夕焼けは傷跡の色
戦いは終わった。花垣武道と仲間たちが命を懸けて守り抜いた東京は、今や痛々しいほど静まり返っている――その静けさこそが、また別の傷となっていた。
高校2年生になった武道は、これまで生き延びてきたすべての余波を背負っている。マイキーとドラケンは、かつてのような普通の生活に戻りつつある。日向も再び彼のそばにいる。それでも武道は心の奥が空洞になったような感覚に襲われていた――自分の大切な何かを燃やし尽くしてしまい、どう取り戻せばいいのかわからない。もう、うまく笑えなくなっていた。
そんな時、クラスメイトのアオキ由宇が彼の人生に現れる。由宇の瞳には、何度も敗北を味わってきた者の影が宿っていて、武道の無理な笑顔を見抜く。「まだ何かと戦っているんだろ?」と彼女は言い、武道はその場で崩れ落ちそうになる。
日向はすぐに気づく。由宇の前でだけ武道の表情がほころび、彼女の前では見せない顔を見せていることに。嫉妬か、恐れか、無力感か――自分でもその感情の正体がわからず、日向は距離を置き始める。そこへエンノジョウ陸が現れる。由宇の兄であり、かつてマイキーのクルーだった男だ。陸は冷たく武道に警告する、「由宇
夕焼けは傷跡の色 - やっと帰ってきた——夕焼けの屋上と、ヒバリ公園のベンチ
朝の光が、6畳の自室に薄く差し込んでいた。
武道は布団の上に座ったまま、引き出しを見ていた。ノートはそこにある。だが、今朝はまだ開いていない。
昨夜、キタハラ心療内科から帰ってきた時、武道は布団に倒れ込んでそのまま眠った。夢は見なかった。久しぶりに、夢を見なかった。
引き出しに手をかけた。
ミナカミ・ソウタの名前が怖いわけじゃない。見ることができる——そう分かっているから、今朝はまだ開かなくていい。武道はそのまま引き出しを閉じた。閉じることができた。それだけで、昨夜とは何かが違った。
スマートフォンを手に取った。
由宇への連絡先を開いた。短いメッセージを打った。
『今日の夕方、屋上に来てほしい』
送信した後、画面を見つめた。ヒナタより先に由宇に向き合う——それが武道の出した順序だった。由宇を容器として使ってきた自分を、自分の口で認めることなしに、ヒナタの前に立つのは誠実ではないと分かっていた。昨夜、心療内科に向かいながら、ずっとそのことを考えていた。
返信は数分後に来た。
『わかった』
それだけだった。
武道は左手首を見た。シャツの袖をまくって、火傷痕を確認した。ざらついた、古い傷。隠す気は起きなかった。袖をそのままにして、立ち上がった。
──────
夕方、神鳴高校の4階への階段を上がりながら、武道は自分の足音を聞いていた。
踊り場を曲がる。壊れた錠前が、いつもと同じようにぶら下がっている。肩で押すと、重い鉄扉が開いた。
5月の夕暮れが、屋上に広がっていた。空の端がオレンジに染まり始めていた。北側のフェンスから見えるJRカミナリ線の高架が、斜めの光を受けて鈍く光っている。コマツバラ町の住宅街の屋根が、遠くまで続いていた。
武道は北側フェンスの前に立った。
背後で、鉄扉が開く音がした。
由宇だった。艶やかなシルバーの髪が夕風に揺れた。金色の瞳が武道を見た。左耳のシルバーリングが光を弾いている。武道の隣まで来て、フェンスの前に並んだ。何も言わなかった。武道も何も言わなかった。
18時の電車が来た。
JRカミナリ線の轟音が高架から屋上へと伝わってきた。空気が震えた。武道の背中が、一瞬だけ硬くなった。
でも、逃げなかった。
フラッシュバックの端が来た——仲間の倒れる映像が、一瞬だけ視界の縁に現れた。それを、武道は目を開けたまま受け取った。逃げなかった。揺れを全部受けて、立ったまま待った。電車の音が遠ざかっていった。
由宇がその静止を見ていた。
武道は前を向いたまま、口を開いた。
「[serious]タイムリープって言う。俺が持ってた能力だ」
由宇は動かなかった。
「[serious]過去に飛べた。自分の身体に意識だけ戻って、歴史を変えられた。それを、何十回も繰り返した」
声が掠れた。でも続けた。
「[sad]一回変えるたびに、別の誰かが死んだ。また変えたら、また別の誰かが死んだ。そいつらの顔を、全部覚えてる。名前も。全部覚えてる」
由宇はページをめくらなかった。前を向いたまま、ただ聞いていた。
