夕焼けは傷跡の色
戦いは終わった。花垣武道と仲間たちが命を懸けて守り抜いた東京は、今や痛々しいほど静まり返っている――その静けさこそが、また別の傷となっていた。
高校2年生になった武道は、これまで生き延びてきたすべての余波を背負っている。マイキーとドラケンは、かつてのような普通の生活に戻りつつある。日向も再び彼のそばにいる。それでも武道は心の奥が空洞になったような感覚に襲われていた――自分の大切な何かを燃やし尽くしてしまい、どう取り戻せばいいのかわからない。もう、うまく笑えなくなっていた。
そんな時、クラスメイトのアオキ由宇が彼の人生に現れる。由宇の瞳には、何度も敗北を味わってきた者の影が宿っていて、武道の無理な笑顔を見抜く。「まだ何かと戦っているんだろ?」と彼女は言い、武道はその場で崩れ落ちそうになる。
日向はすぐに気づく。由宇の前でだけ武道の表情がほころび、彼女の前では見せない顔を見せていることに。嫉妬か、恐れか、無力感か――自分でもその感情の正体がわからず、日向は距離を置き始める。そこへエンノジョウ陸が現れる。由宇の兄であり、かつてマイキーのクルーだった男だ。陸は冷たく武道に警告する、「由宇
夕焼けは傷跡の色 - 帰れない戦場——五月の屋上、錆びた錠前
左手首の傷痕が、今日も疼く。
花垣武道は錆びた鉄扉を肩で押した。壊れた錠前がガチャッと音を立てて外れる。毎日やってることなのに、なぜかその音だけは毎回うるさく聞こえた。
屋上の空気が、顔に当たった。
5月の夕方。肌寒くも暑くもない、ちょうど良すぎる風。武道はそれを嫌いじゃなかった。いや、正確には——ここが一番、息ができる気がした。
172センチの体を北側のフェンスに預ける。白いシャツの袖口は何度洗っても擦り切れたままで、制服屋で買い直す金もない。黒のスラックスの膝は少し白くなっている。誰も気にしないし、武道自身も気にしていない。
真っ赤な短髪——その一部に、黒く焦げた跡がある。触れれば分かる。でも誰も触らないから、誰も知らない。
眼下には、JRカミナリ線の高架が見えた。住宅街の屋根が夕陽を反射して、オレンジ色に光っている。コマツバラ町の景色。どこにでもあるような、静かな東京の片隅だ。
武道は深く息を吸った。
タイミング悪く、18時の電車が来た。
轟音が、屋上を揺らした。
その瞬間——
武道の体が、固まった。
頭の中で何かが弾ける。視界が白く飛んで、次の瞬間には真っ赤に染まる。血まみれで倒れる顔。誰かの顔。三つ、四つ——それが高速でめくれるみたいに押し寄せてくる。耳の奥で、骨が折れる音がした。自分の叫び声が聞こえる。誰に向かって叫んでいるのか、分からない。
でも現実の屋上には、誰もいない。
風だけが、フェンスを揺らして通り過ぎた。
武道は気づいたら、右手の親指で左手首の内側を撫でていた。
古い火傷の跡。
東京卍會の最終抗争で負った傷だ。約1年半前に終わったはずの、あの戦争。タケミチが何十回もタイムリープして、命がけで守った今——その唯一の物的な証拠が、この左手首にある。ヒリヒリするわけでも、痛いわけでもない。ただ、そこにある。消えない。
武道は息をゆっくり吐いて、空を見上げた。
オレンジが、赤紫に変わっていくところだった。
これが、毎日だ。
─────
朝のHRが始まる8分前。武道は2年3組の自分の席に着く。窓側最後列。校庭が見える席だ。桜並木の4本の木は、5月にもなれば葉桜になっている。緑のトンネルみたいで、春よりも静かだった。
1時間目は現代文だった。
担任のムラセ先生が教壇に立った。32歳、国語教師。神鳴高校に来てまだ数年らしいが、妙に観察眼が鋭い——と、武道は薄々感じていた。でも今は別に気にしていない。
「花垣、ここ読んでみて」
教科書のページが示された。武道は一度だけ視線を落として、すらすらと読み上げた。つっかえることもなく、抑揚も普通に。
