夕焼けは傷跡の色
戦いは終わった。花垣武道と仲間たちが命を懸けて守り抜いた東京は、今や痛々しいほど静まり返っている――その静けさこそが、また別の傷となっていた。
高校2年生になった武道は、これまで生き延びてきたすべての余波を背負っている。マイキーとドラケンは、かつてのような普通の生活に戻りつつある。日向も再び彼のそばにいる。それでも武道は心の奥が空洞になったような感覚に襲われていた――自分の大切な何かを燃やし尽くしてしまい、どう取り戻せばいいのかわからない。もう、うまく笑えなくなっていた。
そんな時、クラスメイトのアオキ由宇が彼の人生に現れる。由宇の瞳には、何度も敗北を味わってきた者の影が宿っていて、武道の無理な笑顔を見抜く。「まだ何かと戦っているんだろ?」と彼女は言い、武道はその場で崩れ落ちそうになる。
日向はすぐに気づく。由宇の前でだけ武道の表情がほころび、彼女の前では見せない顔を見せていることに。嫉妬か、恐れか、無力感か――自分でもその感情の正体がわからず、日向は距離を置き始める。そこへエンノジョウ陸が現れる。由宇の兄であり、かつてマイキーのクルーだった男だ。陸は冷たく武道に警告する、「由宇
夕焼けは傷跡の色 - どん底——私じゃだめなの、という叫びと、やっぱり近づかなきゃよかった、という呟き
日曜日の午後、コマツバラ中央通り商店街の一本奥の路地に、古書店トウワ堂はある。
店主の老人はよく、奥の作業台に引っ込んだまま何時間も戻ってこない。今日もそうだった。開いたまま放置された扉から、古紙と埃と薄い黴の匂いが漂っている。棚と棚の間に陽が差し込んで、宙に浮いた埃が光の中でゆっくり回っていた。
その奥の、折りたたみ椅子が二脚置かれた隅に、花垣武道とアオキ由宇は並んで座っていた。
会話は途切れている。最後に何か言葉を交わしたのが何分前だったか、武道には分からなかった。由宇は文庫本を膝に置いたまま、ページをめくっていない。武道は別の文庫本を手に持っているが、活字が目に入っていなかった。
沈黙が、重くなかった。それが武道には不思議だった。屋上での沈黙はいつも重い。教室での沈黙はもっと重い。でも今ここにある静かさは、何かを隠すための沈黙じゃない。ただ、二人が同じ空気を吸っている。それだけの時間だった。
武道の指が、膝の上の文庫本の表紙をなぞった。何の本かも見ていなかった。
口が動いた。自分でも気づかないうちに。
「[whispers]何回も、同じ奴が死ぬのを見た」
由宇は動かなかった。
「[whispers]俺が変えたはずの未来で、別の奴が死んだ。また変えたら、また別の奴が死んだ」
言葉が、整理されていなかった。説明しようとして出てきた言葉じゃない。どこかに溜まっていたものが、この静かさの中で隙間を見つけて、こぼれ落ちてきた感じだった。タイムリープという名前は、使わなかった。使い方を知らなかった。ただ、繰り返した記憶の中の断片だけが出てきた。
「[whispers]それが夢なのか本当にあったことなのか、もう分からない。でも顔は覚えてる。名前も覚えてる。全部覚えてる」
由宇は本を膝に置いた。武道の顔を見なかった。前を向いたまま、ただ聞いていた。
否定しなかった。「夢だよ」とも言わなかった。「大変だったね」という慰めも出てこなかった。
その静けさが、続きを引き出した。
「[whispers]守ろうとして、守れなかった。俺が動くたびに、誰かが傷ついた。それでもまた動いた。何十回も」
沈黙。
棚の向こうで、老人が何かを動かす音がした。それからまた静かになった。
由宇の手が、武道の右手の上に、そっと重なった。
指先が冷たかった。力は入っていなかった。ただ、そこに手を置いた。それだけだった。
