夕焼けは傷跡の色
戦いは終わった。花垣武道と仲間たちが命を懸けて守り抜いた東京は、今や痛々しいほど静まり返っている――その静けさこそが、また別の傷となっていた。
高校2年生になった武道は、これまで生き延びてきたすべての余波を背負っている。マイキーとドラケンは、かつてのような普通の生活に戻りつつある。日向も再び彼のそばにいる。それでも武道は心の奥が空洞になったような感覚に襲われていた――自分の大切な何かを燃やし尽くしてしまい、どう取り戻せばいいのかわからない。もう、うまく笑えなくなっていた。
そんな時、クラスメイトのアオキ由宇が彼の人生に現れる。由宇の瞳には、何度も敗北を味わってきた者の影が宿っていて、武道の無理な笑顔を見抜く。「まだ何かと戦っているんだろ?」と彼女は言い、武道はその場で崩れ落ちそうになる。
日向はすぐに気づく。由宇の前でだけ武道の表情がほころび、彼女の前では見せない顔を見せていることに。嫉妬か、恐れか、無力感か――自分でもその感情の正体がわからず、日向は距離を置き始める。そこへエンノジョウ陸が現れる。由宇の兄であり、かつてマイキーのクルーだった男だ。陸は冷たく武道に警告する、「由宇
夕焼けは傷跡の色 - 壊れない微笑み
チャイムが鳴り止んでも、武道の耳にはしばらくその残響が残っていた。
5月中旬の水曜日。放課後の2年3組は、瞬く間に生徒たちが消えていった。机と椅子が引きずられる音、笑い声、廊下を走る足音——それが遠ざかるにつれて、教室が静かになる。武道は教科書とノートを鞄に詰めながら、窓の外に目をやった。校庭の葉桜が、5月の柔らかい風に揺れている。
階段を降りて、正門を出た。
そこに、ヒナタがいた。
門柱に背を預けて立っている。黒く艶やかなロングヘアを緩くまとめ、透き通るような水色の瞳が武道の顔を捉えた瞬間——彼女は笑った。努めて明るく、自然に見えるように計算された笑顔だと、武道には分かった。自分も毎日同じ笑顔を作っているから。
「[excited]あ、来た。タケミチ」
武道は少し足を止めた。
「……なんで正門に」
「[gentle]ハルノキ、久しぶりに行こうよ。ねえ、一緒に行こう」
断ろうとした。言葉を作ろうとした。でもヒナタがすでに武道の腕を掴んで、歩き出していた。その手は温かかった。拒絶するには温かすぎた。武道は逆らわず、引かれるままについていった。
逆らう気力がないのか、ヒナタを傷つけたくないのか——自分でも分からないまま、二人は商店街の方へ歩き始めた。
肩と肩の間が、触れそうで触れない。
─────
コマツバラ中央通り商店街——神鳴高校から南西へ徒歩8分。午後の日差しが石畳に斜めに落ちて、個人経営の店々が並ぶ通りをオレンジ色に染め始めていた。惣菜屋から揚げ物の匂いが漂ってくる。ヤマキタ弁当の店先では、閉店前の売れ残りが半額になっていた。
喫茶ハルノキは、商店街の中ほどにある。扉を押すと、ドアベルが小さく鳴った。
カランカラン。
マスターの善三が顔を上げた。60代の男で、目の端に深い皺がある。白いエプロンをかけた大きな体が、カウンターの奥でゆっくりと動いた。
「[gentle]いらっしゃい。お二人さん、久しぶりだね」
久しぶり——その言葉が、武道の胸の奥に静かに刺さった。ここに最後に来たのは4ヶ月前だ。ヒナタと来ていた場所。コーヒーの匂いと、窓から差し込む夕陽の色と、ヒナタの声——全部、その頃のままだった。変わっていないのはこの店だけで、武道だけが変わってしまった気がした。
善三は二人を窓際席へ案内した。4つある窓際席のうちの一つ。外は商店街の通り。夕方の人通りが、ゆっくりと流れていく。
向かい合って座った。
ヒナタがメニューも見ずにコーヒーを二つ注文した。以前と同じだった。武道はいつもヒナタに任せていた。
「[gentle]担任が変わったんだって? ムラセ先生、どんな人?」
「[serious]普通の先生だよ。国語担当で」
「厳しい?」
「[serious]そんなことはない。観察眼が鋭いとは思うけど」
ヒナタは笑った。話を続けた。体育祭の出し物のこと、隣のクラスで流行っている何か、先週見たドラマの話——話題がスムーズに続いていく。武道は相槌を打った。適切なタイミングで。自然なトーンで。笑えるところで笑った。
