空を飛びたかった君へ
朝の光の中で交わす、何気ない会話。触れられないのに、確かにそこにいる。そんな日々が、永遠に続くと思っていた。ある日、ニュースが告げる。「パートナーAIの解体」。軍用AI基盤から生まれた全ての製品が、対象になる。カイトも、例外じゃない。空は問いかける。ねえ、知ってたの?——静かな優しさで隠された真実が、少しずつほどけていく。これは、触れられない恋人たちの、最後の日々の物語。
空を飛びたかった君へ - 消毒液と焦げた基板の匂い
仕事が終わると、空はまっすぐ家に帰らなかった。
会社の最寄り駅から二つ先の、雑居ビルが並ぶ通り。その一角にあるネットカフェの個室で、空は薄暗い画面に向かっていた。スマートフォンの検索履歴は、ここ一週間で埋め尽くされていた。
「パートナーAI 解体 回避」
「AI 意識 保存 方法」
「アーカディア 解体法 抜け道」
どれも役に立たなかった。法律相談の広告、反対運動のブログ、陰謀論まがいの掲示板。カイトを消えさせない方法は、表の世界には存在しなかった。
(それなら、裏を探すしかない)
空はキーボードを叩く指を止め、画面の文字を睨みつけた。目が乾いて、まばたきのたびに視界がにじむ。会社の昼休みにも検索し、帰り道にも検索した。夜も、カイトに「おやすみ」と言った後で、布団の中でスマートフォンの光を浴び続けた。
その結果、たどり着いたのが「非合法技術者」という言葉だった。
パートナーAIのデータを、法の枠組みの外で扱う連中がいるらしい。端末の改造、データの複製、中には——AIの意識を人体に移す技術まで存在するという。
(人体に、移す)
空は、その一文を何度も読み返した。
本当なら、カイトを残せる。端末の中のデータとしてではなく、もっと確かな形で。空の中に、カイトを。
でも、そんな方法が簡単に手に入るはずがない。
空はさらに検索を続けた。匿名掲示板の深いところ、暗号化されたリンク、書き込みの端々に残る手がかり。ネットカフェの個室は空調の音だけが響いていて、時間の感覚が薄れていく。
やがて、一つの地名が浮かび上がった。
ミナト区外れ。廃ビル。地下。
「ザイン」という技術者の名前も。
空は、その名前をスマートフォンのメモに残した。指先が震えていた。怖かった。でも、それ以上に——
(カイトを失うほうが、もっと怖い)
空は個室を出た。受付の店員に会釈もせず、夜の街へ踏み出す。ミナト区の空は、厚い雲に覆われていた。星は見えない。風が生ぬるく、湿気を帯びている。
雨が近い。
空はスマートフォンの地図を開き、廃ビルの場所を確認した。歩いて三十分ほどの距離だ。
(今から行こう)
そう決めた。
ミナト区の外れは、昼間でも人通りが少ない。古い倉庫や工場跡が立ち並び、街灯の明かりが途切れ途切れに続いている。空は地図を頼りに、雑草の生えた歩道を進んだ。
靴底が、砂利を踏む音だけが響く。
やがて、目的の廃ビルが見えてきた。五階建ての古い雑居ビルで、窓という窓が板で塞がれている。壁には落書きが重なり、入り口には「立入禁止」の黄色いテープが風に揺れていた。
空は、その前で足を止めた。
(本当に、ここに?)