武道の全身が、一瞬固まった。
ヒナタが先週、手を重ねようとした。あの時、武道の手は気づく前に引いていた。反射だった。触れられることへの拒絶が、意識よりも先に体に出ていた。
今、由宇の手が右手の上にある。
武道は手を引かなかった。
数秒、そのままだった。それから武道の指が、ゆっくりと由宇の手を握り返した。強くではなかった。ただ、確かめるように。これが現実だと確かめるように。
なぜ今この手を握れるのか、武道自身には言葉がなかった。由宇が否定しなかったから。同情しなかったから。ただ聞いていたから。それだけかもしれなかった。それだけが、今の武道には全部だった。
───
コマツバラ中央通りを、石川ヒナタは歩いていた。
目的はなかった。日曜の午後、家にいても気持ちが落ち着かなくて、外に出た。商店街の軒先に、いくつかの店のノボリが揺れている。ヤマキタ弁当の前を通り過ぎ、古書店の路地の手前で足が止まりそうになって、通り過ぎた。
喫茶ハルノキの前に来た。
窓際の席が四つ。マスターの善三さんが奥でゆっくり動いているのが見える。ヒナタと武道がよく来た場所だ。最近は武道が足を向けなくなって、ヒナタも一人では来られなくなっていた。
窓ガラスに、向かいの路地が映っていた。
ヒナタは視線を流して、止めた。
古書店トウワ堂の入り口が、ガラスに反射して見えた。武道の赤い短髪が見えた。その隣に、シルバーの髪が見えた。
武道の横顔が見えた。
ヒナタは、その表情を一目で理解した。
作り笑いじゃない。力が抜けた、どこにも逃げていない顔だった。ハルノキで何度見ようとしたか。屋上で泣いて叫んで、それでも引き出せなかった顔だった。何年も隣にいて、一度も見たことがない武道の素顔が、ガラスの向こうに映っていた。
そして、二人の手が、繋がっていた。
ヒナタの足が、動かなくなった。
ガラスに自分の顔が映っていた。でも見えなかった。何も見えなかった。
───
月曜の朝、2年3組の教室。
石川ヒナタが登校してきた時、武道はすでに窓側の席に座っていた。
視線が合いそうになった瞬間、ヒナタは顔を伏せた。黒いロングヘアが顔の前に垂れた。目が赤く腫れていた。一晩中泣いたことが、一目で分かった。
武道の胸に何かが重なってきた。昨日の古書店。あの手。ヒナタが窓越しに見ていたかもしれないということを、武道は昨夜から考えていた。考えても、どうする答えも出なかった。
ヒナタに声をかけようとした。声が出なかった。
由宇は自席で教科書を開いたまま動かなかった。武道を見なかった。ヒナタを見なかった。金色の瞳が活字の一点を向いていた。
三人がそれぞれ別の方向を向いていた。教室の喧騒の中に、三つの沈黙が三角形を作っていた。
武道は窓の外を見た。5月の空が青かった。葉桜の緑が風に揺れていた。
胸の奥で何かが積み上がっていた。言葉にならないまま、ただ重くなっていく何かが。
───
昼休みが始まって少しして、武道のスマートフォンが鳴った。
メッセージが一件。
送信者:ヒナタ。
「屋上来て」
それだけだった。
武道は鞄を持たずに席を立った。
4階への階段を上がる。足音が一歩ずつ、高く近くなっていく。ドアの前に着いた。壊れた錠前。肩で押すと、重い金属の扉が開いた。
ヒナタがいた。
北側のフェンスを背にして、武道の方を向いて立っていた。目が赤かった。昨夜も今朝も泣いていた跡が、そのまま残っていた。ヒナタは武道が来るまで強がっていたんだと思った。でも武道が鉄扉を閉めた瞬間、その顔が崩れた。
「[crying]私じゃだめなの!?」
声が、屋上に響いた。鉄扉を通り抜けて、階段の踊り場まで届いたかもしれない。
武道の体が止まった。