「[sad]能力が消えた。最終抗争が終わったら、なくなった。記憶だけが残った。何十回分の記憶が、全部頭に入ったまま」
声が震えた。それでも続けた。
「[crying]由宇の前でだけ、仮面を外せてた。お前が俺の痛みを見抜いてくれたからじゃない。俺が——お前を、自分の苦しさを預けられる場所として使ってたんだ」
言葉にした瞬間、喉の奥が痛くなった。これほど痛いとは思っていなかった。
「[crying]ごめん。ずっと、そうしてた」
涙が出た。止まらなかった。武道は袖で顔を拭おうとして、やめた。火傷痕のある左手首が夕陽に晒されていた。隠さなかった。
由宇の頬を、涙が伝っていた。
長い沈黙があった。住宅街の屋根の上に、薄い雲が伸びていた。遠くで誰かが呼び合う声がした。
やがて、由宇が武道の方を向いた。
今夜の由宇の表情は、今まで一度も見たことのない顔だった。屋上で鋭く問いかけた時の顔でも、古書店で静かに手を重ねた時の顔でも、涙を一粒落として去っていった時の顔でもない。何か重いものを、やっと下ろした人間の顔だった。
由宇は穏やかに笑った。
金色の瞳が細くなった。その笑顔が本物だということが、武道には分かった。
由宇の手が、武道の右手を一度だけ握った。
指先が冷たかった。力は強くなかった。でも確かに、握った。
そして、静かに離した。
「[gentle]行きなよ。待ってる人がいるでしょ」
突き放しではなかった。由宇が自分の意志で、手を離したのだと分かった。誰かに言われたからじゃない。自分で選んで、手を離した。
武道は頷いた。声は出なかった。
鉄扉に向かって走った。
──────
神鳴高校の正門を飛び出した瞬間、夕陽が真正面から顔に当たった。
武道は走った。
コマツバラ中央通り商店街の石畳が、靴底の下を流れていった。ヤマキタ弁当の前を通り過ぎた。ノボリが風に揺れていた。肉の匂いが鼻をかすめた。走りながら涙が出てきた。屋上とは別の種類の涙だった。何かがほどけていく感覚があった。縛られていたものが、少しずつ、ゆるんでいく。
喫茶ハルノキの前を通り過ぎた。
窓際の4つの席が見えた。マスターの善三さんが奥で何かを磨いていた。武道とヒナタがよく来た場所。足が止まりそうになって、止まらなかった。止まる理由がなかった。もう止まらなくていい。
ヒバリ公園への道に入った。
木々の間から公園が見えた。街灯がまだ点いていない。夕陽の橙色が地面に落ちていた。ブランコが2基、風もないのにゆっくり揺れていた。
ベンチが見えた。
あのベンチだ。二人で並んで座った、あのベンチ。
ヒナタが座っていた。
夕陽を背にして、膝に手を置いて、一人でいた。黒く艶やかなロングヘアが背中に広がっていた。水色の瞳が、武道の走り込む足音を聞いて、顔を上げた。
ヒナタの体が固まった。
その目に怒りがあった。悲しみもあった。でもその奥に、一番大きくあったのは——怯えだった。また作り笑いを向けられる、という怯えだった。また「大丈夫だよ」と言われる、という怯えだった。
武道は速度を落とさなかった。
ヒナタの前で止まった。
何も言わなかった。言葉より先に、両腕を広げた。ヒナタの体を抱きしめた。
ヒナタの体が、一瞬だけ石のように硬直した。
でも、武道の腕は外れなかった。武道の体温が、ヒナタの体に伝わっていった。武道の心臓の音が、ヒナタの耳に届いていた。
「[crying]ごめん。やっと帰ってきた」
たった一言だった。
ヒナタの体が震え始めた。
喉の奥から、堰を切ったような声が出てきた。嗚咽だった。一年半、ずっと武道の作り笑いを受け取り続けて、それでも隣にいようとして、屋上で叫んで、ガラス越しに見て、一人でベンチに座っていた。その全部が、一度に溢れてきた。
ヒナタの両腕が武道の背中に回った。強く、引き寄せた。武道の背中を、ヒナタの指が掴んだ。離さないという力だった。
武道の左手首の火傷痕が、ヒナタの背中に触れていた。
隠さなかった。
ヒバリ公園に夕陽が落ちていった。ブランコがゆっくり揺れていた。
──────
屋上に、由宇が一人残っていた。
武道が去った後、由宇はフェンスに手をついて、北側の景色を見ていた。JRカミナリ線の高架と、住宅街の屋根。武道が毎日一人で眺めていた景色。今夜初めて、由宇はその景色を自分の目で見た。
