死神、恋愛は卍解できない
ある朝、黒崎一護はオレンジ高校の2年生として目を覚ます。そこには死神も虚もなく、ただの現代日本があった。隣の席には白髪の転校生、朽木白哉が座っている。廊下では朽木ルキアがスマートフォンを逆さに持ちながら「人間生活を完全にマスターした」と主張している。
一護はこの静かな日常にどこか安心感を覚える。食堂のパンは美味しい。チャイムが鳴る。誰も死なない。悪くない。
だが、その平和はちょうど三日間だけ続いた。
井上織姫が一護にラブレターをそっと渡す。固まったままの一護の隣にルキアが現れ、その紙に何が書いてあるのか問い詰める。石田雨竜は廊下からメガネを押し上げ、意味深に「一護には俺が必要だ」と宣言する。恋の五角関係が動き出したのだ。
その日から混沌が始まる。織姫は一護の机に弁当を置き、ルキアは焦げた黒おにぎりで対抗するが、まずいとは認めようとしない。雨竜は怪しい理由で一護を弓道部に勧誘する。白哉は一護の隣で無言で本を読み続けるが、誰かが近づくたびにページをめくる音が明らかに大きく、攻撃的になる。
敵の動きを読むことはできても、感情を読み取る能力はゼロの一護。それが彼の人生で最も難しい戦い
死神、恋愛は卍解できない - 孤独のメロンパンと、川べりの涙と、追いつけなかった背中
屋上の修羅場から、一夜が明けた。
昨日の秋空に五人で立ち尽くしたあの時間が、まるで夢みたいだった。でも現実だった。一護にははっきりわかった——教室に入った瞬間に。
朝のホームルーム前。いつもルキアが机を拭いている時間。
ルキアは教室の反対側、窓際の席に座っていた。一護と対角線、いちばん遠い場所。白銀の髪が朝日を受けて光っている。でもこちらを向いていない。窓の外を見ている。
「[serious]ルキア」
返事がない。
もう一歩近づいた。
「[gentle]なあ、昨日のことなんだけど……」
「[cold]用はない」
振り向かなかった。たった四文字。それだけだった。
一護は止まった。
どう返せばいいかわからなかった。ポケットに手を入れて、引っ込めた。また出した。結局何も言えないまま自分の席に戻った。
そこへ、織姫が入ってきた。
サーモンピンクの髪。いつもの笑顔。でも手に弁当箱がない。一護の机の前を通る瞬間、ちらっとこちらを見て——目が合った。
「[sad]……あ、黒崎くん」
「[gentle]おう。弁当、今日は……」
「[sad]ごめん、今日は作れなかったんだ」
早口だった。笑顔が少しだけひきつっていた。織姫はそのまま、一護の斜め前ではなく、別の列の空いた席に向かった。
一護は織姫の背中を見つめた。
(今日は作れなかった、か……)
昨日まで毎朝持ってきていたのに。
雨竜は朝練で教室にいない。白哉は隣の席に座っているが、いつも手放さない文庫本が机の上に閉じたまま置いてある。開いていない。ただ窓の外を眺めている。
「[gentle]白哉、何か……」
「何もない」
目を窓から離さないまま。
一護は自分の机を見下ろした。今日は誰にも拭かれていなかった。ほこりが一粒、陽光の中で浮かんでいた。
これが、孤立というやつか。
笑えるくらい、四方向が全部ふさがれていた。
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昼休み。一護は購買部に向かった。
廊下の人混みをかき分けて、購買部の小窓の前に立つ。ガラス越しに商品が並んでいる。メロンパン、百五十円。
「[excited]はい、メロンパンね」
購買のサツキさん——短い白髪をきっちりまとめた、六十二歳のベテランおばちゃん——が一護に袋を差し出しながら、ぎょっとしたように言った。
「[surprised]あんた、最近ずっと一人じゃないの。何かあったの?」
「[cold]別に」
「別にって顔じゃないわよ、あなた。ほら、お釣り」
硬貨を受け取って背を向けた。サツキさんの「告白でも失敗した?」という声が背中に刺さったが、聞こえなかったふりをした。
