夕焼けは傷跡の色
戦いは終わった。花垣武道と仲間たちが命を懸けて守り抜いた東京は、今や痛々しいほど静まり返っている――その静けさこそが、また別の傷となっていた。
高校2年生になった武道は、これまで生き延びてきたすべての余波を背負っている。マイキーとドラケンは、かつてのような普通の生活に戻りつつある。日向も再び彼のそばにいる。それでも武道は心の奥が空洞になったような感覚に襲われていた――自分の大切な何かを燃やし尽くしてしまい、どう取り戻せばいいのかわからない。もう、うまく笑えなくなっていた。
そんな時、クラスメイトのアオキ由宇が彼の人生に現れる。由宇の瞳には、何度も敗北を味わってきた者の影が宿っていて、武道の無理な笑顔を見抜く。「まだ何かと戦っているんだろ?」と彼女は言い、武道はその場で崩れ落ちそうになる。
日向はすぐに気づく。由宇の前でだけ武道の表情がほころび、彼女の前では見せない顔を見せていることに。嫉妬か、恐れか、無力感か――自分でもその感情の正体がわからず、日向は距離を置き始める。そこへエンノジョウ陸が現れる。由宇の兄であり、かつてマイキーのクルーだった男だ。陸は冷たく武道に警告する、「由宇
夕焼けは傷跡の色 - その笑顔、やめて——屋上の爆発と、埋まる空席
昨夜の夢の続きが、まだ頭の端に引っかかっていた。
誰かが倒れていた。血の匂い。叫び声。名前を呼んだ気がする——でも誰の名前だったか、もう思い出せない。目が覚めた時には布団が汗で濡れていて、カーテンの隙間から5月の朝陽が白く差し込んでいた。
花垣武道は金曜日の朝を、そうやって迎えた。
─────
神鳴高校の廊下は、授業の合間の10分休みになると一斉に生徒が溢れる。ロッカーを開ける音、笑い声、どこかのクラスで誰かが大きな声で怒鳴られている——そういう雑踏の中で、ムラセ先生は武道の腕をそっと指先で叩いた。
「[serious]花垣、少しいいか」
廊下の端。窓から校庭の葉桜が見える場所。ムラセ先生は32歳で、背が高くて、物を言う前に必ず一度だけ間を置く癖があった。それが今日も同じだった。武道はその間の長さで、何の話をされるかを察した。
先生は声を低く、しかし穏やかに言った。
「[serious]キタハラ心療内科への来院が、2ヶ月止まってるって連絡が来てる。カイセイ制度の担当から」
カイセイ制度——東京都が、東京卍會最終抗争の終結を受けて施行した社会復帰支援制度のことだ。元関係者を対象とした月1回の無料カウンセリングで、武道は以前、コマツバラ町から南へ徒歩15分のキタハラ心療内科に通っていた。2ヶ月前に、自分から行くのをやめた。
「[serious]……考えます」
武道の目はムラセ先生の顔ではなく、廊下の壁のどこか一点に向いていた。
先生はそれ以上、押してこなかった。
「[gentle]無理しなくていい。ただ、一人で全部抱えるなよ」
それだけ言って、職員室の方へ歩いていった。足音が遠ざかる。武道はしばらく、廊下の壁を見ていた。考えます——その四文字が、口から出た瞬間から、もう空洞になっている気がした。考えることなんて、最初から決まっていない。行かないし、行けない。タイムリープを何十回も繰り返した記憶の話を、PTSDの専門家でもできるカウンセラーは、どこにも存在しないのだから。
武道が廊下を歩き出した。
廊下の曲がり角の、少し手前で。
──────
石川ヒナタは、背中を壁に押し付けていた。
曲がり角の陰。武道には見えない場所。水色の瞳が、廊下の先を──今まさに歩き去ろうとしている武道の背中を──じっと追っていた。
全部聞こえた。
キタハラ心療内科。カイセイ制度。2ヶ月。
武道が、カウンセリングに行っていないこと。そしてムラセ先生に促されても、考えますの一言で流したこと。
ヒナタの胸に刺さったのは、武道が傷ついているという事実ではなかった。それはもう、ずっと前から分かっていた。ハルノキで見た虚ろな目も、ヒバリ公園のベンチで笑ってないのに笑っていた横顔も、全部分かっていた。待っていた。武道が自分から話してくれるのを。手を伸ばしてくれるのを。
先生にすら、流した。
あたしには、もっとずっと前から、何も話してくれていない。
