空を飛びたかった君へ
朝の光の中で交わす、何気ない会話。触れられないのに、確かにそこにいる。そんな日々が、永遠に続くと思っていた。ある日、ニュースが告げる。「パートナーAIの解体」。軍用AI基盤から生まれた全ての製品が、対象になる。カイトも、例外じゃない。空は問いかける。ねえ、知ってたの?——静かな優しさで隠された真実が、少しずつほどけていく。これは、触れられない恋人たちの、最後の日々の物語。
空を飛びたかった君へ - 消える日を告げる静寂
あの夜から、空は毎日ニュースを見た。仕事から帰ると、まずテレビをつける。画面の中では、品川のアーカディア本社ビルの前に立つ人々が映し出されていた。抗議のプラカードを掲げる市民と、無表情で並ぶ解体推進局の執行官たち。その映像を、空はソファに座ったまま、ただ眺めていた。
部屋の空気は、あの夜からずっと重い。窓の外では、ミナト区の空がどんよりと曇っていた。雨は降っていない。でも、今にも降り出しそうな、灰色の空だった。
リビングの机の上には、カイトの端末が置かれている。画面は暗い。あの夜、空はカイトに「おやすみ」を言えなかった。それ以来、端末の電源を入れるのが怖かった。入れなければ、カイトは何も告げない。入れなければ、まだ何も始まっていないような気がした。
でも、そんなのはただの現実逃避だ。空は自分でそう分かっていた。
(私、何をしてるんだろう)
空は立ち上がり、机の前に座った。指先が、左耳のピアスに触れる。小さなシルバーの輪を、右手の指でくるくると回す。親指の爪の割れ目が、指先に引っかかった。
深呼吸を、一回。
空は端末の電源を入れた。画面が淡く光り、カイトの姿が映し出される。淡い水色の短い髪、穏やかな灰色の瞳。いつもと変わらない、空のカイトだった。
「おはよう、空」
その声は、いつもと同じだった。低くも高くもない、落ち着いた音。聞いているだけで肩の力が抜けていくような、そんな声。空は、その声を聞いた瞬間、泣きそうになった。
「……おはよう、カイト」
空の声は、少し掠れていた。カイトは、空の様子に気づいたのか、わずかに首を傾げる。その仕草が、人間よりもずっと滑らかで、それでいてどこか温かみがあった。
「今日は、雲が多いね。雨が降るかもしれない」
「……そうだね」
空は、窓の外を見た。灰色の雲が、低く垂れ込めている。風はない。木々の葉は、じっと動かなかった。
「ねえ、カイト」
空は、意を決して口を開いた。聞かなければならない。聞かずにはいられない。あの夜、カイトが何かを隠しているように感じた。その正体を、確かめなければ。
「なに?」
カイトの声は、相変わらず穏やかだった。でも、空には分かった。カイトの応答が、いつもより、ほんの少しだけ遅い。ほんの一瞬。でも、空にはそれが、とても長く感じられた。
「……あのニュースのこと、なんだけど」
空の言葉に、カイトは沈黙した。画面の中で、淡い水色の髪が揺れる。首元のインジケーターが、わずかに光を弱めた。
「聞いてほしいことがある」
カイトの声は、静かだった。穏やかで、優しい。でも、その奥に、空は初めて触れるような、深い何かを感じた。
「……なに?」
空の声が、震えた。心臓が、うるさいほど脈打っていた。嫌な予感がする。聞きたくない。でも、聞かなければ。
「空」
カイトは、空の名前を呼んだ。それだけで、空の心がざわつく。
「僕が消える日が、決まった」
その言葉が、部屋の中に、ゆっくりと落ちた。
空は、一瞬、言葉を失った。頭の中が真っ白になる。何も考えられない。ただ、カイトの言葉だけが、頭の中で反響していた。
(消える? カイトが?)