屋上に上がった。
鉄のドアを押す。秋の風が吹き込んだ。
柵のそばに座った。ルキアといつも並んでいた場所だ。今日は一護だけが座っている。メロンパンの袋を開けて、一口かじった。
甘かった。
校庭が遠くに見える。体育の授業の笛の音。遠くのJRの音。空が高くて薄い青だった。
(オレは、誰が好きなんだ)
口の中でメロンパンが甘い。でも全然うれしくない。
死神だった頃——その記憶が、夢みたいにかすかに浮かぶ。敵がいれば動けた。守るべきものが見えれば走れた。でも今は違う。敵がいない。刀がない。代わりにあるのは、どうすればいいかわからない気持ちだけだ。
ルキアの焦げたおにぎりが、食べたい。
その考えが、ふいに浮かんだ。
外が真っ黒で、中だけやわらかくて、梅干しが入ってて。あれ、うまかった。織姫の笑顔が消えると落ち着かない。雨竜のあの「一護には僕が必要です」の意味不明な宣言を、もう一回笑いたい。白哉のページをめくる音が今日はない。あの音、うるさいと思っていたのに。
メロンパンを半分食べたところで、一護は気づいた。
いなくなったら、調子が狂う。それだけははっきりしていた。
でも、それが「好き」なのか、それとも別の何かなのか——まだわからない。
袋をくしゃっと丸めた。
風が吹いた。
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放課後。一護は一人で空座川の河川敷に来ていた。
特に目的があったわけじゃない。まっすぐ家に帰る気分でもなかった。川沿いの遊歩道を歩いていたら、白鷺が一羽、川べりに立っていた。朝に織姫がここを通ると世界観設定で読んだ気がしたが、そんなことを考えても意味がない。
その時、ベンチが見えた。
川沿いの古いベンチ。そこに、サーモンピンクの髪が揺れていた。
織姫が座っていた。俯いていた。肩が微かに揺れていた。
泣いていた。
一護は立ち止まった。どうしようか一秒考えて、歩いた。
「[gentle]おい、織姫」
织姫が弾かれたように顔を上げた。手で目のあたりをぐっと拭う。一秒。二秒。そして、ぱあっと笑顔を作った。
「[sad]あ、黒崎くん! えっと——大丈夫だよ!」
「[serious]泣いてたじゃないか」
「[sad]泣いてないよ! ちょっと目にゴミが……」
「目のゴミが両目から出るか」
织姫が口をつぐんだ。それから、小さく笑った。今度は作った笑顔じゃなかった。ちょっとだけ情けない、本物の笑顔だった。
「[sad]……自信なくなっちゃっただけで、全然大丈夫だから」
「[surprised]自信って……何の?」
「[sad]えっと、あたし、黒崎くんのこと好きで。でも昨日の屋上で、みんないるじゃないですかって気づいて。あたしが無理に言ったから……ごめんね、黒崎くんが謝らなくていいよ」
「[serious]無理じゃ……」
「[sad]帰るね!」
立ち上がった。
一護は口を開いた。何か言おうとした。引き止める言葉を探した。
——出てこなかった。
織姫の背中が遠ざかる。川沿いの遊歩道を歩いていく。白鷺が飛んだ。夕暮れの川面が橙色に光っていた。
一護は河川敷に一人残された。
(オレはほんとに、不器用だ)
雨竜なら何か論理的に言えたかもしれない。白哉なら黙って隣に座るだけで伝わるかもしれない。でも一護には泣くなよしか出てこなかった。それすら言えなかった。
川が流れている。夕日が溶けていく。
一護はベンチに腰を下ろして、夕暮れを見ていた。
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夜になった。
黒崎医院の二階。一護の部屋。机の椅子に腰かけて、教科書を開いていた。でも一文字も頭に入ってこなかった。
なんとなく窓の外を見た。
街灯の下に、人影があった。
白銀の髪。
ルキアだった。
黒崎医院の前の路上に、ルキアが立っていた。こちらを向いていた。一護の部屋の窓の方を、じっと見ていた。
「[surprised]ルキア!」