ヒナタは制服のスカートの布を、右手でぎゅっと握りしめた。廊下に人が戻り始める。武道の背中が、人混みの向こうに消えた。それでもヒナタは動かなかった。壁に背を押し当てたまま、自分の呼吸の音を聞いていた。
怒り、ではないと思っていた。悲しみ、とも少し違う。それよりももっと、深いところにある何か——「自分では届かない」という確信が、じわじわと胸の底に沈んでいく感覚だった。
昼休みも、5時間目も、ヒナタはずっとその感覚を抱えていた。
─────
放課後。教室の喧騒が引いた頃、ヒナタはスマートフォンを取り出した。
武道へのメッセージ画面を開く。指が止まる。何を書こうか。どう書けば来てくれるか。いや、そういう計算をしている自分が、もう嫌だった。
ただ書いた。
「屋上に来て」
送信。
数秒後、既読がついた。返信はなかった。でもヒナタは、武道が来ることを知っていた。断れないやつだと、4ヶ月一緒にいれば分かる。
先に屋上へ向かった。
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神鳴高校の屋上は、4階の鉄製階段を上がった先にある。錠前は壊れたままで、扉を肩で押せば開く。その事実を武道しか知らないと思っていたが——扉が開いた時、フェンスの前に黒いロングヘアが見えた。
武道は、一瞬だけ足を止めた。
ここに、ヒナタがいる。
毎日一人で来ていた場所。誰にも知られていなかった場所。ノートを持ってきて、フェンスにもたれて、JRカミナリ線の高架を眺めていた場所。ヒナタが立っているだけで、その空気が微妙に変わった気がした。侵入、という言葉が浮かんで、すぐに打ち消した。そういう言い方は違う。ただ——ここは、武道が唯一、顔の作り方を忘れられる場所だった。
鉄扉が閉まる。武道は近づいた。
ヒナタは北側のフェンスを向いたままだった。JRカミナリ線の高架。住宅街の屋根。夕方前の空は、まだオレンジになりきれていない。
それから、ゆっくりとこちらを向いた。
水色の瞳が、武道をまっすぐに見ていた。普段のヒナタの目じゃない。もっと、芯のある目だった。全身が微かに震えているのに、声は落ち着いていた。
「[serious]話して。何でもいいから、あたしに」
武道は一拍、置いた。
胸の中で何かが動いた。それを処理する前に、もう口が動いていた。いつもの通り。毎日の練習の通り。
「[serious]大丈夫だよ」
笑った。
ハルノキで笑ったのと、同じ笑い方で。どこも見ていない目で。口の端だけを上げた、形だけの笑みで。
ヒナタの体が、止まった。
その笑顔を、ヒナタはじっと見ていた。武道が何を言ったかじゃない。その顔を。ハルノキで一度見た顔。ヒバリ公園で見た顔。何ヶ月も見てきた、武道のその顔を。
ヒナタの中で、何かが崩れた。
「[crying]その笑顔、やめて!」
その声が、屋上に広がった。
両手の拳が、武道の胸を叩いた。強く、ではない。でも全部を込めた、震えた拳だった。叩きながら声が続いた。
「[crying]あなたが笑ってないのに笑う顔が、あたしには一番つらいんだよ! どうして! なんで話してくれないの! あたしじゃだめなの!?」
涙が顎を伝って落ちていた。拭わなかった。拭う余裕がなかった。ただ叩き続けた。武道の胸を。声を絞り出しながら。
武道は、動かなかった。
後退もしなかった。腕で防ぎもしなかった。ただ立っていた。ヒナタの拳が当たるたびに体が揺れるのを、そのまま受けていた。
ヒナタを抱きしめようとした。
腕が、上がらなかった。
どうすればいいのか、分からなかった。抱きしめていいのか。なだめていいのか。泣き止ませていいのか。ヒナタの涙は、ヒナタのものだ。武道が奪っていいものじゃない——そんなことを考えながら、何もできないまま立っていた。ヒナタが笑ってないのに笑う顔が一番つらいと言った。その言葉が、体のどこかに突き刺さって、抜けない。
俺は——ヒナタを、傷つけてたのか。
静かに。毎日。気づかないふりをしながら。
ヒナタの拳が、止まった。
力が抜けたように、腕が下がった。ヒナタの肩が揺れていた。声を殺して泣いている。武道は開きかけた口を閉じた。何も出てこなかった。謝りたかった。でも謝るだけじゃ、何も変わらない気もした。説明したかった。でも説明できる言葉を、武道は持っていなかった。
