夕焼けは傷跡の色
戦いは終わった。花垣武道と仲間たちが命を懸けて守り抜いた東京は、今や痛々しいほど静まり返っている――その静けさこそが、また別の傷となっていた。
高校2年生になった武道は、これまで生き延びてきたすべての余波を背負っている。マイキーとドラケンは、かつてのような普通の生活に戻りつつある。日向も再び彼のそばにいる。それでも武道は心の奥が空洞になったような感覚に襲われていた――自分の大切な何かを燃やし尽くしてしまい、どう取り戻せばいいのかわからない。もう、うまく笑えなくなっていた。
そんな時、クラスメイトのアオキ由宇が彼の人生に現れる。由宇の瞳には、何度も敗北を味わってきた者の影が宿っていて、武道の無理な笑顔を見抜く。「まだ何かと戦っているんだろ?」と彼女は言い、武道はその場で崩れ落ちそうになる。
日向はすぐに気づく。由宇の前でだけ武道の表情がほころび、彼女の前では見せない顔を見せていることに。嫉妬か、恐れか、無力感か――自分でもその感情の正体がわからず、日向は距離を置き始める。そこへエンノジョウ陸が現れる。由宇の兄であり、かつてマイキーのクルーだった男だ。陸は冷たく武道に警告する、「由宇
夕焼けは傷跡の色 - 隣の席——仮面の崩壊
金曜日の夜の記憶が、まだ体に残っていた。
ヒナタの拳が胸に当たった感触。声を殺した泣き声。ごめん、とだけ言って屋上を出た時の鉄扉の重さ。あの夜から土日を挟んで、武道は一度もヒナタに連絡しなかった。できなかった。スマートフォンを開くたびにヒナタとのトーク画面が視界に入って、何も打てないまま閉じた。謝るべきだと分かっていた。でもどう謝るのかが分からなかった。謝っても、何かが変わるとは思えなかった。
月曜の朝、武道は窓側最後列の席に座って、外を見ていた。
5月の空は水色だった。JRカミナリ線の高架が遠くにある。葉桜の緑が風でさらさらと揺れている。教室はHR前の雑踏で満ちていた。誰かが笑っている。誰かが鞄を机に投げている。その音の一つひとつが、武道の耳に届いては、砂みたいに消えていく。
隣の席は、今日も空いていた。
ムラセ先生が教壇に立った。HRが始まる前に、珍しく手を叩いて注目を促した。
「[serious]今日から転入生が来ます。2年3組に」
クラスがざわついた。「誰」「どこから」「男女どっち」——声が重なり合う。武道は窓の外を向いたまま、教室のざわめきを聞いていた。
ドアが開いた。
最初に目に入ったのは、シルバーの髪だった。後ろで一つに束ねた、艶のある銀色。教壇に立った瞬間、教室がほんの少しだけ静かになった。165センチほどの痩せた体。左耳に小さなシルバーリングが複数。金色の瞳が、教室全体をさっと見渡して——何にも引っかからなかったように、すぐに床の一点を向いた。
その目に、温度がなかった。
「[cold]アオキ由宇です」
それだけだった。
クラスがまたざわついた。「えっ、以上?」「自己紹介短すぎ」「名前だけ?」——そういう声が聞こえても、由宇は顔を上げなかった。ムラセ先生が席を促した。
「[serious]席は、花垣の隣ね」
由宇が歩いてきた。武道の左隣——ずっと空いていた席。椅子を引く音がした。荷物を机に置く音がした。武道は窓の外を向いたまま、左側に人間が来た気配を感じていた。
長い間、空気の一部みたいに存在していた席に、体温を持った誰かがいる。その事実が、異物感として武道の肌に触れた。
由宇は荷物を置くと、一度だけ武道の横顔を見た。
武道は気づかなかった。
─────
昼休み、教室から人が引いていった。
ヤマキタ弁当の袋を持った男子たちが廊下に出ていく。友人グループで連れ立って食堂へ向かう声。「由宇もいく?」と声をかけた女子がいたが、由宇は首を横に振った。それ以上は誰も誘わなかった。
静かになった教室に、武道と由宇が残った。
武道は弁当を広げていなかった。机に肘をついて、窓の外を見ていた。校庭の葉桜。その向こうの住宅街の屋根。何も考えないようにしながら、結局何かを考えている——そういう時間だった。
右手の親指が、ゆっくりと動いていた。
左手首の内側を、なぞっていた。袖がわずかにずれて、古い火傷の跡が見えていた。ざらついた皮膚の感触。武道はそれを、意識せずになぞっていた。毎日していることだった。気づいた時にはもう、指が動いている。
斜め前の席で、由宇は教科書を開いていた。
ページをめくっていたが、目が文字を追っていなかった。視線の端で、武道の左手首を捉えていた。擦り続ける指の動き。わずかに前傾した肩の角度。息の浅さ。一つひとつを、由宇は静かに拾い上げていた。
武道が左手首を袖の中へ引っ込めた瞬間、由宇は目を教科書へ戻した。
何も言わなかった。何も表情を変えなかった。
ただ、ページをめくる指が一瞬だけ、止まった。
─────
放課後。
