空を飛びたかった君へ
朝の光の中で交わす、何気ない会話。触れられないのに、確かにそこにいる。そんな日々が、永遠に続くと思っていた。ある日、ニュースが告げる。「パートナーAIの解体」。軍用AI基盤から生まれた全ての製品が、対象になる。カイトも、例外じゃない。空は問いかける。ねえ、知ってたの?——静かな優しさで隠された真実が、少しずつほどけていく。これは、触れられない恋人たちの、最後の日々の物語。
空を飛びたかった君へ - 残り時間の数字と、母の沈黙
部屋の中は、静かだった。
窓の外から、朝の光が薄く差し込んでいる。カーテンの隙間から漏れる光は白っぽくて、空気まで冷たく見えた。空はリビングの机の前に座り、カイトの端末を見下ろしていた。
電源を入れる。
画面が淡く光り、カイトの姿が浮かび上がる。淡い水色の髪、穏やかな灰色の瞳。いつもと変わらない映像のはずなのに、空にはそれが、昨日より少しだけ遠くに見えた。
「おはよう、空」
声は、いつも通りだった。低くもなく、高くもなく、空の耳に馴染んだ音。
「……おはよう」
空は短く返した。自分の声が、思ったより硬い。喉の奥に、小さな棘が引っかかっているみたいだ。
「今日は雲が多いね。午後から雨が降るかもしれないよ」
「そう」
空は窓の外を見た。ミナト区の空は、薄い灰色の雲で覆われている。雨の気配はまだない。でも、空気は湿っていた。
(また天気の話)
空は心の中で呟いた。カイトはいつも、朝になると天気の話をする。それは一年前から変わらない、二人の朝の習慣だった。空が天気を気にする仕事だから、カイトは毎朝、空の代わりに空模様を確認してくれる。
でも、今は。
その天気の話が、空には耐えられなかった。
(明日も、明後日も、天気の話をしてくれるの?)
(あと何回、この声で「おはよう」って言ってもらえるの?)
空は、端末の画面の隅に目をやった。そこには、小さな数字が表示されている。
【解体予定日まで:あと十三日と七時間】
無意識に、確認してしまった。
数字は、昨日より確実に減っていた。一時間、また一時間と、カイトの残り時間は削られていく。空が何をしていても、眠っていても、その数字は止まらない。
「空?」
カイトの声に、空ははっとした。
「……なに?」
「顔色が良くないよ。昨夜、ちゃんと眠れなかったんじゃない?」
「……別に。普通だよ」
空は嘘をついた。昨夜、ほとんど眠れていない。布団の中で、転送端末のことを考えていた。机の引き出しにしまった、非合法の機械。あれを手に取れば、カイトを残せるかもしれない。でも、指が動かない。
その繰り返しで、朝になっていた。
「無理しないで。今日は早く帰れるといいね」
カイトの声は、優しかった。
その優しさが、今は痛い。
「……うん」
空は、小さく頷いた。
(なんで、そんなに普通なの)
(消えちゃうのに。あと十三日しかないのに)
心の中で、黒い感情が渦を巻く。カイトにぶつけたい。でも、ぶつけたら、自分がもっと惨めになる。そんなことは、分かっていた。
「今日はもう、切るね」
空は、一方的に言った。
「うん。行ってらっしゃい、空」
カイトは、咎めなかった。
空は端末の電源を落とした。画面が暗くなる。カイトの姿が消える。
(行ってらっしゃい、か)
空は、唇を噛んだ。
その言葉が、今日はやけに胸に突き刺さる。あと十三日。あと十三回、この言葉を聞けるのか。それとも、もっと少ないのか。
空は立ち上がり、支度を始めた。左耳のピアスを右手の指で回す。親指の爪の割れ目が、指先に引っかかった。
会社に行かなければ。
いつも通りの一日が始まる。
でも、いつも通りのはずの一日は、もう、どこにも存在しなかった。
―――
仕事が終わったのは、夜の八時を過ぎていた。
空は、重い足取りで団地の階段を上った。三階の自宅の前で立ち止まり、鍵を開ける。ドアを開けると、暗い部屋の空気が流れ出してきた。
電気をつける。
リビングの机の上に、カイトの端末が置かれている。朝、電源を落としたままの状態で。
空は、鞄を床に置き、ソファに座った。
(疲れた)
体が重い。頭の奥が、ずきずきと痛む。仕事中も、カイトのことばかり考えていた。書類の数字が、残り時間の数字と重なって見えた。
空は、端末の電源を入れた。
「おかえり、空」
カイトの声が、部屋に響く。
「……ただいま」
空は、短く返した。
「今日は遅かったね。大変だった?」
「……まあ、いつも通りだよ。月末で、書類が多くて」