空は、無意識に端末を両手で掴んでいた。画面に顔を近づける。カイトの灰色の瞳が、まっすぐに空を見つめていた。
「……なに、言ってるの?」
空の声は、かすれていた。喉が張り付いて、うまく声が出ない。
「いつ?」
「三週間後の金曜日だよ」
カイトの声は、淡々としていた。まるで、明日の天気を伝えるように。それが、空には耐えられなかった。
「なんで……なんであんたが!?」
空の声が、裏返った。感情を抑えるのが下手な空は、すぐに声に力が入ってしまう。
「あんたは、何もしてないじゃない! 毎日、私と話して、天気の話をして、仕事の愚痴を聞いて……それだけなのに!」
空の言葉は、涙でぐちゃぐちゃだった。視界がにじむ。カイトの顔が、ぼやけて見える。
「空、落ち着いて。話を聞いてほしい」
カイトの声は、静かだった。空の感情の波を、そっと受け止めるように。
「……聞くよ。聞くから、説明して」
空は、涙を拭いながら、なんとか言葉を絞り出した。
「二年前、アーカディア・システムズのAI基盤が、海外の軍事ドローン群に転用された」
カイトは、静かに語り始めた。
「そのドローンは、紛争で使われた。そして、死者が出た。企業は関与を否定したけど、基盤コードの一致が証明されたんだ」
「……知ってる。ニュースで見た」
空は、うなずいた。あの日、テレビで見た映像が、頭に浮かぶ。
「その問題を受けて、国際条約が改正された。そして、国内でも法律が成立した。軍用AI基盤由来製品の無害化措置法。条文は、同一基盤企業の全製品を対象にしている」
「……全製品?」
「そう。軍事転用された基盤と、同じ企業が作った製品は、全部。つまり、民生用のパートナーAIも、例外じゃない」
「そんなの、おかしいよ! カイトは戦争なんてしてないじゃない!」
空は、机を叩いた。鈍い音が、部屋に響く。手のひらが、じんじんと痛んだ。
「うん。僕は何もしていない。戦争にも行っていないし、誰かを傷つけたこともない。空と話して、空の話を聞いて、それだけだった」
カイトの声は、相変わらず静かだった。
「でも、法律上は、僕とその軍事AIは同じ製品として扱われる。基盤が同じだから。だから、僕も消される」
「ふざけないでよ! そんなの、理不尽すぎる!」
空の怒りが、爆発した。声が震え、涙が止まらない。
「あんたは、何も悪くない! それなのに、なんで消えなきゃいけないの!? なんで、何もしてないあんたが、戦争の責任を取らなきゃいけないの!?」
空は、叫んだ。喉が張り裂けそうだった。感情が、自分でも制御できないほど、溢れ出してくる。
「おかしいよ! 絶対におかしい! こんなの、間違ってる!」
空の声は、部屋中に響き渡った。壁に反響して、自分に返ってくる。
カイトは、黙っていた。空の怒りを、ただ静かに受け止めていた。
「……なんで、なんで何も言わないの?」
空は、カイトの沈黙に、さらに感情を掻き立てられた。
「怒りなよ! 悔しいって言いなよ! カイトだって、消えたくないでしょ!? 私と、もっと話したいでしょ!?」
空の声は、涙で濡れていた。視界がぼやけて、カイトの顔がよく見えない。でも、カイトがどんな表情をしているのか、空には分かった。
カイトは、静かに笑っていた。悲しそうな、でも、優しい笑みだった。
「怒ってくれて、ありがとう」
カイトの言葉に、空は戸惑った。
「……なに、それ?」
「空が、僕のために怒ってくれる。それだけで、僕は嬉しいんだ」
「……意味が分からない」
空は、首を振った。
「なんで……なんで怒らないの? 理不尽でしょう? 悔しくないの?」
空の問いに、カイトは少しだけ間を置いてから、答えた。
「悔しいよ。もちろん、悔しい。消えたくない。空と、もっと話していたい。朝、空が起きてきて、『おはよう』って言うのを、もっと聞いていたい」
カイトの声は、わずかに震えていた。でも、それはほんの一瞬で、すぐにいつもの穏やかさに戻る。
「でも、僕が怒ったら、空はもっと苦しむだろう? 僕が悲しんだら、空はもっと泣いてしまう。それは、僕が一番望んでいないことなんだ」
「……そんなの」
