灰の向こうに咲く花——テンペストの残火
戦争は終わった。テンペストは静寂に包まれている。
霧原セツナ――人間だった過去を失い、世界の狭間に囚われた少女は、戦いで亡くなった者たちの遺品を静かに集める日々を送っている。それが彼女なりの哀悼の方法だった。ほとんど口を開かず、涙も流さない。周囲の人々、つまり人間も怪物も、彼女がかろうじて踏みとどまっているのを感じ取っているが、誰も何と言えばいいのかわからない。
そんなある日、シュナが彼女の扉を叩き、無理やり夕食に連れ出す。静かな食事の席で、シュナはセツナの目を見つめて言う。「まだ泣いてないよね?泣いてもいいんだよ」と。その言葉はセツナの胸に深く刺さる――しかし涙はまだこぼれない。
やがて、紅丸に仕えた若き鬼の戦士、炎熊ライカがセツナの働く場所に現れるようになる。言葉は不器用でぶっきらぼうだが、ある日突然彼女の荷物を持ち、「手伝うよ。理由は聞かないで」とだけ言い、ただそこに毎日寄り添う。
セツナとライカが共に過ごすうちに、シュナはあることに気づく。ライカがセツナに惹かれているのだ。彼女はそれを警告のようにセツナに囁く。しかしシュナ自身もまた、誰にも心を開かない静かで壊れた少女に
灰の向こうに咲く花——テンペストの残火 - 遺灰の季節、最後の声——あなたのそばで、もう少しだけ
夜明けの焦土帯は、静かだった。
篝火が燃え残った煙が、白くたなびきながら朝の空気に溶けていく。焦げた土の匂い。乾いた灰の感触が、靴底から伝わってくる。南部焦土帯——大戦の最終決戦地——は、三ヶ月が経った今も、あの夜の傷跡をそのまま残していた。
四人は隊列を組まず、ただ同じ方向へ歩いていた。
ケイが先頭に立ち、白布を左手に持っている。外交官としての身のこなし——一切の無駄がない歩き方——だが、その口元の薄い笑みのくせは、今朝は消えていた。金色と銀色のオッドアイが、前方の暗がりを静かに読んでいる。
ライカがその斜め後ろ。腕の包帯が、薄明かりの中で白く浮き上がっていた。脇腹の傷が歩くたびに軋む。それでも足は止まらない——止める気が、最初からなかった。黒髪に赤のメッシュが混じった短髪が、朝の風に少し揺れた。
シュナがセツナの隣を歩いていた。薄紫の長髪を後ろでまとめ、銀色の瞳が静かに前を向いている。いつもの穏やかな笑みはない。代わりに、何かを守ろうとする意志だけが、そこにあった。
セツナは、封書を懐に入れていた。
左肩の古傷が、焦土帯の冷気の中でかすかに疼く。でも足は動く。遺族に返すはずだった形見の品が、この先の野営地にある。死んだ人たちの最後のかたちが——それだけが、今のセツナを前へ押し出していた。
ヴァルグリム残党の野営地外縁が見えてきたのは、夜明けから三十分ほど経った頃だった。
燃え残りの篝火。乱雑に積まれた武具。そして——麻袋が、無造作に地面に積み上げられていた。十数個。中身が何かは、見えなくても分かった。
セツナの顎が、無言に固まった。
ケイが足を止め、白布を高く掲げた。
「[serious]イングラシア王国派遣外交官、遠山ケイの名において、正式な返還交渉を申し入れる。遺品回収士から奪取した物品の即時返還を要求する」
声は静かで、理性的だった。感情を入れる余地を、言葉の選び方で最初から消していた。外交官としての训练が、声のすみずみまで染み込んでいる。
野営地の中から、男が立ち上がった。
でかい。頭一つ分、ケイより高い。左の頬に刃物の傷跡。ぬるりとした笑い方で、椅子に足を乗せたまま身を起こす。頭目だった。
「[sarcastic]お役人様がわざわざ。ご苦労なことで」
嗤いが野営地に広がった。取り巻きが十数人。全員が武器を手に、こちらを品定めする目つきをしていた。
「[sarcastic]死人の持ち物に用はねえ。返してほしけりゃ——その鬼人族の女を置いていけ」
顎で、シュナを指した。
一瞬の沈黙。
