灰の向こうに咲く花——テンペストの残火
戦争は終わった。テンペストは静寂に包まれている。
霧原セツナ――人間だった過去を失い、世界の狭間に囚われた少女は、戦いで亡くなった者たちの遺品を静かに集める日々を送っている。それが彼女なりの哀悼の方法だった。ほとんど口を開かず、涙も流さない。周囲の人々、つまり人間も怪物も、彼女がかろうじて踏みとどまっているのを感じ取っているが、誰も何と言えばいいのかわからない。
そんなある日、シュナが彼女の扉を叩き、無理やり夕食に連れ出す。静かな食事の席で、シュナはセツナの目を見つめて言う。「まだ泣いてないよね?泣いてもいいんだよ」と。その言葉はセツナの胸に深く刺さる――しかし涙はまだこぼれない。
やがて、紅丸に仕えた若き鬼の戦士、炎熊ライカがセツナの働く場所に現れるようになる。言葉は不器用でぶっきらぼうだが、ある日突然彼女の荷物を持ち、「手伝うよ。理由は聞かないで」とだけ言い、ただそこに毎日寄り添う。
セツナとライカが共に過ごすうちに、シュナはあることに気づく。ライカがセツナに惹かれているのだ。彼女はそれを警告のようにセツナに囁く。しかしシュナ自身もまた、誰にも心を開かない静かで壊れた少女に
灰の向こうに咲く花——テンペストの残火 - 泥の中の文字——洞穴の告白と、堰が崩れる夜
洞穴の中は、世界から切り取られていた。
岩と岩の間の細い割れ目——人一人が膝を抱えてようやく座れる程度の空間。外の光は入口の隙間から一筋だけ差し込み、セツナの膝の上に細長い影を落としていた。夜明けを過ぎてもその光の角度はほとんど変わらず、時間の経過だけが洞穴の空気の冷え方で分かった。
セツナは両膝を胸に引き寄せ、封書を膝の上に置いていた。
泥まみれの紙。三ヶ月分の土と風雨に晒された、親友の手紙。爪の先で表面を引っかくたびに、乾いた泥の粉が指先に積もった。文字が見えない。どれだけ目を凝らしても、泥が石板のように固まって、その下の言葉に届かせてくれない。
焦土帯から逃げてきた夜、体が勝手に動いていた。南から北へ、湖畔の岸沿いを歩いて、普段の定位置の岩場を素通りして、さらに奥——巨石が折り重なった岩壁の陰に、この割れ目を見つけた。入れた。それだけで、ここに座り続けた。
一日が経った。また夜になった。また夜明けが来た。
泣こうとした。
胸の奥では何かがずっと軋んでいた。喉の手前まで何かが上がってきていた。でも、目が乾いたままだった。瞼を強く閉じても、何も出てこない。三ヶ月間、感情を殺して遺品を掘り続けた体が、涙の出し方を忘れていた。嗚咽しようとするたびに音が喉の途中で詰まり、ただ空気が揺れるだけだった。
泣けない苦しさは、泣ける悲しさよりずっと暗い場所にある。
セツナは封書を両手で包んで、額を膝に埋めた。
*
テンペスト政庁の小会議室は、石造りの四角い部屋だった。長机が一つ、椅子が三つ。窓の外には、まだ足場の残る慰霊碑の建設現場が見えた。
シュナが席についた時、ライカはすでに壁際に立っていた。左腕の包帯、脇腹の傷——完治していない体で、それでも立っていた。ケイが最後に入ってきて、外交官の礼節で椅子に座った。二日間、単独で捜索を続けた疲労が、金色と銀色のオッドアイの奥に静かに沈んでいた。
セツナが失踪して丸二日だった。
「[serious]捜索区域を分けましょう」
シュナが口を開いた。声は穏やかだったが、その穏やかさの底に、焦りが透けていた。自分以外が先にセツナを見つけることへの恐怖——それを隠すための、いつもの落ち着いた声。
ライカが壁から背を離した。
「[angry]お前のやり方の話をする前に、一つ聞かせろ」
深紅の瞳が、シュナを真っ直ぐに向いた。
「[angry]前の夜にガルフから話を聞いた。焦土帯でセツナを追い詰めた引き金について。お前が俺にそれを間接的に伝えてきた——俺の言葉が原因だと、そういうことだったよな」
「[serious]あなたが焦土帯でケイさんに言ったことも、セツナを傷つけましたわ。それは事実ですの」
「[angry]じゃあお前のやり方は何だ」
ライカの声のトーンが、一段下がった。低く、静かで、だから余計に鋭かった。
「[angry]毎日隣に立って、政庁の側近の権限で護衛の名目を作って、セツナの行動範囲に入り込んで——あれは守りたいんじゃなくて、縛りたいんだろ」
シュナの表情が、音もなく固まった。
反論の言葉が、出てこなかった。出てこないのは、その言葉が的を射ているからだった。シュナは自分でそれを知っていた。セツナの隣にいたかったのは、守るためだけじゃない——誰にも近づかせたくなかったから。それは保護ではなく、執着だった。
