灰の向こうに咲く花——テンペストの残火
戦争は終わった。テンペストは静寂に包まれている。
霧原セツナ――人間だった過去を失い、世界の狭間に囚われた少女は、戦いで亡くなった者たちの遺品を静かに集める日々を送っている。それが彼女なりの哀悼の方法だった。ほとんど口を開かず、涙も流さない。周囲の人々、つまり人間も怪物も、彼女がかろうじて踏みとどまっているのを感じ取っているが、誰も何と言えばいいのかわからない。
そんなある日、シュナが彼女の扉を叩き、無理やり夕食に連れ出す。静かな食事の席で、シュナはセツナの目を見つめて言う。「まだ泣いてないよね?泣いてもいいんだよ」と。その言葉はセツナの胸に深く刺さる――しかし涙はまだこぼれない。
やがて、紅丸に仕えた若き鬼の戦士、炎熊ライカがセツナの働く場所に現れるようになる。言葉は不器用でぶっきらぼうだが、ある日突然彼女の荷物を持ち、「手伝うよ。理由は聞かないで」とだけ言い、ただそこに毎日寄り添う。
セツナとライカが共に過ごすうちに、シュナはあることに気づく。ライカがセツナに惹かれているのだ。彼女はそれを警告のようにセツナに囁く。しかしシュナ自身もまた、誰にも心を開かない静かで壊れた少女に
灰の向こうに咲く花——テンペストの残火 - 無言の隣人——距離を取るほど、近くなる
シュナの声が、耳の奥に残っていた。
ライカ——あの子、あなたのことが好きなのよ。
囁くような小声だったのに、なぜか朝になっても消えない。セツナは慰霊管理局の石段を踏みながら、その声を追い払うように左肩を一度だけぎゅっと内側に丸めた。左肩の古傷が、冷えた朝の空気に鈍く反応する。秋が深まってきた証拠だった。
今日から作業区画を変える。
それだけ決めていた。特別な理由はない——と、セツナは自分に言い聞かせた。南東の端の区画は未整理の遺品が多く残っているから、実務上の判断だ。ライカを避けているわけではない。ただ、出勤をいつもより一時間早める必要があった。それだけだ。
早朝の焦土帯は、薄い霧がかかっていた。
灰色の大地が、靄の中でどこまでも広がっている。折れた樹木の影が、白い霧の中に黒い線を引いていた。足元の土は昨夜の冷え込みで固く締まっていて、踏むたびに乾いた音がした。誰もいない。風の音だけがある。
その静けさに、セツナは安堵を感じた。
——なぜ、来ないことにほっとしていないんだろう。
その問いが頭をよぎって、セツナは瓦礫に向かって身を屈めた。考えるな。手を動かせ。遺品を一つ布で包む。台帳に記録する。また次の一つに向かう。それだけでいい。
一日目、ライカは来なかった。
*
二日目の朝、区画を変えたのに、ライカが無言で隣に立っていた。
セツナが気づいたのは、影が横に伸びたからだった。振り返る前に、すでに長身の存在感が空気の質を変えていた。黒髪に赤のメッシュ、少し無造作に立った短髪。燃えるような深紅の縦スリット瞳が、地面を見ていた。どこで区画の変更を調べたのか、何も言わなかった。理由も、言い訳も、謝罪も、何も。
ただ木箱を一つ掴んで、荷車の方へ歩き出した。
「[cold]今日は一人で十分です」
ライカが一秒間だけセツナを見た。深紅の瞳が、真っ直ぐにセツナの蒼い瞳と交差する。それだけで、また視線を前に戻した。歩みを止めない。
返答がないという形の、拒絶の無視だった。
三日目も同じだった。
四日目、セツナはもう出勤時刻を変えなかった。
理由をうまく言葉にできなかった。ただ——変える気が起きなかった。ライカの反復には言い訳がなかった。感謝を要求することも、距離を縮めようとする素振りも、何もなかった。ただ毎朝そこにいて、重いものを持って、黙って歩く。その事実だけが、一日また一日と積み重なっていく。
拒絶する理由の方が、じわじわと侵食されていく感覚があった。
その日の作業中、セツナは半壊した石壁の残骸の下に遺品袋を見つけた。石の角が鋭く、腕を差し込む角度が難しかった。指先で引っ掛けようとした瞬間、重量バランスが崩れて袋がずれ落ちそうになった。
下から、大きな手が支えた。
ライカの手だった。音もなく腰を落として、石壁の下から遺品袋の底を支えている。力の加減は正確で、遺品を傷つけないように角度を考えていた——不器用に見えて、ちゃんと考えている。
セツナは反射的に口を開きかけた。
ありがとう、という言葉が舌の裏まで来て、止まった。
なぜ止めたのか、自分でもわからない。感謝を声にすることへの、セツナ自身の何か——誰かに頼ったと認めることへの、細い抵抗。
セツナは黙って袋を受け取り、布に包んだ。ライカはもう立ち上がって、次の作業場所に向かっていた。
*
