灰の向こうに咲く花——テンペストの残火
戦争は終わった。テンペストは静寂に包まれている。
霧原セツナ――人間だった過去を失い、世界の狭間に囚われた少女は、戦いで亡くなった者たちの遺品を静かに集める日々を送っている。それが彼女なりの哀悼の方法だった。ほとんど口を開かず、涙も流さない。周囲の人々、つまり人間も怪物も、彼女がかろうじて踏みとどまっているのを感じ取っているが、誰も何と言えばいいのかわからない。
そんなある日、シュナが彼女の扉を叩き、無理やり夕食に連れ出す。静かな食事の席で、シュナはセツナの目を見つめて言う。「まだ泣いてないよね?泣いてもいいんだよ」と。その言葉はセツナの胸に深く刺さる――しかし涙はまだこぼれない。
やがて、紅丸に仕えた若き鬼の戦士、炎熊ライカがセツナの働く場所に現れるようになる。言葉は不器用でぶっきらぼうだが、ある日突然彼女の荷物を持ち、「手伝うよ。理由は聞かないで」とだけ言い、ただそこに毎日寄り添う。
セツナとライカが共に過ごすうちに、シュナはあることに気づく。ライカがセツナに惹かれているのだ。彼女はそれを警告のようにセツナに囁く。しかしシュナ自身もまた、誰にも心を開かない静かで壊れた少女に
灰の向こうに咲く花——テンペストの残火 - 焦土の声——読めない手紙と、崩れる四人
広場を出発したのは、夜明け前だった。
三ヶ月前の通達を思い出す。庁舎前に揃った四人の顔。シュナがセツナの右手を握っていた温度。ライカの「俺も行く」という、理由もなにもない一言。ケイが外交官としての所作を崩さずに「同行させてください」と言った、あの静かな声。
今日がその日だった。
慰霊管理局長ガルフが率いる回収士チーム——約十名——が、南部焦土帯の最奥区画へと続く細い道を歩いている。石畳はとっくに途切れ、足元は黒く焦げた土だ。踏むたびに細かい灰が舞い上がり、鼻の奥に刺さる。焦げと、腐敗の手前の土と、空気そのものが重く粘りつくような何か。魔素が滞留している証拠だった。
セツナは列の先頭近くを歩いた。
早朝の光は薄く、焦土帯の色彩を全部洗い流したようにしか見えなかった。黒い大地。灰色の空。折れた樹木が、まるで骨格のように土から突き出ている。
他の回収士たちが足を止めた。声を失っている者もいた。それほどの光景だった。
ガルフが眼鏡の縁を押し上げて、低く言った。
「[serious]未回収遺品の推定数は二百点以上です。区画を三分割して、手前から進めます」
セツナだけが既に動いていた。
回収士の手袋を両手に嵌め、布の束を脇に抱えて、最も奥の区画へと足を向ける。躊躇わない。躊躇ってしまえば、それより先に何かが崩れる気がした。
両手が、震えていた。
手袋の内側で、指の先端が小刻みに震えている。止められなかった。三ヶ月間、この場所から耳の奥に蘇り続けた声が、今日は特に近かった。助けを求めた声。仲間の名前を呼んだ声。そして最後に——聞こえなくなった声。
セツナは奥歯を噛みしめて、瓦礫の最初の一つに手をかけた。
*
一時間が経った。
遺品を三点回収した。台帳に記録した。また次の一点に向かった。その繰り返し。回収士の動きとして正確で、感情をどこにも出していない。出してしまえば、止まれなくなると知っていたから。
ケイが近づいてきた気配に気づいたのは、砂利の音ではなく、影の角度が変わったからだった。
銀髪の外交官が、セツナの隣に一歩分だけ寄る。金色と銀色のオッドアイが、作業中のセツナの手元を、それから顔を見た。視察という名目で来ているケイには、回収の補助をできる立場にない。それでも何かをしたかった——その意志がケイの足を動かしていた。
「[gentle]……無理をしなくていいです」