声が出た。窓越しに叫ぼうとした瞬間——ルキアが踵を返した。
歩き始めた。
住宅街の暗い路地に向かって、早足で。
「[serious]待て!」
部屋を飛び出した。階段を駆け下りた。玄関で靴を無理やり突っ込んだ——右足のかかとを踏んだまま、扉を開けて飛び出した。
坂道に出た。走った。
住宅街の角を曲がった。また走った。かかとを踏んだ靴がずれる。坂の途中で足がもつれた。
ドタッ。
前のめりに転んだ。手のひらを地面についた。膝が擦れた。
起き上がった。走った。
でも、もう暗かった。街灯が遠い。路地の向こうに白銀の髪は見えなかった。どこの角を曲がったかもわからない。
追いつけない。
一護は暗い坂道の真ん中で止まった。息が切れていた。膝が痛かった。手のひらに砂がついていた。
「[cold]……くそ」
声に出た。誰もいない住宅街に、その言葉だけが残った。
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部屋に戻った。電気を点けなかった。
布団に倒れ込んだ。天井を見つめた。暗い天井。
死神だった頃の記憶が、断片的に浮かんでくる。霊圧の重さ。斬魄刀を握った感触。誰かの名前を叫んだこと。でも、何を叫んだか、誰に叫んだか——夢みたいに霞んで、はっきりしない。
あの頃も、伝えるのが下手だった。
言う前に戦いが始まった。終わったあとは照れくさくて言えなかった。時間が過ぎた。何も言わないまま。
何も変わっていない。
一護の目に、じわっと熱いものが滲んだ。こらえようとした。こらえきれなかった。
泣いた。
誰かのそばにいたいのに、何もできない自分への怒りで泣いた。織姫の笑顔が消えたことへの情けなさで泣いた。ルキアの背中を追いつけなかったことへの、どうしようもなさで泣いた。
暗い部屋の天井に向かって、一護は初めてちゃんと泣いた。
しばらく経って、涙が止まった。
天井を見ていた。呼吸が静かになった。
そして、一護の中に一つだけ、確かなものが残った。
オレは、あいつらがいないと駄目なんだ。
好きの意味はまだわからない。でもそれだけは、本当だった。
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泣き疲れて、目を閉じる前に——机の引き出しから、折りたたまれた白い紙を取り出した。
あなたのことが好きです。差出人なし。
最初は謎だった。誰が書いたのか知りたかった。でも今は別の問いが浮かんでいた。
好きって言葉を持っている奴は、どうやってそれを知ったんだろう。
答えは出なかった。でも一護は紙をそっと引き出しに戻して、目を閉じた。
翌朝。文化祭の前日。
一護が登校する途中の坂道——ハルカゼ商店街のアーケードへと続く緩い上り坂——で、台車を押しているじいさんの後ろ姿が見えた。
ミナヅキ堂の皆月源三——創業八十七年の和菓子屋の店主で、商店街会長を務める七十一歳の白髪のじいさん——が、段ボール箱を積んだ台車をゆっくり押していた。文化祭用の大福だろう。
「[serious]おい坊主。顔色が悪いぞ」
一護が近づいたら、じいさんがすぐに言った。
「[sarcastic]ちょっと寝れなかっただけです」
「寝れない理由があるのか。ほれ、食いな」
台車の段ボールを開けて、大福を一つ取り出した。ぽん、と一護の手に乗せた。
「[surprised]タダでいいんですか」
「祭りの前日くらい、サービスだ。いいから食え」
じいさんはそのまま台車を押して坂を上っていった。
一護は大福を一口かじった。
やわらかくて、甘くて、餡子の味がした。
ルキアとここで並んで食べた、あの味だ。
胸の中で何かが小さく動いた。
今日、ちゃんと話さないといけない。うまくできなくても——伝えないよりましだ。
坂の上にオレンジ高校が見えた。文化祭前日の朝、校舎の窓に手作りのポスターが貼られているのが遠くからでも見えた。
でも誰も、まだ一護を待っていない。
一護はもう一口、大福をかじって、坂を上り始めた。