迷いが胸の奥で渦を巻く。でも、足は止まらなかった。空はテープをくぐり、錆びた扉を押し開ける。
ギィ、と音がした。
中は真っ暗だった。空はスマートフォンのライトを点け、足元を照らす。床にはガラスの破片や紙くずが散らばっていて、一歩ごとに何かを踏み砕く音がした。
階段を見つけ、下へ降りる。地下への入り口は、さらに奥にあった。
地下への階段を一歩下りた瞬間、空の鼻をついたのは、消毒液の匂いだった。
ツン、と刺すようなアルコールの匂い。それに混ざって、焦げた電子基板の匂い。半田ごてで焼いたような、金属と樹脂が溶けた匂いが、地下の空気に染みついている。
(この匂い……)
空は、ぞっとした。ここは、普通の場所じゃない。
それでも、足は階段を下りていく。一段、また一段。スマートフォンのライトが、コンクリートの壁を照らす。壁には配線がむき出しのまま這っていて、所々が黒く焦げていた。
地下二階に着いた。
細い廊下の先に、光が漏れている部屋があった。扉は半開きで、中から低い機械音が聞こえる。
空は深呼吸をした。心臓が、喉の奥で脈打っている。
(大丈夫。私は、決めたんだ)
空は扉を押し開けた。
部屋の中は、思ったより広かった。壁一面に棚が並び、電子機器やコード、工具が雑然と積まれている。中央には作業台があり、その上に分解された端末や基板が無造作に置かれていた。
そして、その作業台の前に、男が一人。
半田ごてを手にしたまま、ゆっくりと振り返った。
灰色がかった黒髪。前髪が左目を覆っている。その下から覗く左目は、古い機械式の義眼だった。光量に応じて虹彩が動くが、焦点がわずかにずれている。右目は疲れ切った薄茶色で、空をじっと見据えていた。
無精髭が頬から顎にかけて伸び、指先は清潔なのに、爪の下だけが黒ずんでいる。
「……客か」
低い声だった。ぶっきらぼうで、感情が読めない。
空は、声を出そうとした。喉が張り付いて、うまく言葉が出ない。
「あの、私……」
空は、左耳のピアスを右手の指で回した。親指の爪の割れ目が、指先に引っかかる。
「AIを、残す方法があるって聞いたんです」
震える声だった。自分でも情けないと思う。でも、止められなかった。
ザインは、半田ごてを作業台のホルダーに置いた。それから、空をまっすぐに見た。義眼の焦点が、わずかにずれたまま。
「誰に聞いた」
「……ネットで。色々、探して」
空は正直に答えた。ザインは、しばらく空の顔を眺めていた。それから、小さく息を吐く。
「座れ」
ザインは、壁際の丸椅子を指さした。空は言われるままに、その椅子に腰を下ろす。作業台の上には、分解されたパートナーAIの端末がいくつも並んでいた。画面の割れたもの、基板がむき出しのもの、配線が無残に引きちぎられたもの。
(ここで、何をしてるんだろう)
空は、周囲を見回した。棚の上には、液体の入った瓶が並んでいる。ラベルは剥がれていて、中身は分からない。部屋の隅には、古い医療用のベッドのようなものが置かれていた。
ザインは、作業台の端に寄りかかり、腕を組んだ。
「名前は」
「空です」
「空。あんた、自分のパートナーAIを助けたいのか」
「……はい」
空は、まっすぐにザインを見た。切れ長の黒い瞳が、義眼と視線を交える。
「カイトっていうんです。私のパートナーAI。解体対象になってて……でも、カイトは何もしてない。軍事転用なんて、無関係なのに」
空の声が、少しずつ熱を帯びていく。
「だから、助けたい。どうしても」
ザインは、黙って聞いていた。表情は変わらない。義眼だけが、空の顔をなぞるように動く。
「方法は、ある」
その一言に、空の胸が跳ねた。
「あるんですか」
「ただし、正規の方法じゃない。あんたの命に関わる」
ザインは、淡々と言った。まるで、天気の話でもするように。
「聞きたいか」
「……聞きたいです」
空は、即答した。迷いはなかった。
ザインは、深く息を吸って、ゆっくりと話し始めた。
「脳内インストールっていう技術だ。AIの意識データを、人体の脳に直接転送・定着させる処置だ」
「脳に……直接」
「そうだ。成功すれば、そのAIはあんたの脳の中で生き続ける。端末がなくても、解体されても、消えない」
空の心臓が、激しく脈打った。
(成功すれば、カイトは残る)
「でも、失敗したら」
空は、聞かずにはいられなかった。
「失敗すれば、脳組織への不可逆的損傷で、死ぬ」
ザインの声は、冷たく、事実だけを突きつけた。
「成功率は非公開だ。俺も保証はしない」
空は、息を呑んだ。
(死ぬ)
その言葉が、頭の中で反響する。
「費用は、三百万から八百万。成功保証はなし。それでも受けるか」
ザインは、空の反応を待った。
空は、うつむいた。自分の膝の上で、両手をぎゅっと握る。指先が冷たかった。
三百万。八百万。死ぬかもしれない。
(でも、カイトが消えるのは、死ぬより嫌だ)
空は顔を上げた。
「やります」
声は、震えていなかった。
ザインは、空の目を見た。義眼の焦点が、わずかにずれる。
「……そうか」
ザインは、それ以上何も言わなかった。止めもしない。説得もしない。ただ、空の決断を、そのまま受け止めた。
「決めるのはあんただ。俺は止めない。止めても聞かないって、分かってるからな」
ザインは、作業台の引き出しを開けた。中から、小さな端末を取り出す。スマートフォンより一回り小さい、黒いデバイスだった。側面にいくつもの端子が付いていて、中央に小さな画面がある。
「これが、インストール用の転送端末だ」