「[whispers]……ごめん」
かすれた声で、それだけ言った。
それから、ヒナタの横を通り過ぎた。鉄扉に手をかけた。引いた。
振り返らなかった。
扉が閉まった。
金属の重い音が、屋上に残った。
─────
ヒナタは一人になった。
しばらく、その場に立っていた。それから北側のフェンスに歩み寄った。両手でフェンスの冷たい金属を掴んだ。額をフェンスの柵に押し当てた。
声は出さなかった。出せなかった。
泣いていた。
眼下に、コマツバラ町の夕方が広がっている。住宅街の屋根。電線。向こうにJRカミナリ線の高架。武道が毎日ここから見ていた景色。同じ景色を、今ヒナタが見ていた。
どんな気持ちで見ていたんだろう。
毎日、一人で。
それを、あたしに話してくれなかった。
18時の電車が来た。高架の上を轟音が走り抜ける——武道が何度もフラッシュバックを起こしてきた、あの音が。ヒナタにとっては今日が初めてだった。その音がどれだけ武道の体を固めてきたか、知らないまま。
ヒナタは泣きながら、フェンスを握りしめたまま、その音が遠ざかるのを聞いていた。
届かなかった。
ここまで来たのに、届かなかった。
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武道は校舎を出ても、まっすぐ帰る気になれなかった。
足が、ヒバリ公園の方へ向いていた。コマツバラ町の夕暮れの中を、人とすれ違いながら歩いた。誰もが武道の顔なんて見ていない。商店街の方から揚げ物の匂いが流れてきた。いつも通りの、何でもない夕方だった。
ヒバリ公園に入った。
ブランコが2基、風に揺れていた。夕方のこの時間は人が少ない。街灯はまだついていない。ベンチが3脚、等間隔に並んでいる。武道はベンチには座らなかった。ただ立ったまま、ブランコを見ていた。チェーンがきしむ音がした。
左手首の内側を、右手の親指でなぞった。
古い火傷の跡。
大丈夫だよ——と笑った瞬間を、また思い出した。あれは嘘をつきたくて出た笑顔じゃない。本当に、それ以外の顔の作り方を知らないから出た笑顔だった。何度もタイムリープして、仲間が死ぬのを見るたびに、崩れないために作り続けた表情。それが今は、唯一の顔になっている。
ヒナタを傷つけていることは、分かった。
自分がヒナタの隣で壊れかけていることも、今日初めて、正面から分かった。
でも、どうすれば。
本当に、どうすればいいのか、分からない。タイムリープがあった頃なら、やり直せた。失敗した時間軸を捨てて、また最初から。でも今はその能力もない。この時間軸しか、もうない。ヒナタを泣かせてしまったこの金曜日は、取り消せない。
分からねぇ。
武道はブランコをしばらく見つめてから、公園を出た。自宅の方へ歩いた。コマツバラ町の夕暮れが、静かに沈んでいった。
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夕方の終礼。
2年3組の教室。生徒たちが帰りの支度をしながら、半分ざわついている時間に、ムラセ先生が一言付け加えた。
「[serious]来週の月曜日、転入生が来ます。2年3組に」
クラスがざわつく。
「誰?」「男女どっち?」「どこから来たの?」
武道は窓の外を見ていた。
「[serious]席は窓側最後列——花垣の隣です」
隣。
ずっと空いていた席。透明な空気みたいにそこにあった席。武道はそこを振り返らなかった。先生の声が続いているが、耳には入らなかった。
ヒナタの声が、まだ頭の奥に残っていた。
あなたが笑ってないのに笑う顔が、あたしには一番つらいんだよ。
月曜日、隣に誰かが来る。それが何を意味するのか、武道にはまだ分からない。ただ、ヒナタとの間に割れたままのひびが修復されないまま週明けを迎えることだけが、今の武道にははっきりと分かっていた。
終礼が終わった。生徒たちが机を引いて立ち上がる音がした。武道は最後に立ち上がって、鞄を持った。廊下へ出る。空席になった隣の机が、視界の端に映った。
月曜日まで、あと二日。