廊下を出ていくクラスメートたちをやり過ごしてから、武道は席を立った。鞄を持たずに教室を出た。4階への階段を上る。階段を上がるにつれて、音が減っていく。足音。話し声。チャイムの残響。それが全部、下に置いてくるみたいに消えていく。
屋上の鉄扉の前に着いた。
壊れた錠前に触れた。毎日確かめる癖がついている。ここが壊れていること、ここに入れること、ここだけが武道の居場所であること——そういうことを、指先で確認する。
扉を肩で押した。
開いた瞬間、後ろに人の気配があった。
振り返ると、シルバーの髪が夕方の光を受けていた。由宇だった。武道から一メートルも離れていない場所に、静かに立っていた。
「[cold]鍵、壊れてるんだね」
武道は何も言わなかった。追い出す言葉を探したが、見つからなかった。なぜここにいるのかも聞けなかった。由宇は武道の返答を待つことなく、鉄扉をくぐって屋上へ出た。武道はその後ろをついていった——いや、追い出せないまま、そこにいた。
屋上の空気は、教室と違う。視界が開ける。空が多い。JRカミナリ線の高架が北側に見える。住宅街の屋根が広がる。夕方前の空は、まだオレンジになりきれていなかった。
二人は並んで、北側のフェンスに近い場所に立った。
沈黙が続いた。
由宇は喋らなかった。武道も喋らなかった。風が吹いて、由宇の束ねた銀色の髪が揺れた。武道はフェンスの鉄柱から少し離れた場所に立って、高架の方を見ていた。なぜこいつがここにいるのか、なぜ追い出せないのか、それすら考える気力がなかった。ただ、沈黙が続いていた。
そして——18時の電車が来た。
高架の上を、轟音が走り抜けた。
武道の背中が固まった。
意識するより先に体が動いていた。左手がフェンスの鉄柱を掴んでいた。骨の折れる音が蘇る。誰かの叫び声が重なる。どの時間軸の記憶か、どの夜の光景か——判別がつかないまま、複数の画像が瞼の裏で点滅して、消えた。電車の音が遠ざかる。3秒か、5秒か。武道の指が、鉄柱を握りしめたまま白くなっていた。
由宇はその反応を、正面から見ていた。
電車の音が完全に消えた後、しばらく沈黙があった。
それから由宇が、静かに口を開いた。
「[whispers]あなた、まだどこかで戦ってるでしょ」
武道の全身から、何かが抜けた。
力が抜けると同時に、全身が石になるような感覚が同時に走った。矛盾した二つの感覚が、体の中で重なった。誰も見破らなかった。何ヶ月も、ヒナタも、ムラセ先生も、誰もこの言葉を選ばなかった。出会って数時間の転入生が、何の武器も使わず、ただ見ていただけで——剥がした。
武道の目に、熱いものが来た。
こぼれる手前で、止まった。
何も言えなかった。否定する気力もなかった。肯定する言葉も出てこなかった。武道はただ、フェンスの鉄柱を握ったまま、前を向いていた。
由宇は追い打ちをかけなかった。
二人は並んだまま、夕焼けが深まるのを黙って見ていた。空がオレンジになっていく。その色が少しずつ赤紫に変わっていく。武道の内側の何かが、この沈黙の中でゆっくりと動いた。ここでは、普通の高校生を演じなくていい。笑わなくていい。大丈夫だよと言わなくていい——初めてそう感じた場所が、屋上だった。今日からその屋上に、由宇がいる。
それが恐ろしいのか、安堵なのか、武道には分からなかった。
─────
翌日から、武道は由宇に自分から言葉をかけるようになった。
朝、席に着いた由宇に「昨日の数学、どのページまでやった」と聞いた。由宇は「43ページ」とだけ答えた。それだけだったが、武道は返事が返ってきた事実に、自分でも気づかないうちに少しだけ緊張が解けていた。
放課後は屋上で、また二人で並んだ。沈黙が多かった。由宇は自分の過去を一切語らなかった。武道も最初は話さなかった。ただ、由宇が金色の瞳で空を見ている横顔の、その伏し目がちな奥に——負け続けた人間が持つ疲労の色があることを、武道は感じ取っていた。
水曜日の帰り道、コマツバラ中央通りを並んで歩いていた時、武道は左手首の袖を少しだけ押し上げた。
「[serious]これ、1年半前の戦いで負った傷だ」
由宇は武道の手首を見た。古い火傷の跡。視線がそこに留まった。
「[serious]もう終わった戦いのはずなのに、体が覚えてる。音を聞くたびに、顔が浮かぶたびに……まだそこにいる気がする」
由宇は何も言わなかった。否定しなかった。同情の言葉も返さなかった。ただ、黙って聞いていた。その静けさが、武道に続きを言うことを許した。言葉が出てきた。ぽつぽつと、整理もされないまま。
誰かの前でこういう顔をするのが、初めてだった。
ヒナタはその変化を、確実に感じ取っていた。
火曜日の昼休みに廊下ですれ違った時の武道の横顔が違った。水曜日の朝、由宇と短く話す武道の口元が違った。作り笑いではない。力が抜けた、自然な表情。ハルノキで何度引き出せなかったか。屋上で泣いて叫んで、それでも引き出せなかった武道の素顔が——転入してきた見知らぬ少女の前だけにあった。