上手くできていた。
ただ、ハルノキの窓ガラスが、夕陽の角度で鏡のように反射する瞬間があった。その薄い反射に、武道の顔が映った。笑っている顔。でもその目が——どこも見ていなかった。カメラのピントが合っていない写真みたいに、焦点のない目で笑っていた。
ヒナタには見えているはずだった。
コーヒーが来た。白いカップに、黒い液体。湯気が細く立ち上る。ヒナタがカップに両手を添えて、ふうと息を吹きかけた。その所作が、4ヶ月前と全く同じで、武道は一瞬、胸の奥に鈍い痛みを感じた。
ヒナタが、テーブルの上に置かれた武道の右手に、そっと自分の手を重ねようとした。
その瞬間——武道の左腕が、音もなく、テーブルの下へ引っ込んだ。
誰も何も言わなかった。
左手首を、見せたくないのか。触れられることを、拒んでいるのか。武道自身にも分からなかった。ただ体が動いていた。条件反射みたいに。
ヒナタの目に、一瞬だけ——傷ついた光が走った。
次の瞬間にはもう、笑顔に戻っていた。
「[gentle]……ねえ、そのコーヒー飲まないの? 冷めるよ」
「[serious]ああ、飲む」
何事もなかったように会話が続いた。ヒナタは何も言わなかった。何も言わないことが、ヒナタにとっての精一杯の我慢だということを、武道は感じていた。感じていながら、どうすることもできなかった。
カウンターの奥で、善三がグラスを拭いていた。窓越しに二人を、ぼんやりと眺めていた。
─────
喫茶ハルノキを出た頃、空はオレンジと紺が混ざり始めていた。
二人は無言で並んで歩いた。商店街を抜けると、住宅街の路地に入る。アスファルトの上に伸びる影が長くなっていた。どこかの家の窓から、夕食の匂いが漂ってくる。玉ねぎと醤油。
ヒバリ公園の前を通りかかった時、ヒナタが足を止めた。
「[gentle]ちょっとだけ、いい?」
武道は黙って頷いた。
公園に入ると、ヒナタはベンチに座った。武道も隣に腰を下ろした。遊具は夕暮れの中に静かに立っていた。ブランコが2基——チェーンが風で少しだけきしんでいた。街灯はまだついていない。空が徐々に暗くなる時間の、あの曖昧な色。
武道にとって、ヒバリ公園のブランコは見覚えがあった。帰り道に何度か立ち止まって眺めた場所。一人で眺めていた場所。今日はヒナタが隣にいる。なのにどこか、同じ孤独を感じていた。
しばらく、沈黙が続いた。
遠くで、子供の声がした。どこかの路地で遊んでいる子供たち。夕飯を呼ぶ親の声が重なって、子供の声が消えていった。静かになった。
ヒナタが、武道の横顔を見ながら言った。
「[serious]最近、笑ってないよね」
武道は前を向いたまま、すぐに返した。
「[serious]笑ってるよ」
その言葉が出た速さと、声のトーンが——ヒナタに全てを教えた。
ヒナタは武道の横顔を見続けた。武道が自分の方を向かないことも、口の端だけで作られた笑顔の奥に何かが隠されていることも、もう何ヶ月も前から分かっていた。ただヒナタは、待っていた。武道が自分から話してくれる日を。手を伸ばせば届く場所に自分がいると、武道に気づいてもらえる日を。
今この瞬間に、その確信が——静かに崩れ始めた。
自分では届かない場所に武道がいる。
恋のライバルなんて、まだどこにもいない。由宇という転入生の話も、ヒナタは何も知らなかった。それでも、胸の中にうっすらと、名前のつかない恐怖が根を張り始めていた。武道を失いたくない、ではない——武道を救えないかもしれない、という恐怖。愛情と焦りが混ざり合って、どう扱えばいいか分からなくなっていく感覚。
ヒナタは何も言わなかった。
武道も何も言わなかった。
ブランコが、また静かにきしんだ。
─────
翌朝。
神鳴高校の3階廊下。授業と授業の合間の10分休み。ガラスから差し込む朝の光が、リノリウムの床に白く伸びていた。
ムラセ先生が、廊下を歩いてきた武道に声をかけた。
「[serious]花垣、少しいいか」
武道は足を止めた。廊下の端に二人で寄った。
ムラセ先生は手帳を見ることなく、落ち着いた声で言った。32歳、国語教師。武道の担任になって1ヶ月。その観察眼は、武道が思っていた以上に細かいものだった。