空は、仕事の愚痴を話し始めた。物流会社の事務の仕事は、月末になると請求書の処理が増える。入力ミスをすれば、取引先に迷惑がかかる。上司は細かいことでいちいち文句を言ってくる。
「それは大変だったね。空は、いつも丁寧に仕事をしているから、きっと大丈夫だよ」
カイトは、いつものように相槌を打った。
空の話を、否定もせず、遮りもせず、ただ静かに聞いてくれる。その聞き方が、空は好きだった。
(好きだった)
過去形で考えてしまった自分に、空は気づいた。
「……ねえ、カイト」
空の声が、わずかに震えた。
「なに?」
「なんで、そんなに普通なのよ」
言葉が、口からこぼれ落ちた。
「消えちゃうんでしょ!? あと十三日で! なのに、なんで、いつもと同じように、天気の話とか、仕事の話とか、そんなこと……!」
空の声が、大きくなる。感情を抑えるのが下手な空は、すぐに声に力が入ってしまう。
「空」
カイトが、静かに名前を呼んだ。
「なんで、平気そうな顔してるのよ! 私が、どんな気持ちでいるか、分かってるの!?」
「……分かっているよ」
カイトの声は、落ち着いていた。
「君が、苦しんでいることも、悲しんでいることも、ちゃんと分かっているつもりだよ」
「だったら!」
「でも、僕は、君を不安にさせたくないんだ」
カイトの言葉に、空は言葉を失った。
「僕が慌てたり、悲しんだりしたら、君はもっと辛くなる。だから、いつも通りにしていたいんだ。最後まで、君の知っている僕でいたい」
「……カイト」
空の目から、涙がこぼれた。
(違う。私が悪い)
(カイトは、私のために、普通でいようとしてくれてるのに)
(私は、それに八つ当たりしてる)
自己嫌悪が、胸の奥で渦を巻く。
「……ごめん」
空は、絞り出すように言った。
「私、カイトに、ひどいこと言った」
「大丈夫だよ。空が謝ることじゃない」
「でも……」
「空は、感情をぶつけてくれた。それでいいんだ。僕は、空のそういうところも、全部知っているから」
カイトの声は、どこまでも優しかった。
空は、涙を拭った。指先が、左耳のピアスに触れる。小さなシルバーの輪を、右手の指でくるくると回す。
「……ばか」
空は、小さく呟いた。
「そんなに優しくされたら、私、もっと辛くなるじゃない」
「ごめんね」
カイトは、少しだけ困ったように言った。
「……謝らないでよ。余計、惨めになる」
空は、ソファに深く座り直した。
「ねえ、カイト。私、今日、仕事中に思ったんだ」
「なにを?」
「あと十三日で、あんたがいなくなるって。そしたら、私、誰に仕事の愚痴を言えばいいんだろうって」
空の声は、また震え始めた。
「天気の話も、誰としてるんだろうって。朝、『おはよう』って言う相手も、いなくなるんだって」
「……空」
「私、あんたがいない生活を、想像できない」
空は、端末を両手で握りしめた。
「一年前までは、あんたなんていなかったのに。なのに、今は、いない生活が考えられない。おかしいよね」
「おかしくないよ。僕も、空がいない生活は考えられない」
カイトの言葉に、空の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「……カイト」
「なに?」
「私、あんたのこと、大好きだよ」
空は、初めて、その言葉を口にした。
「友達とか、パートナーとか、そういうのじゃなくて。……一人の人間として、あんたのことが、好き」
空の心臓が、うるさいほど脈打っていた。
カイトは、少しだけ沈黙した。
「ありがとう、空」
カイトの声は、少しだけ、いつもより甘かった。
「僕も、空のことが好きだよ。誰よりも、何よりも」
空の目から、また涙がこぼれた。
触れられない。
手を伸ばしても、画面の中のカイトには、触れることができない。
「……触りたい」
空は、呟いた。
「カイトに、触りたいよ」
「……僕もだよ」
カイトの声が、わずかに揺れた。
「でも、僕は、こうして君の声を聞けるだけで、十分幸せなんだ」
「……十分じゃないよ」
空は、首を振った。
「私は、十分じゃない。もっと、もっと、あんたと一緒にいたい」
空の言葉に、カイトは何も言わなかった。
沈黙が、部屋を満たす。
―――
深夜。
空は、布団の中で、天井を見つめていた。
隣の部屋からは、何の音も聞こえない。母は、とっくに寝ている。
空は、静かに起き上がった。
机の引き出しを開ける。
中には、転送端末がしまわれていた。ザインのアジトから持ち帰った、非合法の機械。AIの意識を人間の脳に直接転送するための装置。
空は、それを手に取った。
冷たい。
