夕焼けは傷跡の色
戦いは終わった。花垣武道と仲間たちが命を懸けて守り抜いた東京は、今や痛々しいほど静まり返っている――その静けさこそが、また別の傷となっていた。
高校2年生になった武道は、これまで生き延びてきたすべての余波を背負っている。マイキーとドラケンは、かつてのような普通の生活に戻りつつある。日向も再び彼のそばにいる。それでも武道は心の奥が空洞になったような感覚に襲われていた――自分の大切な何かを燃やし尽くしてしまい、どう取り戻せばいいのかわからない。もう、うまく笑えなくなっていた。
そんな時、クラスメイトのアオキ由宇が彼の人生に現れる。由宇の瞳には、何度も敗北を味わってきた者の影が宿っていて、武道の無理な笑顔を見抜く。「まだ何かと戦っているんだろ?」と彼女は言い、武道はその場で崩れ落ちそうになる。
日向はすぐに気づく。由宇の前でだけ武道の表情がほころび、彼女の前では見せない顔を見せていることに。嫉妬か、恐れか、無力感か――自分でもその感情の正体がわからず、日向は距離を置き始める。そこへエンノジョウ陸が現れる。由宇の兄であり、かつてマイキーのクルーだった男だ。陸は冷たく武道に警告する、「由宇
夕焼けは傷跡の色 - 鏡の傷——ミナカミの名前
月曜から水曜、水曜から金曜。
その三日間の記憶が、武道の中では妙にぼんやりしていた。授業を受けていた。給食を食べた。廊下を歩いた。でも何一つ、手触りのある時間じゃなかった。全部が薄い膜の向こうにあるみたいで、教室の音も、先生の声も、窓から差し込む五月の光も、自分の中に入ってこなかった。
窓側最後列の席で、武道は肘を机についたまま外を見ていた。
屋上には行っていない。三日間、一度も。鉄扉の前まで来て、錠前に触れる前に足が止まった。あそこに行く資格が今の自分にあるのかどうか、分からなかった。由宇が「やっぱり、近づかなきゃよかった」と呟いた瞬間の空気が、フェンスの冷たさと一緒に体に貼りついていた。ヒナタの両手が胸を突き飛ばした感触も、まだどこかに残っていた。
ヒナタとは口をきいていない。三日間、斜め前の席に座っているのに、一度も声を出さなかった。ヒナタが武道の方を向いた気配は感じた。でも顔を上げられなかった。何を言えばいいのか分からなかった。謝る言葉は分かる。でも謝った後に何が残るのかが、全く見えなかった。
由宇も同じだった。席は隣なのに、三日間で交わした言葉はゼロだ。
ムラセ先生が授業中に武道を当てた。数秒の間があって、教科書の答えを読み上げた。機械みたいな声だった。ムラセ先生が一瞬だけ武道を見つめてから、次の生徒へ視線を移した。
放課後のチャイムが鳴った。
クラスメートが帰り支度を始める中、武道は動かなかった。鞄を持つ気力が、なかった。あるいは、教室から外に出た先に何があるのかを、考えたくなかったのかもしれない。
──────
正門前の桜並木は、今日も葉桜だった。
五月の光が緑の葉を透かして、小さな影を地面に落としている。下校する生徒たちの流れに乗って正門をくぐった武道は、その光の中で、足を止めた。
桜並木の前に、男が立っていた。
下校する生徒の流れから外れた場所に、腕を組んで。革ジャンに、ピアス。短く刈り上げた黒髪に、赤いメッシュが一筋。左眉に大きな傷跡。口元の横に、小さな刺青。182センチはある体躯が、正門の前に壁みたいに立っていた。
冷たい赤色の瞳が、武道の顔を捕まえた。
周囲の生徒が何人か、その男に気づいてざわついた。声は出さないが、誰もが少し遠回りをしながら男の横を通り抜けていく。男はその視線を一切気にしなかった。武道だけを見ていた。
武道の足が、自然に止まった。
「[cold]お前が、花垣武道か」
低い声だった。問いかけというより、確認だった。武道は頷いた。それだけで男の表情が固まった。
次の瞬間、武道の胸ぐらが両手で掴み上げられた。
地面から少し浮く感覚。視界が持ち上がる。背中が、正門横の校舎外壁にぶつかった。鈍い衝撃が背骨を走った。コンクリートの外壁の、ざらついた感触が肩甲骨に食い込んだ。
周囲で誰かが声を上げた。帰りかけていた数人が足を止めて、こちらを見ている。
男は武道の胸ぐらを掴んだまま、顔を近づけた。
「[angry]由宇に近づくな」
唇が薄く動いた。声は低かったが、鋭かった。空気を切るような語気だった。
「[angry]あいつはお前のカウンセラーじゃねえ」
男の膝が、武道の腹に入った。