セツナの横で、何かが変わった。
空気ではなく——ライカの手が、柄にかかった。深紅の縦スリット瞳が、一点に固定される。シュナへの要求という一言が、ライカの中の何かを外した音が、誰にも聞こえない形でした。
「[whispers]ライカ——」
シュナが静かに手を上げてライカを制しようとした、その瞬間。頭目が立ち上がり、剣を抜いた。
鋼が鋼から抜け出る音が、焦土帯の朝に響く。
野営地の後方から、弓が持ち上がった。先制したのは残党側だった——矢が唸りを上げて空気を裂いた瞬間、四人全員が動いた。
*
シュナの両手が広がる。
淡い光が四人の周囲を包んだ——結界術。テンペスト政庁の側近として培った術式が、矢を弾く壁を作る。同時に、シュナの視線が野営地の出口方向へ移る。別の結界の壁が、残党の逃走路に静かに展開されていく。
二つの術式を同時に維持する消耗は激しい。シュナの額に汗が滲み始めた。それでも手が下がらない——セツナがいる間は、絶対に。
ライカが踏み込んだ。
人間の傭兵が鬼人族の突進を止めることはできない。身体能力の差が、戦いを一方的な形にする。一撃で吹き飛ぶ兵士。二撃目で崩れる防衛線。腕の傷が開いたのか、包帯の端が赤く染み始めていた。それでもライカは止まらない——脇腹の熱も、腕の痛みも、今は前に進む燃料でしかなかった。
ケイは戦列の外側を動いていた。
戦闘員ではない。術者でもない。しかし金色と銀色のオッドアイが、野営地を素早く読み取っていた。積み上げられた補給物資——火矢の束と油樽——の位置。倒れた兵士が手放した松明。
ケイは松明を拾い上げた。油樽に向かって、投げた。
炎が上がった瞬間、残党の後列が崩れた。補給が燃えている——その混乱が、ライカへの包囲を薄くした。
セツナは頭目を見ていた。
頭目は麻袋の一つを掴んで、後退しようとしていた。
「[cold]この袋に傷をつけたくなければ、手を出すな」
盾にしていた。遺品を。
セツナの足が、止まらなかった。左肩の古傷が疼く。でも止まらない。一歩、また一歩。頭目との距離が縮まるにつれて、懐の封書が胸に当たる感触を確かめるように、片手を胸に当てた。
「[serious]その遺品は——死んだ人たちの最後の声です」
声が、焦土帯に張った。
「[serious]あなたに踏みにじらせない」
感情を込めた声で遺品の重さを言葉にしたのは、大戦後、初めてのことだった。三ヶ月間、機械のように掘り続けてきたセツナが、初めてその言葉を持った声で言った。
ライカが、一瞬だけ動きを止めた。
シュナの結界を維持する手が、わずかに震えた。
ケイが、炎の向こうでセツナの声を聞いて、胸に手を当てた。
三人がそれぞれの場所で、セツナの声を受け取った。そしてそれぞれの方法で、動いた。
*
頭目がセツナに向かって踏み込んだ。剣を振り上げる。
その瞬間——予想外の方向から、石礫が飛んだ。
硬い音。頭目の剣を持つ手首を直撃し、軌道が大きく逸れる。
投げたのはケイだった。地面の石を拾い、的確な角度で投げるという、戦闘員でも術者でもない外交官が唯一持てる武器。たった石一つ。でもその石一つが、頭目の攻撃を狂わせた。
ライカが間合いに入った。
渾身の一撃——殺さない、降伏させる。刃が首元に止まる、一ミリの狂いもない止め。
頭目の膝が折れた。武器が地面に落ちる音。シュナの結界が逃走路を完全に塞いでいた。残党の残存兵が、次々と武器を下ろす。
野営地が、静まった。
麻袋が、四人の前に積まれた。十数個。全部。
セツナが膝をついて、一番上の袋を開けた。
汚れた剣の柄。錆びた盾の欠片。誰かの名前が刻まれた銅の指輪。
ある。全部、ある。
セツナの肩から、力が抜けた。
帰路を歩きながら、セツナは遺品の袋を抱えたまま中身を確認し続けた。焦土帯の乾いた地面が、朝の光の中でゆっくりと明るくなっていく。
頬に、何かが伝った。