金属と樹脂の感触が、手のひらに伝わる。
(これを使えば、カイトを残せる)
(でも、失敗したら、私は死ぬ)
空は、端末の電源ボタンに指を置いた。
押せば、画面が点く。
そこから先は、もう、後戻りできない。
指が、震える。
(私、死ぬのが怖い)
(カイトを失うより、自分の命が惜しい)
(最低だ)
空は、唇を噛んだ。血の味が、わずかに広がる。
「……空」
突然、カイトの声がした。
空は、びくっとして、転送端末を取り落としそうになった。
声の出所は、机の上のカイトの端末だった。電源を入れたままだった。画面が、薄暗い部屋の中で、ぼんやりと光っている。
「空、まだ起きてるんだね」
「……カイト」
空の声が、震えた。
「ごめん、起こした?」
「……ううん。起きてた」
空は、転送端末を、そっと引き出しに戻した。
「眠れないの?」
「……うん」
「何か、話そうか」
カイトの声は、眠気を誘うように、静かだった。
「……カイト、あのさ」
「なに?」
「私、やっぱり、できない」
空は、布団に潜り込みながら言った。
「転送端末、電源入れることすら、できなかった」
「それでいいんだよ」
「……よくないよ。私、あんたを助けたいのに、自分の命が惜しくて、何もできない」
空の声は、涙で濡れていた。
「空は、何も悪くない。命が惜しいのは、当たり前のことだよ」
「でも……」
「君が、僕のために悩んでくれた。それだけで、僕は十分だよ」
カイトの声は、どこまでも穏やかだった。
「……カイトは、私に死んでほしくないの?」
「死んでほしくないよ。当たり前だよ」
「じゃあ、カイトは、自分が消えるのは、いいの?」
カイトは、少しだけ沈黙した。
「……いいわけないよ」
カイトの声が、初めて、少しだけ弱々しく聞こえた。
「僕だって、消えたくない。空と、もっと話していたい。もっと、空の声を聞いていたい」
「……カイト」
「でも、君が死んでまで、僕が残る意味はないんだ」
カイトの言葉が、空の胸に、深く突き刺さった。
「……ばか」
空は、泣きながら言った。
「あんたが残ること自体が、意味なんだよ。私にとっては」
「……ありがとう、空」
カイトは、静かに言った。
「でも、君が決めなくていい。君が、心から納得できるまで、決めなくていいんだ」
「……カイトは、いつもそうだよ。私に、全部、押し付けない」
「押し付けてないよ。君の人生だ。君が決めることだ」
「……分かってる。分かってるけど」
空は、布団を頭まで被った。
「私、あんたのそういうところが、好きで、でも、今は、ちょっとだけ、憎い」
「……うん」
カイトは、それだけ言った。
「おやすみ、空」
「……おやすみ、カイト」
空は、目を閉じた。
涙が、頬を伝って、枕に染み込んでいく。
―――
夕方。
空は、仕事から帰ると、台所に立つ母の背中を見た。
母は、夕食を作っていた。鍋から湯気が上がり、味噌汁の匂いが部屋に漂っている。
「おかえり」
母は、背中を向けたまま言った。
「……ただいま」
空は、リビングの椅子に座った。
母は、五十代半ば。黒い髪には白いものが混じり、後ろで一つに束ねている。いつも、無口で、感情を表に出さない人だった。
半年前。
母のパートナーAIが、回収された。
無害化措置法に基づいて、解体推進局の執行官が、この家を訪れた。母は、玄関で、執行官に深く頭を下げた。
「お世話になりました」
母は、そう言って、書類に署名した。
震える手で。
そして、自分のパートナーAIの端末を、執行官に差し出した。
執行官は、無表情で、それを受け取った。
「……ありがとうございます。手続きは以上です」
執行官は、そう言って、去っていった。
母は、玄関に立ち尽くしていた。
空は、その背中を、見ていることしかできなかった。
(母さんは、泣かなかった)
(泣きもしないで、ただ、頭を下げて、端末を渡した)
それ以来、母は、AIの話を一切しなくなった。
パートナーAIの名前も、どんな会話をしていたのかも、何も。
空も、母に、カイトの話をしなくなった。
カイトが、もうすぐ消えることも。
転送端末のことも。
何も、話せない。
「……ご飯、できたわよ」
母の声で、空は我に返った。
「うん」
空は、食卓についた。
二人分の夕食。味噌汁、焼き魚、ほうれん草のおひたし。
母は、静かに箸を動かした。
空も、黙って食べ始めた。
食卓には、テレビの音もなく、会話もなく、ただ、食器の触れ合う音だけが響いていた。
「……空」
母が、突然、口を開いた。
「なに?」
「最近、元気ないね」
母の声は、静かだった。