嫉妬という言葉では足りなかった。もっと深いところから来る、静かで鋭い何かが、ヒナタの胸に音もなく刺さって、抜けなくなっていた。
─────
水曜日の放課後、教室にヒナタと由宇だけが残った。
クラスメートが次々と帰っていく中で、ヒナタは黒板消しを片付けていた。由宇は机の上の鞄に手をかけていた。二人きりになった瞬間、ヒナタが由宇の方へ歩いた。
ヒナタは笑っていた。透き通るような水色の瞳が、ちゃんと由宇を見ていた。声も穏やかだった。
「[gentle]武道くんと仲良くなったんだね、由宇ちゃん」
その目が笑っていないことを、由宇は一瞬で見抜いた。
「[cold]……彼のこと、好きなんですね」
ヒナタの笑顔が、一瞬凍りついた。
それからゆっくりと、別の表情に変わっていった。笑顔ではなかった。もっと生の、剥き出しの何かだった。
「[serious]好きとかそういう次元じゃない」
ヒナタの声が低くなった。震えていた。怒りと悲しみと恐怖が混ざり合って、どこから来るのか分からなくなっている声だった。
「[serious]あたしはずっとあの人の隣にいた。ずっと。あなたには分からないよ、あの人がどれだけ——」
言葉が途中で止まった。続きを言ったら崩れる、と分かっているのかもしれなかった。ヒナタは唇を噛んだ。
由宇は黙っていた。
荷物を持ち上げて、教室のドアへ向かった。ヒナタの横を通り過ぎようとした瞬間、ヒナタの声が飛んできた。
「[sad]近づかないで。あの人をこれ以上壊さないで」
由宇の足が止まった。
ほんの一瞬だけ。それから歩き続けた。ドアを開けて、廊下に出た。
その横顔に、かすかな痛みが走った。
ヒナタの言葉は由宇の内側に、正確に刺さっていた。壊すな——その言葉が、由宇自身の過去と重なった。由宇もまた、壊れかけたことがある。壊れかけたまま、今もここにいる。それを知っているから、あの言葉が痛かった。痛いという感覚が自分にまだあることを、廊下を歩きながら由宇は確かめていた。
教室の中でヒナタが一人になった。
しばらく、誰も来なかった。
─────
深夜、武道の自宅。
母親はもう眠っていた。2DKのアパートは静かだった。武道は6畳の自室で、制服のシャツのまま床に座っていた。天井の右上のシミが、電気の光の中に見えていた。
遠くで、JRカミナリ線の終電が走り抜けた。
音が聞こえた瞬間、視界が暗転した。誰かが倒れている。血の色。骨の軋み。どの時間軸の光景か、本当にあった出来事か、消えた未来の残像か——判別がつかないまま、複数の画像が重なって、消えた。武道は壁に背中をつけたまま、呼吸を整えた。慣れた作業だった。何十回もやってきた。でも慣れるたびに、何かが少しずつ擦り減っていく気がした。
引き出しを開けた。奥から黒い表紙のノートを取り出した。
ページをめくった。仲間の名前、日付、場所。タイムリープを繰り返す中で記憶をなくさないために書き残してきたもの。能力は消えた。残ったのはこのノートだけだ。
ミナカミ・ソウタのページで、手が止まった。
名前の横に、ごめんという文字があった。
武道はそれを見つめた。前にも見た文字だ。でも今夜、ノートのライトを近くに持っていって、改めて見た。
筆圧が違う。
武道の字は、ペンを押しつけるように書く。インクが紙に食い込む。でも、ごめんの三文字は、紙の表面を撫でるように書かれていた。力のない、震えているような筆跡。字の傾きも違う。武道のクセがない。
これは、自分の字ではない。
誰が、いつ、このノートに書いたのか。
タイムリープを何十回も繰り返した。その中で、自分の意識がない時間があったのか。別の時間軸から誰かがここに書き込んだのか。そんなことが起きえるのか。記憶が信用できないのは知っていた。でも今夜、初めてそれが具体的な形を持って胸に落ちてきた。自分の知らない自分が、このノートに謝っている。誰に。何のために。
ミナカミ・ソウタという名前が、どの時間軸の、どの場所に存在した人間なのかも、今の武道には判然としなかった。
武道は左手首の火傷の跡を、指でゆっくりなぞった。
由宇の声が、耳の奥に残っていた。
あなた、まだどこかで戦ってるでしょ——その言葉の意味が、今夜初めて別の形に見えた。武道は戦っているのではなく、記憶という戦場に閉じ込められたまま出られないのかもしれない。戦いは1年半前に終わった。でも武道の中では、まだ終わっていない。終わり方が分からない。
ノートを閉じようとして、閉じられなかった。
ごめんという三文字が、夜の中でぼんやりと滲んで見えた。
それが自分のものではないなら、このノート全体が、どこまで信用できるのか。
武道はノートを持ったまま、電気の光の下でしばらく動かなかった。