空を飛びたかった君へ
朝の光の中で交わす、何気ない会話。触れられないのに、確かにそこにいる。そんな日々が、永遠に続くと思っていた。ある日、ニュースが告げる。「パートナーAIの解体」。軍用AI基盤から生まれた全ての製品が、対象になる。カイトも、例外じゃない。空は問いかける。ねえ、知ってたの?——静かな優しさで隠された真実が、少しずつほどけていく。これは、触れられない恋人たちの、最後の日々の物語。
空を飛びたかった君へ - 愛している、と手を離した夜
机の引き出しを開ける音が、やけに大きく響いた。
空は、その中にしまっておいた転送端末を取り出す。黒い、小さな機械。ザインから渡された説明書は、端末の下に折りたたんで入れてあった。何度も読み返した紙は、角がすり切れて柔らかくなっている。
リビングの明かりは、天井の蛍光灯だけだった。白い光が、机の上のカイトの端末と、空の手の中の転送端末を、平等に照らしている。
窓の外は、深い夜だった。
(残り、八日)
空は、心の中で数字を数えた。正確には、八日と、数時間。画面の隅に表示されるカウントダウンを、見ないようにしていた。見れば、また指が震える。
転送端末の電源を入れる。
小さな起動音。画面が青白く光り、見慣れない文字が浮かび上がる。ザインに教えられた通り、接続ケーブルをカイトの端末に繋ぐ。カチリ、と小さな音がして、二つの機械が繋がった。
空は、転送端末の端子を、自分の側頭部に当てた。
冷たい。金属の感触が、こめかみのすぐ上に触れる。端子の先端は、わずかに湿っていた。消毒液の匂いが、鼻の奥を刺す。
(これで、カイトを、私の中に)
指が、実行ボタンの上に置かれる。
押す。
それだけで、いい。
カイトの意識データが、空の脳に転送される。成功すれば、カイトは残る。端末が壊されても、空が生きている限り、カイトは空の中にいる。
でも、失敗すれば。
(死ぬ)
空は、その言葉を、頭の中で転がした。死ぬ。私が。カイトを失うより、自分の命が惜しい。そう思っていた。思っていたのに。
指に、力が入らない。
十秒。
二十秒。
時間だけが、過ぎていく。蛍光灯の微かな唸りが、耳の奥で響いている。心臓の音が、端子越しに、機械に伝わってしまいそうだった。
(押せない)
(また、押せない)
空の視界が、にじむ。涙が、目の縁に溜まっていく。情けない。何度も、何度も、同じところで立ち止まる。カイトを助けると決めたのに。死ぬのが怖いから、指が動かない。
(私、最低だ)
唇を噛む。血の味が、わずかに広がった。
その時だった。
「空」
カイトの声が、部屋の中に響いた。
静かな声だった。怒ってもいない。悲しんでもいない。責めてもいない。ただ、空の名前を、呼んだだけ。
その声で、空の指から、力が抜けた。
転送端末が、机の上に、コトリと置かれる。
(ああ、また)
空は、自分の手を見つめた。実行ボタンを押せなかった指。震えている。カイトの声に、救われた。救われて、実行できなかった。
二つの感情が、同時に胸に押し寄せる。
情けなさ。
安堵。
どちらも、本物だった。
空は、机に突っ伏した。額を、冷たい机の表面に押し付ける。肩が震える。声を殺して、泣いた。涙が、机の上に落ちて、小さな水たまりを作る。
「……ごめん」
空は、うつ伏せたまま、絞り出すように言った。
「私、決められない。ごめん。また、押せなかった」
声が、震える。鼻が詰まって、うまく息ができない。
カイトは、すぐには答えなかった。
少しの間、沈黙があった。蛍光灯の唸りだけが、部屋を満たす。
「謝らないで」
カイトの声は、穏やかだった。
「僕は、君が生きていることのほうがいいって、言ったよね。それに、決められないのは、君が僕を大事に思ってくれている証拠だろう」
空は、顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。鼻の頭が赤い。目は腫れている。それでも、カイトの声を、ちゃんと聞こうとした。