大戦後の復興に伴い、テンペストはイングラシア王国との間で通商条約の詳細調整を続けていた。主な議題は、南部焦土帯の再建に必要な建材と食料の融通ルートだ。テンペスト政庁がその会議の窓口を担っており、シュナは政庁代表として会議に出席していた。
会議室は政庁の一階、石造りの中に木の長机が置かれた質素な部屋だった。窓の外にはまだ復興途中の区画が見えて、工事の槌音が遠くに聞こえる。シュナは対面に座るイングラシア王国の外交担当者たちと、物資の輸送タイミングと費用配分について一つずつ確認を進めていた。
遠山ケイが窓口として同席していた。
銀髪を後ろに束ね、濃紺の外交服を着た青年が、羽ペンで議事録を取りながら時折発言する。言葉は正確で、感情を出さない。会議の流れを把握する速度は速く、シュナも相手として不足はないと判断していた。
ただ——二度目に気づいた時、シュナは表情を変えないまま少し注意を傾けた。
ケイが、議題の合間に遺品回収の現場環境について質問していた。
一度目は「遺品回収士の危険地帯作業について、安全基準はどのように定められているのですか」という問いで、制度の確認として自然だった。二度目は「担当者ごとの割り当て区画は固定されているのでしょうか」。三度目は「個々の回収士の精神的な負担に対して、局としてのサポート体制は」。
議題の欄外に、三回。
制度への関心ではない。シュナはすぐに気づいた。質問の的の絞り方が、制度全体を把握しようとするものではなく、個々の担当者——特定の、誰かに向かっている。
会議が終わって廊下に出た時、シュナはケイに並んで歩いた。
「[gentle]遺品回収の現場に、ご関心がおありなのですね」
ケイは歩みを止めずに答えた。
「[serious]書類で判断するには、現場を知らなすぎると感じていますので」
それだけだった。
シュナは微笑んだ。追及はしなかった。廊下の石床を歩きながら、その微笑みの奥で、静かに何かが動いていた。
ライカという、あの不器用で真っ直ぐな男への嫉妬はすでにあった。ぶっきらぼうに隣に立ち続けるその姿が、言葉よりも雄弁にセツナへの想いを語っている——それを見る度に、シュナの胸の奥でちくちくとした。
だが今日、二人目が加わった。
性質が違う。ライカの想いは直接的で、感情が体に滲み出るものだった。ケイの関心は、書類の裏に数字を隠すように、礼節と知性の背後にある。どちらが手ごわいか、シュナには判断できなかった。ただ——二つの感情が同時に胸の中で燃えていることは、はっきりとわかった。
セツナを誰にも渡したくない。
その感情の核が、今日初めて、シュナ自身に明確な輪郭を持って見えた。
*
同日の午後、慰霊管理局から警告が出た。
南部焦土帯の南東区域で、アッシュウルフの群発が確認された。魔素濃度が一時的に上昇し、低級魔物の自然発生が増加している——そのため、該当区画を当面の間、危険指定とする。他の回収士たちは撤退を開始した。
セツナは動かなかった。
未回収の遺品がまだ三点ある。台帳で確認済みだ。遺族がいるかどうかはわからないが、放置する理由にはならない。
「[cold]もう少しで終わります」
同僚のゴブリン回収士に告げると、相手は困った顔をして、それ以上は言わなかった。全員が撤退する中、セツナだけが残った。
ライカが護衛を申し出た。
「[serious]俺がついていく」
「[cold]一人で大丈夫です」
短い拒絶。ライカは少しの間、セツナを見ていた。それから、三メートルほど離れた場所で腕を組んで立った。
護衛を認めてもらえなくても、その場を離れない。
セツナはライカの方を見なかった。作業を続けた。
*
翌日の午後だった。
焦土帯の、瓦礫が重なった一角。セツナは石の影に半分隠れた遺品の残骸を確認しながら、身を屈めて腕を伸ばした。風が止んでいた。霧はなかったが、空は厚い雲に覆われていて、光が薄かった。
背後で、かすかに砂利が動く気配がした。
振り返る前だった。
瓦礫の影から、二頭のアッシュウルフが飛び出した。灰色の毛並み、剥き出しの爪——背後から、セツナの首筋に向かって一頭が跳んだ瞬間。
ドン、と重い衝突音がした。
ライカが間に割り込んでいた。一頭を斬り伏せ、もう一頭の爪を左腕の外側で受け流す——腕の外側に、赤い線が走った。浅い。でも確かな刃傷だ。魔物を仕留めた後、ライカは振り返った。
「[serious]怪我は」
セツナは答えなかった。
ライカの左腕を見ていた。外套の袖に、赤がじわりと滲んでいる。大した量ではない。でも、その赤色を見た瞬間に、セツナの中で何かが止まった。
また誰かが傷ついた。私のせいで。
頭よりも先に体が動いた。荷物の中から包帯を引っ張り出して、ライカの方へ歩く。ライカは何も言わなかった。黙って腕を差し出した。
