指導者・リムルの側近であり、政庁の内政を実質的に取り仕切る女性。鬼人族——かつて鬼の一族だったが、リムルに名付けられ進化した希少種族——の一人で、テンペスト内に約40名しかいない。身体能力は人間の何倍もあり、寿命は数百年。政庁の重鎮だ。
そのシュナが、ゴブリン職員を一名だけ連れて焦土帯の縁に立っていた。
視察、という名目なのはわかっていた。でも、シュナの視線は地図でも建物でもなく、一点に向かっていた。
黒いマントの背中。瓦礫の中にしゃがんで、黙々と泥を掻き分けている少女。
シュナは口元の微笑みを、わずかに消した。
(この子は——)
胸の奥で、何か引っかかるものがある。壊れかけた陶器みたいに、あの背中は細くて、でも膝は折れていない。
シュナは足を踏み出した。
「[gentle]少し休みましょう。カエデ亭で食事でも」
セツナが顔を上げた。蒼色の瞳がシュナを見る。
「[cold]結構です」
一言。視線はもう遺品袋に戻っていた。
シュナは引かなかった。
「[gentle]命令じゃないわ。でも、一緒に来てほしいの」
穏やかな声だった。でも、その声には何か——断れない重さがある。優しさとも違う。柔らかいのに、曲がらない。
しばらく沈黙があった。
セツナはため息をつかずに、荷物を持って立ち上がった。
*
カエデ亭は政庁の東隣にある、木造の食堂だ。
席は30ほど。昼過ぎのはずなのに、今日は客が少ない。テーブルがぽつぽつ空いていて、窓から差し込む光が埃っぽく見えた。シュナがここを開いたのは復興が始まってすぐのことで、「みんなが集まれる場所が必要」と自ら厨房に立ったと聞いている。日替わり定食が銀貨一枚。
二人は奥の席に向かい合って座った。
しばらくして、料理が運ばれてくる。ジュラ湖で取れた白身魚の煮付けと、根菜のスープ。湯気が細く立ちのぼった。
セツナは箸を持った。
持ったまま、動かなかった。
シュナはそれを見ていた。責めるような視線ではなく、ただ静かに。窓の外で、鳥が一羽飛んでいった。その影が食卓をよぎる。
シュナはゆっくりと手を伸ばした。
テーブル越しに、セツナの右手にそっと重ねる。
セツナが少し固まった。視線が、シュナの手に落ちる。
「[whispers]あなた、泣いていないでしょう。泣いていいのよ」
静かな声だった。ひそひそ声ではなく、ただ、静かだった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
セツナは瞼を伏せた。でも、涙は来なかった。目の奥が、乾いている。泣き方を、どこかに置き忘れてきてしまったみたいに。
シュナの手は温かかった。
振り払えなかった。それだけは、確かだった。
*
同じ頃、焦土帯の外縁では別のことが起きていた。
南門から約2km。焦土帯の縁に近いその地点で、二人組の鬼人族が動いていた。
一人は先輩格の戦士。もう一人——炎熊ライカは、黒髪に赤のメッシュが入った短髪を少し無造作に立てたまま、アッシュウルフと向き合っていた。
灰色の毛並みをした低級魔物だ。魔素が滞留した焦土帯では、こういう生き物が自然に生まれてくる。
ライカは一刀で仕留めた。
特に感情はなかった。深紅の縦スリットの瞳が、倒れた魔物をちらと見て、それだけだった。185cmの大柄な体格が、すっと元の姿勢に戻る。
「終わりだ、ライカ。引き上げるぞ」
先輩が言った。
ライカは頷こうとして——足が止まった。
遠くに、人影があった。
焦土帯の中を、一人で歩いている。小柄な体。大きな荷物を背負って、黒いマントが風に揺れている。
ライカはその歩き方に、目を止めた。
肩に力が入りすぎている。でも膝は曲がっていない。疲れているのに、止まらない。その歩き方を、ライカは知っていた。
戦場で仲間を失って、それでも前に進もうとしている者の歩き方だ。