涙だった。でも——違う。三ヶ月間、洞穴で流した涙とは、質が違った。喉が詰まらない。胸が軋まない。ただ、頬を伝っていく。
安堵だった。
セツナは三ヶ月間の遺品回収作業の中で、初めて安堵の涙を流した。
ライカがその涙に気づいて、黙って視線を逸らした。
シュナがセツナの隣に歩み寄り、指先をそっとセツナの手に重ねた。言葉はなかった。ただ、その温度だけが伝わった。
ケイが静かに前を向いたまま歩き続けた。胸に手を当てた姿勢で、最後まで。
四人が、同じ方向へ歩いた。
*
テンペスト中央広場に、週末の午後の光が差していた。
住民が集まってくる。ゴブリン族、リザードマン、人間の移住者——種族が混ざった群衆が、建設途中の黒曜石の慰霊碑の前に静かに集まる。石畳の広場に、かすかな風が吹いた。
セツナが名簿を持って立った。
三ヶ月間、セツナはこの儀式を感情を殺した声でこなしてきた。遺品返還の儀——慰霊管理局が定めた、遺品を遺族に届ける慣習。機械のように正確で、誰の名前にも同じ重さを乗せない声で。
一人目の名前を、読み上げた。
声が、震えた。
それは失敗ではなかった。初めてその名前の重さを声に乗せることができている——その震えだった。
二人目。三人目。声が詰まりそうになる。目が潤む。それでもセツナは止まらない。一人一人の名前を呼んでやることが、今は理解できていた。贖罪としてではなく、弔いとして。ここにいた、という事実の証明として。
広場の端でシュナが唇を引き結びながら涙を指で拭っていた。
ライカが腕を組んだ姿勢のまま、視線をセツナに固定して小さく顎を引いた。
ケイが胸に手を当てた姿勢で、最後まで立っていた。
住民の中にも、目を赤くしている者がいた。感情を失っていたはずの声が感情を取り戻したことで、この儀式に初めて弔いの空気が生まれていた。
最後の名前をセツナが読み終えた時、広場が静まり返った。
沈黙ではなかった。受け取った後の、静けさだった。
*
住民たちが引き上げていく。広場の隅に、四人が残った。
セツナは名簿を胸に抱えたまま、三人を見渡した。
「[serious]……答えは、まだ出せません」
第六話の朝と変わらない言葉。でも今、その言葉を告げることへの謝罪がなかった。正直さだけがあった。
「[gentle]あなたたちのそばで、もう少しだけ——生きてみます」
その言葉の軽さと重さを、三人はそれぞれの受け取り方で飲み込んだ。
シュナの独占欲が消えたわけではない。ライカの不器用な熱さが収まったわけでもない。ケイの理性と感情の相克に決着がついたわけでもない。
それでも三人が今感じていたのは——セツナが生きると言った。その事実だけが確かだ、という感覚だった。
広場に初秋の風が吹いた。慰霊碑の建設現場の足場が、かすかに揺れる音がした。
*
夜、慰霊管理局の遺品保管室は静かだった。
魔素灯——テンペストで使われる魔素を燃料にした照明——の橙色の光が、棚に並んだ遺品を照らしている。約四百点の品々が、それぞれ小さな布に包まれて並んでいる。全て、戻ってきた。
セツナは親友の手紙を、丁寧に布で包み直した。
保存箱の蓋を開ける。底に置こうとした時——手紙の裏面に、何かが貼り付いていることに気づいた。
薄い紙。乾燥で糊が剥がれかけていた。セツナが静かに剥がすと、それは滑り落ちた。
折り畳まれた、一通の封書。
セツナはそれを広げた。表を向ける。
宛名が書かれていた。
セツナの名前ではなかった。
セツナの知らない、名前だった。
三ヶ月間、ずっとセツナの懐にあった手紙の裏に。親友が、セツナの知らない誰かに宛てて書いた封書が、貼り付いていた。
保管室の壁に寄せた魔素灯の光の中で、セツナはその封書を長い間見つめた。
開けるべきか。誰に届けるべきか。この名前は、誰なのか。
問いが、静かにそこに生まれた。
親友の声がもう一つ、残っていた。
テンペストの空に、初秋の風が吹き抜けていった。