低く、静かな声だった。悪意はなかった。この場所の重さに圧倒されながら、それでもセツナの隣に立ち続けようとする、外交官なりの誠実さだった。
ライカが振り返った。
深紅の縦スリット瞳が、ケイを真っ直ぐに捉える。黒髪に赤のメッシュ、無造作に立った短髪。185cmの長身が、焦土帯の灰色の空を背負ってそこに立っていた。
「[angry]お前に何が分かる」
声は低かったが、切っ先が立っていた。ケイが振り向く。ライカの視線の剥き出しの怒りを受けて、一瞬、表情が固まる。
「[serious]戦場にいなかった奴が、軽々しく口を開くな」
反論しようとした。ケイの唇が、微かに動いた。けれどもライカの言葉の圧力——実戦を共にした者だけが持つ、地面から来るような凄み——が、言葉を吞み込ませた。ケイは唇を噛んで、沈黙した。
それがライカの怒りをかえって正当化した。
シュナが二人の間に入った。薄紫の長髪が風に揺れる。銀色の瞳が静かに、しかし毅然とライカを見た。
「[serious]今は作業中ですわ。落ち着いて——」
「[angry]あんたもだ」
ライカの矛先がシュナに向いた瞬間、空気が変質した。
「[angry]政庁にいて、戦況図を眺めてただけだろう。何人死んだか、数えてただけ」
シュナの顔から、血の気が引いた。
反論できない。それが一番辛かった。シュナは大戦中、前線にはいなかった。政庁で、地図の上の印を動かしながら、戦況を管理していた。その事実は変わらない。ライカの言葉が突き刺さったのは、嘘だったからではなく——正確だったからだ。
シュナは口を開いたまま、何も言えなかった。
三人の間に、修復できるかどうか分からない種類の亀裂が走った。
セツナはその全てを背中で聞いていた。手を止めなかった。止めてしまえば、この作業を続ける理由ごと崩れる気がした。瓦礫をどかす。遺品を確認する。布に包む。それだけを続けた。
*
深く埋まった瓦礫の下に、布の切れ端が見えた。
セツナは膝をついて、腕を差し込んだ。石の角が肘に当たる。指先で引っ掛けて、少しずつ引き出す。布が朽ちてほつれながら出てきた。中から、折り畳まれた紙が現れる。
泥と血と、三ヶ月の風雨に晒された封書だった。
黒く汚れていた。表面の大部分が泥で塞がれている。開封しようとしたが、血と泥で張り付いた封蝋が剥がれない。
それでも——右端に、わずかに残った筆跡を見た瞬間。
セツナの手が止まった。
見覚えがある。この癖のある字の運び。独特の止めのクセ。この、はねの角度。
(……あなたの、字だ)
三ヶ月前にこの場所で最後に見た、あの背中。呼んでも振り向かなかった、あの背中。
指先で封書の表面をなぞろうとする。泥が乾いて固まって、文字がほとんど読めない。内容が分からない。どれだけ目を凝らしても、泥の下の言葉に届けない。
声が聞けない。
最後の言葉に、今日もたどり着けない。
セツナの膝が、音を立てずに折れた。
大地に両膝をつく。封書を両手で胸に押し当てたまま、動けなくなった。泥まみれの紙が、手袋の上から、体温で少しだけ温まる。
三人が気づいて近づこうとした。
その瞬間——地面が、低く唸った。
空気が変質する。重く粘りついていた魔素が急激に凝集を始め、焦土帯の一角の土が、盛り上がった。
*
三メートルを超える影が、瓦礫の中から隆起した。
中級魔物——滞留した魔素が触媒となって生まれた異形だ。黒い外皮、複数の腕、光を吸い込む目が複数ある。他の回収士たちが悲鳴を上げて後退する。ガルフが撤退の指示を叫んだ。
ライカが抜刀した。
だが、頭はまだ冷えていなかった。ケイへの怒り、シュナへの言葉、その後の静寂——全部がまだ体の中で燃えていた。初撃が魔物の表皮を削っただけで止まった。返す爪が来る——間に合わない。