沈黙を見て、ケイが立ち上がった。
「[serious]今、セツナさんが必要としているのは——私たちの感情のぶつけ合いではないはずです。誰もセツナさん自身が何を望んでいるかを聞いていない」
正論だった。冷静で、整然としていて、正しかった。
だからこそ、シュナの中で違う感情が先に来た。
「[cold]部外者のあなたに、何が分かるの」
声は静かだったが、言葉の端が鋭く尖っていた。
「[cold]この国の人間でもない。あの子が三ヶ月間何を背負ってきたか、焦土帯に積み重なった死者の重さも——あなたには何も見えていないでしょう」
ケイの口が、一文字に結ばれた。
唇が微かに動いたが、言葉は出なかった。「部外者」という言葉が、ケイが外交官として第三者の立場から関わること——その全てを否定していた。その言葉の重みを、ケイは表情に出さずに処理した。処理しきれていなかったけれど。
三人とも正論を一つずつ持っていた。三人とも自分の恋心に突き動かされていた。三人とも、相手を傷つけた言葉の正確さを自覚していた。
誰も席に戻らなかった。誰も謝らなかった。誰も次の言葉を出せなかった。
無言で、三人は小会議室を出た。同じ方向を向いていたはずの三人が、この部屋で初めてバラバラになった。
*
ライカは南部焦土帯の外縁から湖畔まで、広範囲を駆けた。
身体能力を活かして、人間なら歩いて一時間かかる距離を二十分で踏破した。腕の傷が動くたびに軋んだ。脇腹が、走るたびに熱を持って訴えた。痛みで足を止めることをしなかった——セツナを見つけられないことへの焦りが、肉体の痛みを一時的に上回っていた。
湖の南岸。北岸。岩場の手前まで。
見つからない。
走りながら、ライカの頭にはシュナの顔があった。あの瞬間、シュナが反論できなかった顔——縛りたいんだろ、という言葉を受け取った時の、血の気が引いた顔。あの言葉は正確だったけれど、傷つけることに躊躇いがなかったわけじゃない。謝り方を、知らなかった。謝ったとして、何が変わるかも分からなかった。
ただ走った。
ケイは市街に戻って、慰霊管理局のゴブリン回収士たちに聞き込みをかけた。
「セツナさんが一人になりたい時に行く場所はどこか」——丁寧に、しかし一件一件確実に尋ねた。外交官として培った情報収集の手法を、今日は全て私的な目的に使っていた。それが外交官として正しいかどうかを考える余裕は、今はなかった。
シュナに「部外者」と言われた言葉が、胸に刺さったまま抜けていない。間違っていない、と自分では思う。でも正しいことを言っても、相手の痛みを増やすだけなら——何のための正論だったのか。ケイはそれを考えながら、また次の扉を叩いた。
湖畔の岩場——セツナの定位置——にまず向かったが、誰もいなかった。
もっと奥。その発想に行き着くのに、時間がかかった。
シュナは政庁の念話ネットワークを使った。リムルの配下による通信網——テンペスト全体をカバーするゴブリン哨戒班に、湖畔周辺の人影を報告するよう要請した。でも返ってくる報告はどれも「確認できず」だった。洞穴は岩壁の割れ目に隠れていて、上空からの視認が難しい。
シュナは報告を待ちながら、窓の外を見ていた。
縛りたいんだろ——ライカの言葉が、まだそこにあった。消えない。消えないのは、否定できないからだ。セツナを守りたいという気持ちは本物だった。でも、その気持ちの奥に、誰にも近づかせたくないという感情が同居していたことも——本当のことだった。
シュナは窓の外に目を向けたまま、静かに立ち上がった。
念話を待つより、自分で探す。足が動き出した。
*
日が傾き始めた頃、シュナは湖畔の最も人気のない場所まで来ていた。
巨石が折り重なった岩壁。その陰。
靴が一足、置いてあった。
シュナは声を出さなかった。岩壁の割れ目に身を滑り込ませて、膝をついて前を向いた。
洞穴の中に、セツナがいた。
両膝を抱えて、額を膝に埋めて、封書を胸に押し当てたまま。洞穴の入口から差し込む夕方の光が、その黒いショートボブを淡く照らしていた。
シュナは何も言わなかった。セツナも顔を上げなかった。
洞穴の外から夕風が入ってきた。二人の間に、長い沈黙が続いた。
シュナは、ここに来るまでの道のりで何度も言葉を考えた。何を言うか。どう伝えるか。でも今この場所で、言葉を探していないことに自分で気づいた。ただここにいること——セツナがここにいて、シュナもここにいること。その事実だけが、今この瞬間に持っていた重さだった。
それが、シュナ自身の感情の核心だと分かった。
どれほどの時間が経ったか。洞穴の光が、夕暮れの色に変わった頃。