「[serious]人生の本当の意味は、喪失の後にこそ——」
読み終えて、ムラセ先生が補足の質問を投げてきた。武道は的確に答えた。クラスメートが感心したような顔をする。窓の外では、下のクラスの生徒たちが体育の準備で走り回っている。
武道の目には、その光景が薄いガラス越しに見えていた。
遠い。全部、遠い。
昼休み。武道は仲間数人と机を寄せた。弁当を広げる。ヤマキタ弁当のから揚げ弁当——480円。母親が「ちゃんと食べなさい」と毎朝渡してくれる小銭で買う、唯一の楽しみのはずだった。
「武道さあ、体育祭の出る種目どうすんの」
「100m出ればいいんじゃない」
「速いもんな」
「[laughing]去年も1位だったし」
武道は笑った。タイミングよく、自然に。自分でも驚くくらいうまく笑える。相槌も打てる。話題だって振れる。誰も気づいていない——武道が3週間前から、週に2回保健室に逃げていることを。授業中に窓を見続けて、先生の声が遠くなる瞬間があることを。
気づいていない。誰一人。
ただ一人を除いて。
─────
3階の職員室横の廊下。ムラセ先生は職員室に戻るたびに、一度だけ窓から屋上フェンスを見上げる。
今日も、赤い頭が見えた。
先生はポケットのメモ帳を取り出した。小さな手帳に、今日の日付を書き加える。「保健室:本日なし」「昼食:完食」「屋上:確認」。
2年3組の担任になって約1ヶ月。先月からこの記録をつけている。カイセイ制度の担当校として、神鳴高校の教師にはメンタルヘルス研修の受講が義務付けられていた。だから知っている——花垣武道が、東京都の更生支援及び心的外傷ケア包括制度、通称カイセイ制度の登録者であることを。そして2ヶ月前から、指定医療機関であるキタハラ心療内科への来院を完全に止めていることも。
ムラセ先生は窓から目を離さなかった。
フェンスの向こう、16歳の背中が夕焼けの中で小さく見える。
まだ、何も言えない。言うべきタイミングじゃない——ムラセ先生はそう判断していた。でも毎日見ている。毎日、数えている。
─────
放課後。また屋上に来た。
夕焼けが暗紫色に変わる頃、武道はフェンスの柵に指をかけて、北の景色を眺めていた。JRカミナリ線の高架。住宅街の屋根。電線。鳥が1羽、横切っていった。
頭の中で、声が聞こえる。
マイキーは今、普通に生きてる。
ドラケンも。他のみんなも。
カイセイ制度に登録して、カウンセリングに行って、日常に戻っていった。タイムリープなんて誰も信じないし、信じさせる必要もない。全部終わった。命がけで守った今が、ここにある。
なのに。
なのに、なんで俺だけ——
複数の時間軸の記憶が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざってる。どれが本当の過去で、どれが消えた未来なのか、もう分からない。キタハラ心療内科のカウンセラーに話せることなんて何もない。「何度も同じ奴が死ぬ夢を見る」とは言えない。あれは夢じゃない。全部、本当にあったことだ——少なくとも、自分の記憶の中では。
夢と記憶の区別が、もうつかない。
武道は左手首を見た。
この傷だけが、あの戦場の現実を証明する唯一のものだ。カウンセラーにも、この傷の意味は説明できない。
風が吹いた。フェンスがかすかに鳴る。
屋上には、誰もいない。
─────
コマツバラ町のアパート2階。武道の自室は6畳で、窓から隣の建物の壁しか見えない。母親はまだパートから帰っていなかった。夕方の5時半。部屋が静かすぎた。
武道は制服のまま、引き出しの前に座り込んだ。
一番奥の引き出し。ガムテープで目印をつけた場所。
取り出したのは、古いノートだった。黒い表紙。所々ページが波打っている——水か、汗か、涙か、もう分からない。武道が屋上で毎日書き続けているノートとは別の、もっと古い一冊だ。