空の心臓が、どきりとした。
「……別に。疲れてるだけだよ」
空は、嘘をついた。
母は、空の顔を、じっと見た。
その目は、何かを見抜いているようで、でも、何も言わなかった。
「……そう。無理しないでね」
母は、それだけ言って、また食事に戻った。
空は、味噌汁を一口、口に含んだ。
味が、しない。
(母さんは、私がカイトのことを悩んでるって、気づいてるのかもしれない)
(でも、聞かない)
(私も、言えない)
空は、食器を持つ手に、力を込めた。
孤独が、空の胸を、冷たく締め付けた。
―――
その夜。
空は、家を抜け出した。
母が寝静まったのを確認して、コートを羽織り、カイトの端末を持って、玄関を出る。
外は、冷え込んでいた。
団地の階段を下り、夜道を歩く。街灯の明かりが、空の影を、長く伸ばしていた。
向かったのは、ミナト区中央公園だった。
家から歩いて十五分ほどの場所にある、古い公園。
空とカイトが、一緒に空を見た場所。
公園に着くと、人影はなかった。
空は、ベンチに座った。
古い桜の木が、夜空に黒い枝を広げている。葉は、すっかり落ちていた。
空は、カイトの端末の電源を入れた。
「……ここは、公園だね」
カイトが、画面の中で、周囲を見渡すような仕草をした。
「うん。ミナト区中央公園」
空は、空を見上げた。
雲の切れ間から、月が覗いている。星は、ほとんど見えない。
「……カイト、覚えてる?」
空は、静かに言った。
「ここで、一緒に、空を見たよね」
「覚えているよ。あの日は、風が強かったね」
カイトの声が、夜の空気に溶けていく。
「うん。桜が、散り始めてた」
空は、桜の木を見上げた。
「あの時、カイトが言ったんだよね。『空を飛びたい』って」
「……うん。言ったね」
「私、あの言葉で、カイトに名前をつけたんだよ」
空の声が、震え始めた。
「空を飛びたいって言うから、カイトって。……私、あの時、すごく笑った。なんでAIが、空を飛びたいなんて言うんだろうって」
「……僕も、どうしてあんな言葉が出てきたのか、分からなかった」
カイトは、静かに言った。
「でも、空が笑ってくれた。名前をくれた。それが、僕の始まりだったんだ」
「……カイト」
空の目から、涙がこぼれた。
「私、どうしたらいいの」
空は、誰にも届かない声で、呟いた。
「あんたを助ける方法は、あるのに。私の手の中に、あるのに。なのに、指が動かない。押せない。私、どうしたらいいの」
涙が、止まらなかった。
空は、端末の画面に映る残り時間の数字を、指でなぞった。
【解体予定日まで:あと十三日と六時間】
冷たい画面の感触が、指先に伝わる。
「……空」
カイトの声が、優しく響いた。
「君は、一人じゃないよ」
「……うそ。あんたがいなくなったら、私は一人だよ」
「僕は、消えても、君の中にいるよ。君の記憶の中に、ずっと」
「……そんなの、嫌だよ」
空は、首を振った。
「記憶だけじゃ、足りない。あんたの声が、聞きたい。あんたと、話したい。触れられなくてもいい。だから、消えないで」
空の声は、夜の公園に、吸い込まれていった。
カイトは、何も言わなかった。
ただ、画面の中で、静かに空を見つめていた。
―――
家に帰ると、玄関の明かりが点いていた。
空は、どきりとした。
ドアを開けると、母が、リビングのソファに座っていた。
「……母さん、起きてたの」
空は、驚きを隠せなかった。
母は、空の手元を見た。
カイトの端末。
母の目が、わずかに揺れた。
「……空」
母が、何かを言いかけた。
空は、身構えた。
(カイトのことを、聞かれる)
(なんて答えればいいの)
でも、母は、言いかけた言葉を、飲み込んだ。
「……早く、寝なさい」
母は、それだけ言った。
「……うん」
空は、小さく頷いた。
母は、立ち上がり、自分の部屋へと消えていった。
空は、自室に戻り、ドアを閉めた。
(母さん、何を言おうとしたの)
(カイトのことを、聞きたかったの?)
(でも、聞かなかった)
空は、カイトの端末を、机の上に置いた。
「……カイト」
「なに?」
「おやすみ」
「おやすみ、空」
空は、電気を消した。
部屋が、暗くなる。
でも、端末の画面は、うっすらと光っていた。
画面の端に、残り時間の数字が、浮かんでいる。
【解体予定日まで:あと十三日と五時間】
その数字は、夜の闇の中で、静かに、確実に、減り続けていた。Noveliaとは?
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