夕焼けが校舎を赤く染めていた。
背後で、鉄扉が開いた。
由宇は振り返らなかった。足音を聞けば分かった。重い、大きな足音。ゆっくりと近づいてきて、由宇から少し離れたところで止まった。
陸だった。
短く刈り上げた黒髪に、赤いメッシュが一筋。冷徹な赤色の瞳が、由宇の横顔を見ていた。182センチの体躯が、夕暮れの屋上に立っていた。左眉の傷跡が、橙色の光を受けていた。
由宇が屋上に一人でいることを、陸はどこかで知っていた。そういう男だった。
陸は由宇の顔を見た。
言葉が、出なかった。
正門前で見た由宇の顔——自己否定に塗り固められた、怯えた少女の顔——が、今夜は違った。何かが決定的に変わっていた。壊れかけていた少女が、自分の足で地面に立っている。泣いた跡があるのに、顔が澄んでいた。
陸の膝が、折れた。
コンクリートに座り込んだ。鉄扉に背中をもたせかけた。182センチの体が、子供のように縮んだ。
陸の口から、初めてその名前が出た。
「[sad]タカオ……」
声が掠れていた。
「[sad]俺は——ずっと、お前のことを由宇に言えなかった」
途切れた。続きが来るまで、時間がかかった。
ヒグラシ隊——東京卍會最終抗争の時期、陸が所属していた不良チーム。東京都東部を拠点に戦い続けた、約30名の集まり。タカオはその中にいた。陸の隣にいた。最後まで戦って、死んだ。
「[crying]あいつを守れなかった。だから由宇を——」
声が震えて、止まった。
由宇を守ることで、タカオを失った罪悪感を埋めようとしていた。過保護なまでに妹を縛り続けた本当の理由が、今夜初めて言葉になった。陸の肩が、崩れ落ちるように震えた。
由宇はゆっくりと兄の前にしゃがみ込んだ。
陸の頭を、両手で抱えた。
「[gentle]知ってたよ」
囁くように言った。
陸の体が、一瞬だけ固まった。
「[gentle]ずっと前から、分かってたから」
陸が自分で言えるようになる日を、由宇はただ待っていた。一度も責めなかった。一度も聞かなかった。その日が来るまで、待っていた。
陸の肩が、小刻みに揺れた。声を出さずに、泣いていた。
二人の沈黙の上に、JRカミナリ線の最終電車が走り抜けた。轟音が来て、通り過ぎて、消えていった。
その後の静寂が、屋上に残った。
──────
ヒバリ公園のベンチで、武道とヒナタはまだ動いていなかった。
ヒナタが泣き止む気配がないまま、武道は黙って抱きしめ続けた。何かを言おうとしなかった。言葉より、このままでいることの方が正しいと分かっていた。
ヒナタが武道の背中に顔を埋めたまま、嫉妬も独占欲も怒りも全部持ったまま、それでも離さないと決めている手の力が伝わってきた。武道はそれを受け取っていた。逃げなかった。
武道の左手首の火傷痕が、夕陽に照らされていた。
隠さない。それが今夜の武道の答えだった。
やがて、ヒナタの呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。震えが収まってきた。
ヒナタが武道の腕の中から顔を上げた。
目が赤かった。涙の跡が残っていた。水色の瞳が、武道の顔を見ていた。
武道はヒナタの目を、正面から見た。
作り笑いではなかった。どこにも逃げていない顔だった。疲れた顔だった。でも、今ここにいる顔だった。
ヒナタはその顔を受け取った。
涙の残った目のまま、ヒナタが微笑んだ。
公園に夜が来ていた。街灯が一本、また一本と灯り始めた。ベンチの周りに、柔らかい光の輪ができた。
遠くのJRカミナリ線の高架の向こうに、神鳴高校の校舎のシルエットが見えた。屋上がそこにあった。
武道の自室の引き出しには、ノートが残っている。ミナカミ・ソウタの名前は消えない。忘れないことが唯一の弔いだと、武道は知っていた。消えない記憶と、これから先もずっと生きていく——それが、今夜武道が出した答えだった。
全てが解決したわけじゃない。ノートはまだある。複数の時間軸の記憶は、明日も頭の中にある。カイセイ制度の担当カウンセラーとの次の約束は、明後日だ。
でも今夜、武道はここに帰ってきた。
ヒナタの手が、武道の左手に重なった。火傷痕の上に、ヒナタの温かい手が乗った。引かなかった。そのままでいた。
二人は並んで、夜になったコマツバラ町を見ていた。