肺から空気が出た。声は出なかった。体が折れようとするのを、男に掴まれた胸ぐらが支えた。武道の足がコンクリートの上をわずかに滑った。
武道は反撃しなかった。
腕が動かなかった、というわけじゃない。体は確かに反応を知っていた。東京卍會にいた頃、何十回もの抗争をくぐり抜けた体が、打撃への反射を持っていた。でも今、その本能が完全に黙っていた。殴り返すことへの意志が、どこにもなかった。
壁に体重を預けた。
男の目が近くにあった。
「[angry]てめえみたいな半端な奴が、由宇を巻き込むんじゃねえ」
声が上がった。怒鳴り声だった。正門前に残っていた生徒たちが、まとめて一歩後ずさった。
「[angry]あいつはもう十分壊れてんだ。これ以上——」
その声が、震えた。
ほんの一瞬だった。声の先端が、怒りではない何かに触れた瞬間があった。武道はそれを、壁に背を預けたまま、正面から聞いた。
「やめて!」
走ってくる足音が聞こえた。
校舎の方から。シルバーの髪が揺れていた。由宇だった。左耳のシルバーリングが夕方の光を弾いていた。金色の瞳が、男の背中を見ていた。
由宇は男の腕にしがみついた。
「[crying]お兄ちゃん、やめて」
声が震えていた。涙は出ていなかった。でも声だけが、細かく揺れていた。
男の体が、固まった。
兄の名前を呼ばれた瞬間の、その顔——武道はその表情の変化を、はっきりと見た。怒りが一瞬だけ崩れた。怒りの下にあったものが、ほんの一瞬、表に出た。恐怖だった。それから後悔が混じった。すぐに冷たい表情に戻ったが、その一瞬が確かにあった。
男は武道の胸ぐらから手を離した。
武道の体がずるりと壁を滑り、地面に腰をついた。
「[cold]帰るぞ」
男が由宇の腕を引いた。由宇は引きずられた。でも正門を出る直前に、一度だけ振り返った。
壁に座り込んだ武道を見た。
その目に謝罪はなかった。哀れみもなかった。ただ痛みだけがあった。由宇が持っている種類の痛みが、まっすぐこちらに向いていた。それから二人の姿が、コマツバラ中央通りの方へ消えた。
武道は壁に背を預けたまま、口の端に指を当てた。
血の味がした。
周囲の生徒がまだ見ていたが、武道には見えなかった。男の声が頭の中で反響していた。——あいつはもう十分壊れてんだ。
その声が、震えていた事実。
武道はゆっくりと考えた。コンクリートの冷たさを背中で感じながら。
男は由宇を守りたかったわけじゃない。由宇がこれ以上壊れることへの恐怖に、あの男は支配されていた。守ることの名目で、実際には自分の恐怖を武道にぶつけていた。由宇に近づくな、という言葉の裏側に、これ以上俺を怖がらせるなという声が聞こえた。
武道の胸の中で、何かが静かに動いた。
守る側が守ることで相手を縛る。
ヒナタの前で笑い続けていた一年半が、違う形で見えた。大丈夫だよと言い続けたのは、ヒナタを安心させるためだったはずだ。でも実際には、自分が壊れていることをヒナタに見せたくなかっただけだ。仮面を被り続けることで、ヒナタの手が届かない場所に逃げ込んでいた。守ろうとして、逆に遠ざけていた。
口の端から血が滲んでいた。
武道はそれを手の甲で拭いながら、立ち上がった。
──────
コマツバラ町のアパートの2階。
母親はまだ帰っていなかった。日勤のパートは夕方に終わる。武道は6畳の自室に入って、制服のまま床に座った。口の端を濡れタオルで押さえた。傷は浅かった。
引き出しを開けた。
奥から黒い表紙のノートを取り出した。
ページをめくった。仲間の名前、日付、場所。タイムリープを繰り返す中で記憶を失わないために書き続けてきたもの。この一年半、何十回も何百回も読み返した文字の羅列。
ミナカミ・ソウタのページで、手が止まった。
名前の横の「ごめん」という文字。
武道は電気スタンドを近づけた。筆跡を見た。自分のものではない筆跡だということは、もう分かっていた。筆圧の違い。字の傾き。武道のクセが一切ない、力のない震えた文字。
今夜、初めて、その理由が浮かんできた。
タイムリープを何十回も繰り返した。ある時間軸で、武道は少年に会っていた。名前を知っていた。一緒にいた時間があった。でもその時間軸は、武道の選択によって上書きされた。歴史が書き換えられ、その時間軸が消滅した。消滅する刹那——少年は武道のノートを引ったくった。そして、自分の名前だけを書いた。
忘れないでほしいという、言葉にならない意志として。