「[serious]キタハラ心療内科——カイセイ制度の指定機関のひとつだ——への通院が、2ヶ月前から止まっているって確認が来てる。カイセイ制度、知ってるよな」
カイセイ制度——東京都が東京卍會の最終抗争終結を受けて施行した、元不良少年少女を対象とする社会復帰支援制度のことだ。月1回の無料カウンセリング、学業復帰支援、就労斡旋の三本柱で構成されている。武道はかつてその登録者だった。キタハラ心療内科で月1回、担当カウンセラーと話していた。2ヶ月前に、自分から行くのをやめた。
「[serious]……考えます」
武道はムラセ先生の目を見なかった。
先生は少しの間、黙った。それ以上踏み込まなかった。ただ一言だけ、穏やかに言った。
「[gentle]無理しなくていい。ただ、一人で抱えすぎるなよ」
先生が職員室の方へ歩いていった。足音が遠ざかる。武道はその場に少しだけ立っていた。考えます——その言葉が、自分の口から出た瞬間の空虚さを、まだ感じていた。
廊下の曲がり角の陰に、人の気配があった。
ヒナタだった。
曲がり角に背を押し付けて、拳を握っていた。水色の瞳が、廊下の奥——武道の後ろ姿を見つめていた。
全部、聞こえていた。
ヒナタの胸に刺さったのは、武道がカウンセリングを避けているという事実ではなかった。武道が——誰にも、自分にさえ——何も相談しないという現実だった。
カイセイ制度のこと、保健室に週に何度も行っていること、屋上で一人でいること、全部気づいていた。気づきながら待っていた。武道が話してくれるのを。自分から歩み寄ってくれるのを。
それが、ずっと来ない。
先生に勧められてさえ、武道は考えますと言った。
ヒナタは廊下の壁に背を押し付けたまま、しばらく動けなかった。
─────
夜。
コマツバラ町のアパート2階、武道の6畳の自室。母親はまだパートから帰っていなかった。部屋の中は静かで、窓の外には隣の建物の壁しか見えない。天井の右上の端に、前から変わらないシミがある。
武道は制服のまま床に座り、引き出しの奥からノートを取り出した。黒い表紙。ページが所々波打っている、古い一冊。
ページをめくった。乱雑な字が走っている。仲間の名前、日付、場所。タイムリープ——かつて武道が持っていた、特定の条件下で過去の自分の身体に意識を飛ばす能力——を何十回も繰り返す中で、記憶をなくさないために書き残したものだった。能力は最終抗争の終結とともに消えた。残されたのはこのノートと、いくつもの時間軸で重なり合った記憶だけだ。
あるページで、手が止まった。
ミナカミ・ソウタ。
その名前を見るのは昨日が初めてではなかった。ただ今日は——その名前の横に、小さな文字があった。
ごめん。
昨日確認した時には、なかった。
字体は武道のものに近かった。でも筆圧が全く違う。力が入っていない。震えているような、細い文字だった。
いつ書いたのか、分からない。
なぜ書いたのかも、分からない。
タイムリープを何十回も繰り返す中で、記憶は幾重にも上書きされた。どの時間軸での自分が、誰に向けて、何を謝ったのか。ミナカミ・ソウタという人間が今もどこかに生きているのか、あるいは別の時間軸で死んだのか、それすら判然としなかった。生きているなら、どこにいるのか。死んでいるなら、俺のせいなのか。
記憶が信用できない、という恐怖よりも先に——もし本当に忘れているとしたら、という罪悪感が、胸の奥にずっしりと落ちてきた。
武道は左手首の内側に親指を当てた。古い火傷の跡。痛くはない。ただそこにある。消えない。
ゆっくりとなぞった。
ノートを閉じて、引き出しの奥に戻す。カチッと引き出しが閉まる音がした。
遠くから、JRカミナリ線の終電が走り抜ける低い轟音が聞こえた。
武道の体が——今夜は少しだけ遅れて、固まった。
昨日より、少しだけ遅かった。今夜はフラッシュバックは来なかった。ただ、ごめんという三文字が、暗い天井の向こうにぼんやりと浮かんでいた。
ミナカミ・ソウタ。
俺は、お前のことを覚えているのか。それとも、もう忘れかけているのか。
引き出しの中のノートは、何も答えなかった。