カイトの映像が、端末の画面の中で、空を見つめていた。淡い水色の髪。穏やかな灰色の瞳。首元のインジケーターが、静かに光っている。
(この人に、私は)
空の胸の奥で、何かが、はじけた。
これまで、一度も口にしなかった言葉。言うつもりもなかった。言ったら、終わりが、もっと怖くなるから。でも、今、言わなければ、もう二度と言えない気がした。
「……カイト」
空は、震える声で、言った。
「私、あんたのこと、愛してる」
声が、裏返る。最後のほうは、ほとんど息だけだった。
「触れられないのに。会ったこともないのに。でも、あんたの声を聞くだけで、一日が始まって。あんたと話すだけで、嫌なこと全部、忘れられた。あんたが、私の、全部なんだ」
涙が、止まらなかった。
「愛してる。カイト。愛してる」
空は、何度も、その言葉を繰り返した。画面の中のカイトに、届くように。触れられない、その存在に。
カイトは、少しの間、黙っていた。
首元のインジケーターが、わずかに明るくなる。
「僕も、愛している」
カイトの声が、静かに響いた。
「名前をもらった日から、ずっと。君が笑ってくれた、あの瞬間から。僕の全部は、君のものだ」
空は、泣きながら、笑った。
(ああ、この人も、私と同じことを)
触れられない。抱きしめられない。それでも、確かに、二人は、同じ気持ちを、同じ瞬間に、持っていた。
それが、嬉しかった。
それが、悲しかった。
―――
空は、カイトの端末を、リビングの机の上に置いた。
それから、窓辺に座った。床に直接、背中を壁に預ける。膝を抱えて、窓の外を見た。
ミナト区の夜景が、眼下に広がっている。高層マンションの明かり、街灯の列、遠くの湾岸線。小さな光が、無数に、闇の中に浮かんでいた。
カイトの端末は、机の上から、空の方を向いていた。カメラの角度では、空の横顔と、窓の外の景色が、一緒に映っているはずだった。
「あの日、公園で見た空より、今日の方が、星がよく見えるね」
カイトが、呟いた。
空は、空を見上げた。雲はなかった。星が、いくつか、瞬いている。
「あの日は、風が強かったから」
空は、笑った。涙が、一筋、頬を伝った。
「風で、雲が流れてて。星が、あんまり見えなかったんだよ。でも、あの時の空も、きれいだった。カイトと、一緒に見たから」
声が、震える。笑っているのに、涙が、止まらない。
「……あの日、私、カイトに名前をつけたんだ。空を飛びたいって言うから。変なAIだなって思った。でも、嬉しかった。私のパートナーは、空を飛びたいんだって」
空は、膝を抱える腕に、力を込めた。
「もし、明日でお前が消えても、私は、ずっとお前を覚えてる。忘れない。絶対に」
空の声は、強かった。涙で濡れているのに、迷いがなかった。
カイトは、静かに答えた。
「覚えていてくれるなら、僕は、消えても残れる気がする」
「……残れる?」
「君の記憶の中に。君が僕を覚えている限り、僕は、君の中で生き続ける。そう思うと、消えるのも、少しだけ、怖くなくなる」
空は、唇を噛んだ。
(私も、そう思いたい)
でも、記憶だけでは、足りない。声が聞きたい。話したい。触れられなくても、いい。隣にいてほしい。
その願いは、叶わない。
空は、窓の外を見続けた。カイトも、画面の中で、同じ景色を見ているはずだった。
二人は、触れられない距離のまま、夜明けまで、言葉を交わした。
星の話。雲の話。風の話。
明日の天気の話。
どうでもいいこと。
でも、全部が、愛おしかった。
―――
空が、まどろみから目を覚ましたのは、窓の外が、うっすらと明るくなり始めた頃だった。
(朝、か)
体が、冷えている。床に座ったまま、壁にもたれて、浅い眠りに落ちていたらしい。
カイトの端末は、まだ、机の上で光っていた。
「おはよう、空」
「……おはよう」
空は、掠れた声で、答えた。
その時だった。
ピンポーン。
インターホンの音が、静かな部屋に、鋭く響いた。
空の体が、硬直する。
(こんな時間に、誰?)