ページをめくる。
乱雑な字が走っていた。仲間の名前、日付、場所。タイムリープを繰り返す中で、記憶をなくさないために書き残したもの。ページが変わるたびに、筆跡が微妙に違う。急いで書いた跡、震えながら書いた跡、泣きながら書いた跡——全部ある。
武道はページを1枚ずつめくった。
知ってる名前が並んでいる。死んだ奴の名前も、生き残った奴の名前も。全部書いてある。全部、本当にあったことだ。複数の時間軸で。
あるページで、手が止まった。
端に、見覚えのない名前があった。
ミナカミ・ソウタ。
誰だ。
武道はその四文字をじっと見た。自分の字だ。間違いなく、自分で書いた。でも、どの時間軸で会った人間なのか——生きていたのか、死んでいたのか——周囲には何の説明もない。ただ、乱暴な字でその名前だけが書かれていた。
(思い出せない)
思い出せないということは、忘れたということだ。
忘れたということは——
武道はその先を考えるのをやめた。
ノートを閉じて、引き出しの奥に戻す。ガムテープの目印を確認してから、引き出しを閉める。
制服を脱いで、布団に倒れ込んだ。
天井を見つめる。白い天井。シミが一個、右上の端にある。引っ越してきた日からずっとそこにある。今も。武道の目が、しばらくそのシミを追ってから、やがてぼんやりしていった。
玄関の鍵が開く音が、ずっと後になって聞こえた気がした。
─────
翌日も、その翌日も、同じだった。
登校して、授業を受けて、保健室に一度逃げて、昼に笑って、屋上に行って、帰る。毎日が同じルートをたどった。コマツバラ中央通り商店街を過ぎて、帰り道のヒバリ公園の横を通って、アパートに帰る。喫茶ハルノキの前を通るたびに、武道は少しだけ速度を上げた。窓際の席が見えてしまうから。以前ヒナタとよく行った場所だから。今は足が向かない。理由は上手く説明できない。
ある月曜日の終礼だった。
ムラセ先生がホームルームの最後に言った。
「[serious]来週の月曜日、転入生が一人来ます。2年3組に。席は——窓側最後列の、花垣の隣」
クラスがざわっとした。
「え、誰?」
「男?女?」
「先生、どっちですか」
「[serious]それは来週のお楽しみで」
先生は微かに笑って、終礼を締めた。クラスメートが各自の机に戻って荷物をまとめ始める。
武道は窓の外を向いたままだった。
隣の席。
ずっと空いていた。気にしたことは一度もなかった。透明な空気みたいに、そこに存在してた。
来週、そこに誰かが来る。
武道は何も感じなかった。感じようとしなかった。荷物をまとめて立ち上がり、教室を出た。
廊下を歩いて、階段を下りて、正門を抜けた。葉桜の並木が、夕風に揺れている。4本。毎日通る場所。でも今日初めて、一本一本の幹の太さが違うことに気づいた。なんとなく、立ち止まって見てしまった。
別に意味はない。ただ、目に入っただけだ。
武道はまた歩き出した。
ヒバリ公園の前まで来たとき、足が止まった。
なぜ止まったのか、自分でも分からない。理由なんてなかった。公園の中を見ると、ブランコが2基、夕暮れの中に立っていた。誰も乗っていない。風で微かに揺れている。チェーンが少しだけきしむ音がした。
街灯がまだついていない時間。空はオレンジと紺が混ざる手前で、ちょうど曖昧な色をしていた。
武道はブランコを10秒ほど見つめた。
何かが変わるとは思っていなかった。来週誰かが来ても、きっと今と同じ毎日が続く。空虚な笑いを作って、屋上に来て、古いノートを見て、また眠る。それだけだ。
でも——
武道は視線を戻して、また歩き出した。
コマツバラ町の夕暮れが、深く静かに沈んでいく。カミナリ線の高架を電車が通り過ぎる音が、遠くで聞こえた。今日はフラッシュバックは来なかった。
それだけが、今日のわずかな違いだった。