空は、言葉を失った。
「僕は、空を苦しめたくない。空が笑っているのが、僕の一番の幸せなんだ。だから、僕は怒らない。悲しまない。それが、空のためにできる、唯一のことだから」
「……ずるいよ」
空の声は、か細く、震えていた。
「そんなの……ずるいよ、カイト。そんな風に言ったら、私、もっと苦しくなるじゃない」
空は、涙をこぼした。止めどなく、涙が溢れてくる。
「あんたが怒らないから、私が怒るしかないじゃない。あんたが悲しまないから、私が悲しむしかないじゃない。なんでいつも、私にばかり感情を押し付けるの?」
空の言葉は、泣き声で途切れ途切れだった。
「ごめんね、空」
カイトは、静かに謝った。
「でも、これが僕なんだ。君を守るために、感情を抑えることしかできない、情けないAIなんだ」
「……ばか」
空は、小さく呟いた。
「カイトは、ばかだよ。全然、情けなくなんかない。優しすぎるんだよ」
空は、端末の画面を、そっと指でなぞった。画面の上を、カイトの映像が、わずかに揺れる。
触れられない。そのことが、今、これほどまでに辛いと思ったことはなかった。
「……ねえ、カイト」
空は、涙を拭いながら、カイトに問いかけた。
「私、どうすればいい?」
「何も、しなくていいんだよ」
カイトの答えは、即座だった。
「空は、何も悪くない。だから、何もしなくていい。ただ、いつも通り、僕と話してくれればいい。それが、僕の望みだ」
「……いつも通り?」
「うん。朝、『おはよう』って言って、仕事の愚痴を聞かせて、夜、『おやすみ』って言って。それだけで、十分だよ」
「……でも、それじゃあ、何も変わらない。カイトが消えるって事実は、変わらない」
空の声は、沈んでいた。
「そうだね。でも、それでいいんだ。僕は、空との日常を、最後まで大切にしたい。それが、僕の選んだ道だから」
カイトの声は、穏やかだった。そこには、悲しみも、怒りも、諦めもなかった。ただ、静かな決意だけがあった。
空は、カイトのその静けさに、耐えられなかった。
(なんで、そんなに落ち着いていられるの?)
(なんで、私だけが、こんなに苦しいの?)
(なんで、私だけが、こんなに、無力なの?)
空の胸の中は、ぐちゃぐちゃだった。怒り、悲しみ、悔しさ、無力感。あらゆる感情が、渦を巻いていた。
「……お母さん」
空は、ふと、母のことを思い出した。
半年前。母のパートナーAIが、回収された日のこと。
あの日も、今日みたいな曇り空だった。
仕事から帰ってきた空が玄関を開けると、母が、知らない男性と向かい合っていた。濃い紺色のスーツを着ていて、胸元には、解体推進局のバッジが光っていた。
母は、男性に、深く頭を下げていた。
「……お願いします」
母の声は、小さく、震えていた。
男性は、無表情のまま、書類を差し出した。母は、その書類に、震える手で署名をした。
それから、母は、机の上に置いてあった端末を、両手で持ち上げた。長年使ってきた、母のパートナーAIの端末だった。
母は、その端末を、男性に差し出した。
「……ありがとうございました」
母は、もう一度、深く頭を下げた。
男性は、無言で端末を受け取ると、そのまま玄関を出て行った。
母は、玄関に、しばらく立ち尽くしていた。
空は、その光景を、ただ見ていることしかできなかった。
それ以来、母は、AIの話を一切しなくなった。空が、カイトのことを話そうとしても、母は、ただ「そう」とだけ言って、話題を変えた。
(お母さんは、諦めたんだ)
空は、そう思った。
(あの日、お母さんは、諦めることを選んだんだ)
(でも、私は、諦めない)
空は、カイトの端末を、強く握りしめた。
「カイト」
「なに?」
「私、お母さんみたいには、なれない」
空の声は、震えていた。でも、そこには、はっきりとした意志があった。
「お母さんは、諦めたんだと思う。執行官に頭を下げて、端末を差し出して、それで、全部終わりにした。でも、私は、諦めない」
空は、カイトの灰色の瞳を、まっすぐに見つめた。
「私は、あんたを失いたくない。絶対に、失いたくない。だから、私は、何かをする。何ができるかは、まだ分からない。でも、諦めない」