ヒナタの声が続いた。号泣しながら、途切れ途切れに。
「[crying]ずっとあなたの隣にいた。何回も死にかけても、ここにいた。なのに——あの子には見せるの。私には見せない顔を、あの子には見せるの」
水色の瞳から涙が溢れ続けていた。声が震えていた。全部知っているという声だった。昨日ガラスに映ったものを全部見たという声だった。
武道の口が動こうとした。
「好きだよ」という言葉が、喉まで来た。
詰まった。
出てこなかった。
由宇の前でだけ、仮面を外せている自分を、武道が一番知っていた。この一年半、ヒナタの隣で作り笑いを続けて、笑えなくなって、何も話せなくなって。それが今も変わっていない。由宇に向ける顔を、ヒナタに向けられていない。その事実を抱えたまま「好きだよ」と言うことが、ヒナタへの誠実さと自分への嘘を同時に意味することが分かって、声が止まった。
ヒナタはその沈黙を見ていた。
5秒か、10秒か。ヒナタの顔に、答えを読み取った瞬間が来た。
「[sad]私のこと、もう好きじゃないなら言って」
絞り出すような声だった。
その後で、ヒナタの両手が武道の胸を突き飛ばした。
強い力だった。武道の体が後退して、フェンスに背中をぶつけた。金属の感触が背中に走った。
ヒナタは手で顔を覆って、鉄扉に走った。扉を引き開ける音がした。階段へ降りていく足音が、遠ざかっていった。
鉄扉が閉まった。
その音が屋上に長く反響して、消えた。
───
武道はフェンスに手をついた。
右手の指が、鉄の柵を掴んだ。膝から力が抜けていく。コンクリートに両膝がついた。そのまま、しゃがんだ体勢で、動けなかった。
空が青かった。眩しかった。
遠くで、JRカミナリ線の上り電車が高架を渡っていく轟音が鳴り始めた。
昼間なのに来た。
その低い振動が身体の中に入ってきた瞬間、視界が暗くなった。
血まみれで倒れている顔。知っている顔。名前を呼んだ。どの時間軸の記憶か判別がつかないまま、次の顔が重なった。骨の折れる音が耳の奥で鳴り響いた。自分が何かに向かって叫んでいる声が頭の中で響いた——そしてその声の奥に、ヒナタの泣き顔が混じってきた。
複数の時間軸の死と、今この瞬間のヒナタの絶叫が、同じ場所に混濁した。どれが今でどれが過去か区別がつかなくなった。
武道は頭を両手で抱えた。うずくまった。コンクリートの冷たさだけが、今が今であることを教えていた。
タイムリープがあった頃なら、やり直せた——その思考が来た。来た瞬間に、能力はもうないという現実が叩き潰した。条件反射だった。もうできないと知っていても、体が先に求める。この選択を消せない。ヒナタを泣かせたこの時間は、取り戻せない。
電車の音が遠ざかっていった。フラッシュバックの映像が、薄れていった。
コンクリートの冷たさだけが残った。
武道はうずくまったまま、動かなかった。
───
放課後になっても、武道は屋上から出られなかった。
陽が傾いて、コマツバラ町の住宅街の屋根が橙色に染まり始めていた。JRカミナリ線の高架が、斜めの光を受けて光っていた。
背後で鉄扉が開く音がした。
由宇だった。
シルバーの髪が夕方の光を受けて揺れていた。武道が昼から動いていないことを、どこかで知っていたような顔をしていた。由宇は武道の隣にしゃがみ込んだ。コンクリートに膝をついて。何も言わなかった。
風が吹いた。由宇の束ねた髪が揺れた。
しばらく、沈黙があった。
やがて由宇が口を開いた。
「[sad]私のせいでしょ」
武道は否定しようとした。声が出なかった。否定できないことが、肯定と同じだった。
由宇の金色の瞳に、光が浮いていた。涙だった。由宇が泣くところを、武道は初めて見た。