「ライカ?」
先輩の声が遠く聞こえた。
ライカはしばらく、その背中から目を離せなかった。ただの他人だ。名前も知らない。でも——なぜか、目が離せなかった。
(戦場の生き残り同士の、共鳴みたいなものだろう)
そう自分に言い聞かせて、ライカはようやく先輩の後を追った。
*
テンペストの正門に馬車が一台、転がり込んできたのは、日がだいぶ傾いた頃だった。
馬車から降り立ったのは、銀髪を後ろに軽く束ねた青年だ。濃紺の外套が整った所作に合っていて、金色と銀色のオッドアイが、静かにテンペストの街を見渡した。
遠山ケイ。23歳。イングラシア王国外務局から派遣された外交官だ。
出迎えたゴブリンの案内役に丁寧に礼を述べて、荷物を宿屋ミズナギに預けた後、ケイはすぐに視察に出た。書類を読むだけでは、現場はわからない。それがケイの流儀だった。
テンペストは不思議な街だった。
石造りと木造の建物が混在する通りを歩くと、ゴブリン族の行商人と人間の旅人が隣り合って値段交渉をしている。リザードマンの魚売りが、子供のゴブリンに串焼きをおまけしている。「共存令」——種族を理由に害を为すことを禁ずる、テンペスト建国の基本法——が、この街では紙の上だけの言葉ではないのだと、歩くだけで感じられた。
人口約15,000。魔物と人間が共存する世界で唯一の国家。復興事業に国庫の7割を投入中。
書類で読んだ数字が、今は別の重みを持って見える。
視察ルートが南側に差し掛かった時、ケイは足を止めた。
南門の向こうに、黒い荒野が広がっている。焦土帯だ。遠くから見ても、その土地だけ色が違う。灰色というより、死んだ色だった。
その中に、人影が一つあった。
一人で、黙々と瓦礫を掘り起こしている。小柄な影。動きは機械みたいに正確で、でも、どこか重たい。
「[serious]……あの方は、何をしているのですか」
案内役のゴブリンに尋ねた。
ゴブリンは一瞬、言葉に詰まった。
「……遺品回収士の方ですよ」
それだけ言って、案内役は前を向いた。それ以上続けなかった。
ケイはしばらく、その背中を見ていた。
書類の上では「復興事業・遺品回収担当者」という一行にすぎない。でも、実際にはこういう姿で、死んだ土地に膝をついているのだ。
(現場とは、こういうものか)
ケイはそう思いながら、その場を離れた。でも、小柄な背中の残像が、頭の中に残り続けた。
*
日が傾いて、空が橙色に染まり始めた頃。
セツナは慰霊管理局の庁舎に戻っていた。
庁舎の1階にある遺品保管室は、石造りの棚に遺品がずらりと並ぶ薄暗い部屋だ。約400点の未返還遺品。錆びた剣、ひしゃげた盾、誰かの名前が刻まれた銀の飾り。それぞれが、誰かの最後の持ち物だった。
セツナは今日回収した遺品を、一つずつ台帳に記録しながら棚に並べた。
「錆剣柄・一本・南部焦土帯B区画」
「革製外套片・血染め・同上」
鉛筆の音だけが、部屋に響く。
窓の外で風が吹いた。初秋の風。少しだけ冷たくて、土の匂いがした。
最後の一点を記録しようとして——セツナの手が止まった。
袋の底に、何かが残っていた。
布に包まれていない紙。
封書だった。
拾い上げる。泥と焦げで汚れていて、宛名はほとんど読めない。でも——その紙の表面に残った文字を見た瞬間、セツナの指先が固まった。
筆跡。
見覚えがある。
癖のある字の運び。ひらがなの「つ」だけが妙に大きくなる、あの書き方——。
(誰の字だ)
その問いが頭をよぎった瞬間、左肩の傷が強く疼いた。
セツナは封書を静かに布で包み直した。台帳の横に置く。開封しない。できなかった。
薄暗い保管室に、一人が残された。
窓の外から、テンペストの初秋の風が一陣吹き込んでくる。ランタンの炎が、小さく揺れた。
セツナはしばらく、封書を見つめていた。
シュナの手の温かさが、まだ右手に残っていた。