シュナが口を開いた。
「[whispers]私ね、ずるいの」
声は静かで、装飾がなかった。政庁の側近として身につけてきた優雅さが、一切剥げた声だった。
「[whispers]あなたのそばにいたいのは、あなたを助けたいからだけじゃない。あなたが好きだから。誰にも渡したくないの」
セツナが顔を上げた。
シュナの銀色の瞳が、真っ直ぐにセツナの蒼色の目を見ていた。揺れていない。怖がっていない。ただ、そこに確かにある——剥き出しの、生の感情。
セツナは何も言えなかった。言葉を探したが、どこにも見つからなかった。シュナがこれほど飾らずに、自分の独占欲を声にするとは思っていなかった。その衝撃と——それを受け取るための言葉が、自分の中に一つもないことへの、静かな苦しさ。
*
シュナの声が、洞穴の外まで滲み出た。
岩壁の陰から姿を現したライカが、入口の前で足を止めた。
誰にも渡したくない——その言葉の最後まで、動けなかった。
自分の中にある感情を、先に誰かに言葉にされてしまった。嫉妬よりも深い場所にある、痛みだった。ライカ自身が言語化できないまま胸の中に燃やし続けていたものと、シュナの声が完全に重なった。言いたかったのは、自分だったかもしれない。でも自分には、あの言葉は出せなかった。
包帯を巻いた拳が、震えた。
ライカは踵を返した。洞穴から離れた。でも完全には立ち去れなかった。岩壁の陰に背をつけて、その場に佇んだ。洞穴の中の空気の重さが、外まで伝わってくる気がした。
さらに遅れて、ケイが岩場にたどり着いた。
入口の前に、ライカの背中があった。洞穴の中からシュナの声の余韻が届いていた。ケイは状況を瞬時に把握した。
立ち止まった。洞穴の入口に近い岩壁に背中を預けて、拳をゆっくりと壁に押し当てた。声は出さない。動かない。ただそこにいた。
介入すべきでない。外交官としての判断が、体を止めていた。でもそれ以上に——今自分が何を感じているかを、処理しきれていなかった。岩の冷たさが、手の甲から伝わってきた。
三人がそれぞれの場所で、セツナを意識したまま固まっていた。誰もセツナの前に立てないまま、夕暮れの岩場に。
*
シュナの告白から、時間が経った。
洞穴の中の空気が、少しだけ落ち着いていた。言葉の余韻だけが、岩の壁の間に残っている。セツナはまだ何も言えていなかった。シュナへの返答が、どこを探しても見つからなかった。
視線が、自然と膝の上の封書に落ちた。
逃げているわけではなかった。意識的に目を向けたわけでもなかった。ただ、ずっとそこにある——その事実が、引き戻すように。
洞穴の中に、夕方の乾いた風が入り込んだ。
封書の表面を、風が撫でた。
その瞬間——乾燥が進んだ泥の一片が、ごく小さく剥がれ落ちた。
そこに、文字が見えた。
一行だけ。
——セツナが生きてくれて、よかった。
親友の、癖のある筆跡だった。独特の止め、跳ねの角度、字の間隔。三ヶ月間、夢の中で何度も見た手の動き。
たったその一行が、セツナの胸の中心を正確に貫いた。
三ヶ月間、セツナが心の奥で最も恐れていた問いがあった。——私が生き残ったことを、あなたは恨んでいますか。あなたを置いて、私だけ帰ってきたことを。
恨んでいない。責めていない。
ただ、生きていてよかったと。それだけが、書いてあった。
三ヶ月間凍りついていた何かが、音を立てて崩れた。
セツナの瞼から、涙が溢れ出した。一滴ではなく、堰を切ったように。止まらなかった。止めようとする前に、喉の奥から声が出た——三ヶ月間、出し方を忘れていた声が。子供みたいに、形にならないまま。
シュナがすぐにセツナを抱きしめた。薄紫の髪が、セツナの頬に触れた。温かかった。
洞穴の外で、ライカが戻ってきて入口に立ち尽くした。
その嗚咽を聞いたまま、動けなかった。ライカ自身の目の端に、乾いた何かが滲んでいた。
岩壁に背をつけたままのケイが、静かに目元を指で拭った。
夕暮れの光が岩場を橙色に染めていた。四人全員が、この瞬間に何かを突き刺されていた。
セツナは泣き続けた。三ヶ月間泣けなかった分が、一気に流れ出すように。シュナの腕の中で、封書を両手に握りしめたまま。
夜が来ようとしていた。
シュナへの返答は、一言も出ていなかった。ライカは入口に立ち尽くしたまま、何もできなかった事実を抱えていた。ケイは壁に背をつけたまま、部外者の場所から動けなかった。三者三様の傷と宿題が、洞穴の周りに積み重なっていた。崩れた感情の堰は、セツナにとっての最低点からの一歩だった——ただし、一歩だけだった。その先は、まだ誰にも見えていなかった。