セツナの指先が、微かに震えていた。
包帯の端を持つ指先が、言うことを聞かない。怪我の処置など何度もやってきた。でも今、この指先は——仲間が倒れた瞬間と同じように、震えている。三ヶ月間、感情を殺してきた体が、ライカの血の色に正直に反応していた。
ゆっくりと、包帯を巻く。一巻き、また一巻き。
ライカはセツナの顔から目を逸らさなかった。じっと、静かに、ただそこにあるものを見るように——セツナの伏せた顔を、まっすぐに見ていた。
セツナはそれに気づいていた。気づきながら、最後まで目を合わせなかった。それが精一杯だった。それ以上、できなかった。
包帯を結ぶ。終わった。セツナは手を離した。
離す直前、ライカの腕の温度が手のひらに残った。
*
その場面を、丘陵の上から見ている目があった。
遠山ケイは視察ルートを離れて、ジュラ湖方向へ続く小さな丘の頂に立っていた。風が銀髪を揺らす。金色と銀色のオッドアイが、焦土帯の方角を見ていた。
遠目でも、二人の間の距離はわかった。セツナの手が、ライカの腕に触れている。それだけの事実が——ケイの胸の中で、これまで理性で整理してきたものを、一息に崩した。
外交官として、感情を持ち込んではいけない場所だということは知っている。現場を知りたかっただけだ、書類では見えないものを確認したかっただけだ——そう自分に言い聞かせてきた言葉が、今は空虚に響いた。
嫉妬だった。
曖昧な関心ではなく、明確な、輪郭のある嫉妬。それに気づいた瞬間、ケイは口元の微笑みの癖が消えていることに気づいた。
ケイはしばらくそこに立っていた。風だけが吹いていた。
*
夕刻、慰霊管理局の庁舎に灯りが点いた。
慰霊管理局長のガルフが、全遺品回収士を一階の受付室に集めた。ガルフは文官系のゴブリンで、小柄な体に正装の上着を着て、眼鏡の縁を一度押し上げてから紙を広げた。職員数約50名を擁する局を実務で回してきた男の、淡々とした声だった。
「[serious]来週の木曜日、南部焦土帯の最奥区画における最終回収作業を実施します」
受付室がざわめいた。
最奥区画——テンペスト大戦の最終決戦が行われた地点だ。最も多くの遺体と遺品が未回収のまま眠っている。これまで魔素濃度が異常に高く、立入禁止の区域だった。ガルフは説明を続けた。測定の結果、濃度が一定水準以下に低下したため、作業許可が下りた。参加は任意だが、可能な者には全員来てほしいと。
回収士たちが互いを見合わせた。あの区画がどれほど激しい戦場だったか——知っている者たちの顔が、一様に硬くなっていた。覚悟と、緊張と、静かな決意が、石造りの部屋に満ちた。
セツナは一言も発しなかった。
左肩の古傷が、じわりと熱を持ち始めた。服の上から触れることもせず、ただそこに立っていた。
最奥区画。その名前と、もう一つの名前が、頭の中で重なった。
——そこは、親友が最後の声を上げた場所だった。
三ヶ月間、崩れたことのなかったセツナの表情が、わずかに、しかし確実に強張った。瞳の色だけが、少し変わった。ガルフの声が遠くなる。周りのざわめきが、水の中から聞こえるようになる。
ガルフが締めくくった。参加の意志がある者は明朝、庁舎前に。
セツナは最後まで頷かなかった。
*
翌朝、庁舎に向かう道の途中で、シュナが待っていた。
広場の縁、慰霊碑建設中の足場の前に、薄紫の長髪をまとめた姿が立っていた。前夜の通達は政庁の報告ルートで届いていたのだろう。シュナはセツナの顔を一秒見て、何も聞かなかった。言葉も励ましも、何も言わないまま、セツナの前に立って、両手でセツナの右手を包んで握った。
温かかった。
セツナは何を返せばいいかわからなかった。返事を探しているうちに、後ろから足音が来た。
炎熊ライカだった。左腕に昨日巻いた包帯をそのままにして、セツナの二メートル手前で止まる。それだけ言った。
「[serious]俺も行く」
理由もない、条件もない、ただの宣言だった。
セツナが何か言おうとした次の瞬間、別の足音が近づいた。
遠山ケイが、外交官としての所作を崩さずに歩いてきた。昨日丘の上で見た光景が、まだ胸の中で静かに燃えているのを、顔に出さないように整えながら。
「[serious]視察という名目になりますが、同行させていただけますか」
広場に、四人が揃った。
シュナの手がまだセツナの右手を握っていた。ライカがその光景を見て、左手の拳をわずかに握った。ケイがシュナとライカの両方を静かに観察しながら、自分がどこに立つべきかを測っていた。
三つの視線の重さが、同時にセツナの上に乗った。
慰霊碑の足場が、朝の薄い光の中に黒く立っていた。来週の木曜日、最奥区画。そこに何があるかを、セツナだけが知っていた。
誰にも、返事ができなかった。