ザシュッ。布が裂け、皮膚が割れた。
ライカの脇腹から、赤が滲む。深くはない。でも浅くもない。痛みで顔が歪む。それでもライカは退かなかった。歯を食いしばって、もう一度剣を構える。
シュナが地面に手をついて、結界を展開した。
両膝をついたままのセツナの周囲を囲む光の膜。中級魔物の圧力が結界の端を軋ませる。シュナの顔に、汗が滲む。張り続けるのに全神経を使って、攻撃には回れない状態だ。それでも——セツナを守ることだけは、離さなかった。
ケイは剣を持っていない。外交官には戦闘能力がない。足元に落ちていた瓦礫の欠片を拾い上げたが、それで中級魔物に何ができるか——自分でも分かっていた。それでも手放せなかった。ただそこに立っていることしかできない、という事実が、ケイの胸に重く沈んでいた。
消耗が続いた。五分——あるいはもっと長かったかもしれない。
ライカが最後の力を絞った。脇腹の傷を無視して踏み込む。一歩、もう一歩。魔物の中心部——核に当たる発光点を、真っ直ぐに突く。
グシャ、と湿った音がした。
魔物が崩れる。黒い外皮が砂のように解けて、焦土の上に広がる。静寂が戻った。
ライカは片膝をついた。脇腹を押さえた手の下から、赤がゆっくりと滲み続けている。
*
シュナが結界を解いた。ライカに駆け寄ろうとした、その瞬間。
「[whispers]……また、守ってもらった」
かすれた声だった。地面に両膝をついたまま、封書を胸に押しつけたまま。小さな声だったが、焦土帯の静寂の中で、三人全員の耳に届いた。
誰も動かなかった。
セツナの声が、続いた。
「[sad]また、誰かが傷ついた。私のせいで」
呟きではなかった。三ヶ月分の重さを持った声だった。
ライカが立ち上がろうとした。何か言おうとして、口を開いた。
セツナが立ち上がった。手の震えは止まっていた。代わりに、声が割れ始めていた。
「[serious]もう近づかないで」
三人を見渡した。シュナを、ライカを、ケイを。一人ずつ、順番に。
「[crying]私に関わると、みんな傷つく。みんな——死ぬ」
シュナが名を呼ぼうとした。
「セツナ——」
間に合わなかった。
セツナは踵を返した。封書を握りしめたまま。他の回収士たちが退避した方向ではなく——焦土帯の、より深い闇の方へ。折れた樹木が密集して、光が届かなくなっている方向へ。走り出した。
ライカが追おうとした。脇腹の傷が、動こうとした体を止めた。痛みで膝が揺れる。歯を食いしばっても、足が思うように出ない。
シュナが二歩走って——止まった。
振り返ると、ライカが脇腹を押さえて膝をついている。負傷した彼を置いていくことが、体を縛った。シュナはそれ以上走れなかった。
ケイが最も速く走れる状態だった。セツナが消えた方向へ一歩踏み出す。でも——瓦礫と焦げた樹木の陰に、小さな背中はもう見えなかった。
焦土帯に、三人と、崩れた魔物の残骸だけが残された。
ライカの脇腹から、血が土に落ちる。
シュナの手が、空を掴んだまま、何もつかめなかった。
ケイは消えた方向をただ見つめていた。口元の微笑みの癖は、今はない。金色と銀色の目が、焦土帯の奥を見ていた。黒い大地と折れた樹木と、その向こうに続く闇が、セツナを呑み込んでいた。
風だけが、三人の間を抜けていった。
焦土帯の奥、光の届かない深部に、セツナは一人でいる。胸に泥まみれの封書を抱えたまま、どこへ向かっているのか、三人には分からない。ライカは動けず、シュナは動けず、ケイは間に合わなかった。三人の間には、ライカの言葉が引いた亀裂がまだ残っている。それは誰も、まだ修復していない。