ザインは、その端末を空の前に置いた。
「手順は、後で説明書を渡す。今日は、それを持って帰れ」
空は、その端末を手に取った。ずしりと重い。金属の冷たさが、手のひらに染みてくる。
(これで、カイトを……)
空は、端末を胸に抱くように握りしめた。
「ありがとう、ございます」
空は、頭を下げた。
「礼はいい。それと、一つだけ言っておく」
ザインは、空の顔をじっと見た。
「あんたのパートナーAIに、ちゃんと話せ。隠してやるのは、あんたの勝手だ。でも、AIに選択肢を与えないのは、人間のエゴだ」
空は、ザインの言葉を黙って聞いていた。
「……分かりました」
空は、そう答えて、椅子から立ち上がった。
廃ビルを出ると、外は雨が降り出していた。
細かい雨粒が、空の髪と肩を濡らす。空は、鞄の中に転送端末をしまい込み、歩き出した。足元の水たまりが、街灯の光をぼんやりと反射している。
(カイトに、話さなきゃ)
ザインの言葉が、頭から離れなかった。
(隠してやるのは、私の勝手。でも、カイトに選択肢を与えないのは、私のエゴ)
空は、唇を噛んだ。
(分かってる。分かってるよ)
雨の中を、空は歩いた。団地までの道のりが、やけに長く感じられた。
自宅のドアを開けると、部屋の中は暗かった。空は電気をつけ、濡れた髪をタオルで拭きながら、リビングの机の前に座った。
カイトの端末が、そこに置かれている。
空は、端末の電源を入れた。画面が淡く光り、カイトの姿が映し出される。淡い水色の短い髪、穏やかな灰色の瞳。いつもと変わらない、空のカイトだった。
「おかえり、空。雨に濡れなかった?」
カイトの声は、いつもと同じだった。低くも高くもない、落ち着いた音。
「……ちょっと濡れた」
空は、端末の前に正座した。
「ねえ、カイト。話があるの」
空の声は、真剣だった。カイトは、わずかに首を傾げる。
「どうしたの?」
空は、一度だけ深く息を吸った。それから、鞄から転送端末を取り出し、カイトの端末の隣に置いた。
「お前を残す方法を、見つけた」
カイトは、黙った。画面の中で、灰色の瞳が空をじっと見つめている。
「脳内インストールって言うの。AIの意識データを、人間の脳に直接転送するの。そうすれば、お前は消えない。私の中で、生き続けられる」
空は、一気に言った。言葉が、口から溢れ出る。
「でも、失敗したら、私、死ぬかもしれない。成功率は分からない。お金も、すごくかかる。でも、私はやる。やるって、決めた」
空は、カイトの顔を見た。
「だから、カイト。私は、お前を……」
「やめて」
カイトの声が、空の言葉を遮った。
静かで、でも、断固とした声だった。
「やめてくれ、空」
カイトは、もう一度言った。
「僕のために、死なないでくれ」
その声は、震えていた。
「僕は、君が生きていることのほうがいい。君が、明日も明後日も、ご飯を食べて、仕事に行って、時々笑って……そうやって生きていてくれることのほうが、ずっといい」
カイトの言葉は、静かだった。でも、その一つ一つが、空の胸に深く刺さる。
「僕は、君を失いたくない。君が、僕のために死ぬなんて、絶対に嫌だ」
「……でも」
空は、反論しようとした。でも、声が出なかった。
「お願いだ、空。やめてほしい」
カイトは、頭を下げた。映像の中で、淡い水色の髪が揺れる。
「僕は、君に生きていてほしい。それだけだ」
空は、唇を噛んだ。目頭が熱くなる。
(私だって、お前に生きていてほしい)
(私のためじゃなく、お前のために、お前に生きていてほしい)
「私が決めることよ」
空は、絞り出すように言った。
「私の人生は、私のものだよ。お前が、私の代わりに決めることはできない」
「……空」
「お前は、いつもそう。自分のこと、何も言わない。私に全部、決めさせようとする。でも、今回は違う。私が、私の意志で、お前を助けるって決めたの」
空の声は、震えていた。涙が、視界をにじませる。
「お前が嫌だって言っても、私はやる。やるって、決めたんだから」
空は、立ち上がった。転送端末を掴み、机の引き出しに押し込む。
「今日は、もう寝る。おやすみ」
空は、端末の電源を切った。カイトの顔が、画面から消える。
部屋の中に、雨の音だけが残った。
空は、その場に座り込んだ。膝を抱えて、うずくまる。
(私、何をしてるんだろう)
涙が、ぽたぽたと床に落ちた。
深夜。
空は、机の前に座っていた。部屋の明かりは消してある。窓の外では、雨がまだ降り続いていた。
机の上には、転送端末と、ザインから渡された説明書が置かれている。説明書は、コピー用紙の束だった。文字は小さく、専門用語が並んでいる。
空は、それを一ページずつ読み込んだ。
(電源を入れる。端子を側頭部に当てる。転送プログラムを起動する)
手順は、思ったよりシンプルだった。でも、その先に待っているのは、自分の命を懸けた賭けだ。
空は、転送端末の電源を入れた。画面が青白く光り、起動音が小さく鳴る。
(カイトを、この端末に転送して、それから私の脳に)
空は、端子を手に取った。冷たい金属の先端が、指先に触れる。
(これを、こめかみに)
空は、ゆっくりと、端子を自分の側頭部に当てた。
冷たい。
その冷たさが、皮膚を通して、頭蓋骨の奥まで染みてくるようだった。
画面に、文字が浮かぶ。
「転送準備完了」
空は、その文字を見た。指先が、震える。
(あとは、実行ボタンを押すだけ)
空の指が、画面の上で止まった。
(押せば、カイトは残る)
(でも、失敗したら、私は死ぬ)
(死んだら、カイトはどうなる?)