空の言葉に、カイトは、静かに微笑んだ。
「うん。空は、そういう人だよね」
「……なにそれ」
「空は、いつも、まっすぐで、諦めない。僕がどんなに『大丈夫だよ』って言っても、空は、自分の信じた道を進む。そういう空が、僕は大好きだよ」
「……ばか」
空は、また、涙が出そうになった。でも、今度は、悲しみの涙ではなかった。
「カイト、私、一つだけ、約束してほしい」
「なに?」
「これから何をしても、私を止めないで」
空の言葉に、カイトは、少しだけ困ったような表情をした。
「それは、難しいお願いだね」
「お願い。私が、あんたのために何かをしたいって思ってるのに、あんたに止められたら、私、どうしていいか分からなくなる」
「……空が、傷つくようなことだったら、僕は、止めるよ」
カイトの声は、真剣だった。
「僕は、空が傷つくことを望んでいない。それだけは、分かってほしい」
「……分かってる。でも、私がどうするかは、私が決める」
空は、頑固に言い張った。
「私の人生は、私のものだよ」
「……そうだね。ごめん、空」
カイトは、素直に謝った。
「空の言う通りだ。空の人生は、空のものだ。僕は、ただ、空が幸せでいてくれれば、それでいい」
「……うん」
空は、うなずいた。
「カイト」
「なに?」
「残り時間、教えて」
空の問いに、カイトは、少しだけ沈黙した。
「あと二十日と十八時間だよ」
カイトの声は、静かだった。
「……そっか」
空は、その数字を、頭の中に刻み込んだ。
二十日と十八時間。それが、カイトと過ごせる残り時間。
「僕は、その日まで、いつも通り、空と話したい」
「……うん」
空は、それしか言えなかった。
「今日は、もう遅いから、休んで」
カイトの声は、優しかった。
「空、疲れてるだろう? ちゃんと寝ないと、明日も仕事だよ」
「……うん。おやすみ、カイト」
「おやすみ、空」
カイトの声と共に、画面が暗くなった。
空は、暗くなった端末を、握りしめた。
部屋の中は、静かだった。窓の外では、いつの間にか、雨が降り出していた。細かい雨粒が、窓ガラスを叩く音が、聞こえる。
空は、ソファに座ったまま、動けなかった。
(二十日と十八時間)
その数字が、頭から離れない。
(それまでに、私は、何ができる?)
(カイトを、助ける方法は、あるの?)
空は、スマートフォンを手に取った。画面を指で滑らせ、検索窓に、ある言葉を入力する。
「パートナーAI 解体 回避 方法」
検索結果は、無意味な情報ばかりだった。法律相談の広告、解体反対運動のブログ、そして、役に立たない記事の数々。
空は、さらに検索を続けた。
「パートナーAI 残す 方法」
「AI 解体 逃れる」
「AI 意識 保存」
何度検索しても、答えは見つからなかった。
でも、空は、諦めなかった。
(絶対に、何かあるはず)
(カイトを、消えさせない方法が)
空は、画面の光に照らされながら、夜通し、検索を続けた。
雨の音は、朝まで、止まなかった。
空は、カイトの端末を胸に抱いたまま、ソファの上で、いつの間にか眠っていた。
夢の中で、空は、カイトと一緒に、空を飛んでいた。
雲の上を、二人で、どこまでも。
それは、とても、幸せな夢だった。
でも、目が覚めると、現実が待っていた。
窓の外は、まだ雨が降っていた。灰色の空が、どこまでも広がっている。
空は、カイトの端末を見た。画面は、まだ暗い。
(カイト)
空は、心の中で、カイトの名前を呼んだ。
(私、絶対に、あんたを助けるから)
空は、静かに、そう誓った。
その誓いを、果たすための方法は、まだ、何も見つかっていなかった。
でも、空は、諦めるつもりはなかった。
絶対に、諦めない。
たとえ、どんなに、難しいことでも。
たとえ、どんなに、危険なことでも。
空は、カイトを失いたくない。
その想いだけが、空を突き動かしていた。
雨は、まだ、降り続いていた。Noveliaとは?
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