「[whispers]私が入ったから。また誰かを壊した」
声が震えていた。小さかった。でも一語一語が確かだった。
武道には、由宇が自分自身の何かと重ね合わせていることが分かった。壊した、という言葉の重さが、過去から来ていることが分かった。でも何が過去にあったのかは、由宇は一度も話していない。
「[whispers]私も利用してるだけだって言って。そうしたら楽になるから。あなたも私も」
声が細かった。
武道は由宇の手を掴んだ。
違う——言いたかった。違うと言えば由宇が少し楽になると思った。実際、違うと思っていた。利用なんかじゃない。あの古書店の沈黙は、武道には本物だった。由宇の手の冷たさは本物だった。
でも言葉が出なかった。
なぜ言葉が出ないのか、武道には分からなかった。由宇に対してだけは素顔でいられると思っていた。なのに、今この瞬間に一番言うべき言葉が、出てこない。
由宇がゆっくりと武道の手を振りほどいた。
力を入れずに、ただ外した。
立ち上がって、荷物を持って、鉄扉に向かった。
扉を開ける直前に、振り返らずに呟いた。
「[whispers]やっぱり、近づかなきゃよかった」
由宇の頬に、一粒だけ、涙が落ちた。
鉄扉が閉まった。
武道は完全に一人になった。
オレンジの空が、赤紫に変わっていった。住宅街の屋根の上に、薄い雲が伸びていた。武道はフェンスにもたれたまま、その色が変わっていくのを見ていた。見ていることしかできなかった。
───
深夜、武道の自宅。
母親の部屋から音がしなくなって、一時間が経った。2DKのアパートの、6畳の自室。電気スタンドだけがついている。武道は床に座って、引き出しの前にいた。
ノートを取り出した。
ページをめくった。仲間の名前。日付。場所。タイムリープを繰り返す中で記憶をなくさないために書き続けてきたもの。文字が埋まるたびに、自分がここにいた証明になると思っていた。
ミナカミ・ソウタのページで、手が止まった。
名前の横の「ごめん」という文字。
武道は電気スタンドを近づけた。
筆圧が違う。武道の字はペンを押しつけるように書く。インクが紙に食い込む。でも「ごめん」の三文字は、紙の表面を撫でるように書かれていた。力がない。震えているような筆跡。字の傾きも、武道の癖がない。
これは、自分の字ではない。
その事実を今夜、武道は正面から見た。以前から気づいていた。でも今夜は逃げなかった。
誰が書いたのか。いつ書かれたのか。タイムリープを何十回も繰り返す中で、自分の意識がない時間があったのか。記憶が信頼できないのは知っていた。でも今夜、それが具体的な形を持ってページの上にある。自分の知らない自分が、このノートに謝っている。誰に。何のために。
でも武道をより深く沈めていったのは、そこじゃなかった。
ヒナタを傷つけた。由宇を傷つけた。
守りたかった人を、守ろうとした結果として、自分の手で壊している。
タイムリープがあった頃は、やり直せた。失敗した時間軸を捨てて、また最初から。でも今は違う。今夜ヒナタの胸を突き飛ばさせたこと、由宇に一粒の涙を落とさせたこと、その事実は何をしても消えない。消し方を知らない。やり直す方法がない。
左手首の火傷痕を、右手の親指でなぞった。
ざらついた皮膚の感触。この傷は本物だ。この傷だけは証拠だ。でも証拠があっても、ヒナタの泣き顔は取り戻せない。由宇の震えた声は消せない。
守りたかったのに、壊している。
それが、武道の精神の一番深いところに到達していた。
ノートを閉じようとして、閉じられなかった。ページに手を置いたまま、武道は動かなかった。電気スタンドの光の中に、「ごめん」の三文字がぼんやりと見えていた。
夜が明けるまで、武道はその前に座り続けた。