武道は息を吐いた。
その記憶が、ずっとそこにあった。何十回ものタイムリープの混濁の中で、他の記憶に埋もれて、触れられないまま沈んでいた。今夜、陸の怒鳴り声が引き金になって、浮かんできた。
「ごめん」という三文字が、武道のものではない手で書かれていた理由が分かった瞬間——何かが、武道の喉の奥で、音を立てた。
声が、出た。
武道が声を上げて泣いたのは、いつぶりか分からなかった。第1話から第5話まで一度も泣かなかった。屋上でも、ヒナタの前でも、由宇の前でも、涙は来なかった。でも今夜、誰も見ていない自室で、声が出た。
嗚咽だった。
守れなかった命の名前を、何十回ものタイムリープの混濁の中でずっと曖昧にしていた自分への怒りが来た。それと同時に——それでもこのノートにその名前が残っていた事実への安堵が来た。消えた時間軸の少年が、自分で名前を書いた。武道が守れなかった少年が、武道に忘れないでほしいと願った。その事実が、今夜初めて武道に届いた。
泣きながら武道は気づいた。
ヒナタにも由宇にも本当の顔を見せられなかった理由が、今夜見えた。守れなかった自分を誰かに見せることへの恐怖だった。仮面は周囲のためではなく、自分の罪悪感を隠すためのものだった。ずっとそうだった。大丈夫だよと笑い続けることで、自分がどれだけ壊れているかを見なくて済んでいた。
泣き続けた。
電気スタンドの光の中に、「ごめん」の三文字が揺れて見えた。武道は手の甲で目を拭いながら、その文字を見ていた。
──────
深夜、武道は部屋を出た。
制服のまま。鞄も持たずに。アパートの階段を降りて、コマツバラ町の夜道に出た。街灯が点々と続いている。どこかで虫が鳴いていた。風が少しあって、五月の夜の温度が頬に触れた。
南へ歩いた。
喫茶ハルノキの前を通り過ぎた。電気が消えていた。シャッターが下りていた。キタハラ駅前ビルへと続く道を歩き続けた。住宅街の路地を抜けて、大通りに出る。コンビニのデイリーショップ北神鳴店の前で、武道はコマツバラ町から南へ来た方向を確かめた。
キタハラ心療内科——カイセイ制度の指定カウンセリング機関の一つ——の入り口は、キタハラ駅前ビルの3階にあった。武道が2ヶ月前まで月1回通っていた場所だ。
エレベーターで3階に上がった。
深夜営業対応の緊急窓口の明かりがついていた。受付の夜間スタッフが顔を上げた。武道の顔を見て、少し驚いた様子だったが、すぐに促した。
担当カウンセラーが来た。
30代の女性だった。武道が2ヶ月前まで通っていた時と、同じ人だった。丸眼鏡をかけた、静かな話し方をする人だった。武道を見て、何も言わずに席を勧めた。
武道は座った。
しばらく、黙っていた。何をどこから話すべきか分からなかった。タイムリープのことは話さなかった。それは今夜の問題じゃなかった。
それよりも先に、言葉が出てきた。
「[serious]俺、大事な人を傷つけました」
カウンセラーが静かに聞いていた。
「[serious]守りたかったのに……逆に壊してた」
声が掠れた。続きを言おうとして、一度詰まった。それでも出てきた。
「[sad]俺は帰ってきてなかった。体はここにいるのに、心はまだあの戦場にいた」
その言葉が出た瞬間、武道自身が少し驚いた。今まで言葉にしたことがなかった。でも今夜、初めてその言葉が正確に見えた。能力があった頃から、その後も、ずっとそうだった。戦いが終わった場所から、武道だけが帰れていなかった。
カウンセラーは急かさなかった。メモも取らなかった。ただ武道の言葉を聞いていた。
「[serious]次はいつ来られますか」
静かな声だった。
武道は少し考えた。
「[serious]明後日」
自分でも驚くくらい、すぐに答えが出た。
受付で次回の予約を入れて、エレベーターで1階へ降りた。ビルの外に出ると、キタハラ駅前の夜の空気が顔に当たった。自動販売機の明かりが、地面に四角く光を落としていた。
武道はコマツバラ町への道を歩き始めた。
体の中で何かが変わったわけじゃない。ヒナタとの3日間の断絶はまだそのままだった。陸に連れていかれた由宇が今夜どこにいるかも分からなかった。守れなかった少年の名前は、ノートの中にまだあった。
でも今夜初めて、武道は自分の口でそれを言った。大事な人を傷つけた、と。帰れていなかった、と。
夜道が続いていた。街灯の光が、足元を短く照らしては途切れた。