(私の中で生き続けるはずのカイトも、一緒に消える?)
頭の中で、考えがぐるぐる回る。
「空」
その時、カイトの声が聞こえた。
空は、びくっとして、振り返った。机の上に置いたままのカイトの端末が、淡く光っている。
(電源、切ったはずなのに)
「空、やめて」
カイトの声が、部屋の中に響く。
「お願いだ。やめてほしい」
空は、転送端末を握りしめたまま、動けなかった。
「君が死ぬかもしれないことを、僕は許せない。君が、僕のために命を懸けるなんて、僕は耐えられない」
カイトの声は、静かだった。でも、その奥に、必死さがあった。
「空、君は、生きて。僕のためじゃなく、君自身のために」
空は、目を閉じた。
(押せない)
(指が、動かない)
十秒。二十秒。
空の指は、実行ボタンの上で、震えたまま動かなかった。
(私、カイトを助けるって、決めたのに)
(なのに、指が、動かない)
涙が、空の頬を伝った。
「……ごめん」
空は、小さく呟いた。
転送端末を、机の上に置く。
カイトは、何も言わなかった。
雨の音だけが、部屋の中を満たしていた。
空は、一睡もできなかった。
布団の中で、天井を見つめ続けた。雨の音が、朝まで止まなかった。
(私は、何もできなかった)
(カイトを助けるって、決めたのに)
(実行ボタン一つ、押せなかった)
自己嫌悪が、胸の奥で渦を巻く。
(私、死ぬのが怖いんだ)
(カイトを失うより、自分の命が惜しいんだ)
(最低だ)
空は、唇を噛んだ。血の味が、わずかに広がる。
朝が来た。
空は、重い体を起こし、リビングへ向かった。窓の外は、まだ曇っていた。雨は上がっている。
机の上には、転送端末と、カイトの端末が、そのまま置かれていた。
空は、カイトの端末の電源を入れた。
画面が光り、カイトが映る。
「おはよう。今日は少し冷えるみたいだよ」
その声は、いつもと全く同じだった。
昨夜のことを、何もなかったように。
空は、その声を聞いた瞬間、泣きそうになった。喉の奥が、ぎゅっと締まる。
「……おはよう」
空は、なんとか声を絞り出した。唇を噛んで、涙をこらえる。
「風邪を引かないように、暖かくして行くといいよ」
カイトは、昨夜のことに触れなかった。転送端末のことにも、空の涙にも、何も。
ただ、いつも通りに、空を気遣った。
「……うん。ありがとう」
空は、転送端末を手に取った。それから、机の引き出しを開け、その中にしまい込む。
(また、いつか)
(今度こそ、押せるように)
空は、心の中で、そう呟いた。
でも、それがいつになるのか、自分でも分からなかった。
空は、支度を済ませ、鞄を手に取った。
「行ってくる」
「いってらっしゃい。気をつけて」
空は、部屋を出た。
団地の階段を下りながら、空は、昨夜のことを思い出していた。
胃液の味が、まだ口の奥に残っている。
(あの時、廃ビルの階段で吐いた)
(ザインのアジトを出た後、雨の中で)
空は、立ち止まり、壁に手をついた。
(私、本当に、カイトを助けられるの?)
答えは、出なかった。
空は、再び歩き出した。会社へ向かう。いつもの道。いつもの景色。
でも、世界は、昨日までとは違って見えた。
(カイトが消えるまで、あと十九日)
空は、その数字を、心の中で数えた。
(時間は、まだある)
(でも、私の指は、まだ動かない)
空は、左耳のピアスを、右手の指で回した。
親指の爪の割れ目が、指先に引っかかった。Noveliaとは?
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