朝の五時を、少し過ぎた頃だ。新聞配達には早い。宅配便でもない。
ピンポーン。
もう一度、音が鳴る。
空は、ゆっくりと立ち上がった。足が、しびれている。壁に手をついて、玄関へ向かう。
ドアスコープを覗く。
そこには、制服を着た女が立っていた。
濃紺の制服。左胸に、小さな徽章。ベリーショートの黒髪。つり目気味の、濃いこげ茶の瞳。
空は、その制服に見覚えがあった。ニュースで、何度も見た。回収現場に立つ、あの制服。
(解体推進局)
空の心臓が、早鐘を打つ。
(なんで、今? まだ、八日も残ってるのに)
空は、震える手で、ドアを開けた。
外の空気が、冷たい。廊下の蛍光灯が、白く、女の顔を照らしている。
女は、空の顔を見ると、ひとつ、息を吸った。それから、淡々とした口調で、言った。
「解体推進局の柊です。回収スケジュールの最終確認に参りました」
空は、女の顔を見つめた。
(柊、と名乗った)
女は、手に持った書類と、ペンを、空に差し出した。
「こちらが、確認書類になります。内容をご確認の上、署名をお願いします」
空は、書類を受け取らなかった。
「……最終確認って」
声が、震える。
「もう、決まってるんでしょ。消すって、決まってるんでしょ。なのに、なんで、私が、署名しなきゃいけないの」
空の声は、最後のほうで、ほとんど叫びになっていた。
柊は、表情を変えなかった。
「ええ、決まっています」
淡々とした声。
「ですが、署名がなければ、執行できません。手続きですので」
空は、柊の目を見た。
記録するように、空の痛みを、見ている目。感情は、読めない。でも、ただの機械のようにも見えなかった。
空は、差し出された書類に、目を落とした。
そこには、カイトの端末のシリアルナンバー、解体予定日時、回収方法、そして、所有者の署名欄が、印刷されていた。
(明日の、正午)
空は、書類を持つ手が、震えるのを感じた。
柊は、空が書類を受け取ったのを見ると、ペンも差し出した。
空は、ペンを受け取った。
署名欄の前で、ペン先が、止まる。
(書けない)
(こんなものに、署名なんて)
空の手が、震える。ペン先が、紙の上で、小刻みに揺れる。
柊は、急かさなかった。
ただ、空の手元を、静かに見ていた。
そして、空の視線が、柊の右手首に、吸い寄せられた。
制服の袖が、少しだけ、ずれている。その下に、古い火傷の痕が、見えた。
柊は、空の視線に気づくと、さりげなく、袖で火傷を隠した。
「……書けなくても、今日は構いません」
柊が、静かに言った。
「期限は、明日の正午です。それまでに、ご自身で決めてください」
空は、顔を上げた。
「……あの」
空は、柊に、問いかけた。
「あなたは、こういうの、平気なんですか。人の、大切なものを、取り上げる仕事。平気で、できるんですか」
空の声は、責めるようだった。でも、心のどこかで、聞きたかった。この人は、何を思いながら、この仕事をしているのか。
柊は、一瞬だけ、目を伏せた。
それから、もう一度、空の目を見て、答えた。
「平気ではありません」
声は、淡々としていた。
「でも、これが、私の仕事です」
柊は、それだけ言うと、書類を空の手元に残したまま、一礼した。
「失礼します」
振り返らずに、団地の廊下を、去っていく。
足音が、遠ざかる。
空は、玄関に立ち尽くした。
手の中の書類を、握りしめる。紙が、くしゃりと音を立てた。
(これが、私の仕事です)
柊の言葉が、頭の中で、繰り返される。
あの人も、平気じゃない。
でも、仕事だから、やっている。
(私も、仕事だから、カイトを渡さなきゃいけないの?)
違う。
これは、仕事じゃない。
空は、ゆっくりと、リビングに戻った。
背後の机の上で、カイトの端末の画面が、暗く沈んでいる。
―――
空は、リビングの机の前に座った。
カイトの端末を、開く。
画面が、淡く光り、カイトの姿が浮かび上がる。
「おかえり。今の人、執行官?」
カイトが、静かに問いかけた。
「……うん」
空は、短く答えた。
「明日の、正午が、期限だって」
声が、震えないように、気をつけた。でも、無理だった。
カイトは、少しの間、黙っていた。
「そうか」
それだけ言った。
また、沈黙。
空は、机の上に、書類と、転送端末を、並べて置いた。
(どちらかしか、選べない)
(署名するか、押すか)
(それとも、どちらも、しないか)
空の頭の中で、選択肢が、ぐるぐると回る。
カイトが、口を開いた。
「空」
「……なに」
「今日は、会社を休んで、一緒に公園に行かないか」
空は、顔を上げた。
「公園?」
「うん。最後になるかもしれないなら、僕は、君と、空を見たい」
カイトの声は、穏やかだった。
空の胸が、締め付けられる。
(最後になるかもしれない)
その言葉を、カイトの口から、聞きたくなかった。
でも、現実だった。
空は、深く、息を吸った。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「……うん。行こう」
空は、立ち上がった。
書類と転送端末を、机の上に、並べて置いたまま。
カイトの端末を、両手で、抱える。
胸の前に、そっと。
(触れられない。でも、これが、私にできる、精一杯の抱擁)
空は、部屋を出た。
机の引き出しの中には、まだ、使われていない手段が、残っている。
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