死神、恋愛は卍解できない
ある朝、黒崎一護はオレンジ高校の2年生として目を覚ます。そこには死神も虚もなく、ただの現代日本があった。隣の席には白髪の転校生、朽木白哉が座っている。廊下では朽木ルキアがスマートフォンを逆さに持ちながら「人間生活を完全にマスターした」と主張している。
一護はこの静かな日常にどこか安心感を覚える。食堂のパンは美味しい。チャイムが鳴る。誰も死なない。悪くない。
だが、その平和はちょうど三日間だけ続いた。
井上織姫が一護にラブレターをそっと渡す。固まったままの一護の隣にルキアが現れ、その紙に何が書いてあるのか問い詰める。石田雨竜は廊下からメガネを押し上げ、意味深に「一護には俺が必要だ」と宣言する。恋の五角関係が動き出したのだ。
その日から混沌が始まる。織姫は一護の机に弁当を置き、ルキアは焦げた黒おにぎりで対抗するが、まずいとは認めようとしない。雨竜は怪しい理由で一護を弓道部に勧誘する。白哉は一護の隣で無言で本を読み続けるが、誰かが近づくたびにページをめくる音が明らかに大きく、攻撃的になる。
敵の動きを読むことはできても、感情を読み取る能力はゼロの一護。それが彼の人生で最も難しい戦い
死神、恋愛は卍解できない - キャンプファイヤーと、言えなかった言葉と——また明日ね
カフェの後片付けが終わったのは、夕方五時ごろだった。
教室の床に散らばった紙コップを袋に詰めながら、一護は外が暮れていくのを窓越しに見ていた。空が橙色から紫になっていく。丘フェス——カラクラ市立オレンジ丘高校の文化祭——の後夜祭は六時に始まる。
今日の焦げたクッキーの苦さが、まだ口の中に残っている気がした。
ルキアが声を出して笑ったこと、頭から消えない。
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校庭に出ると、すでに生徒の輪が広がっていた。
キャンプファイヤー——積み上げた薪に火がついて、橙色の炎が校庭の真ん中で燃えている。ぱちぱちと薪が弾ける音。煙の匂い。夕暮れよりも炎の方が明るいくらいの時間になっていた。
生徒たちが輪になって踊ったり、友達と肩を組んで笑ったり、スマホで写真を撮ったりしている。浮竹先生——2年3組の担任で、体が少し弱い穏やかな国語の先生——が輪の端でコーヒーを飲みながら生徒たちを見ていた。
一護は輪からちょっと離れた、校庭の端にあるベンチに腰を下ろした。炎がよく見える場所だった。一人でいるつもりだった。
が。
「[excited]黒崎くん! 一人だったの?」
サーモンピンクの髪が揺れた。織姫が小走りでやってきて、当然のようにベンチの隣に座った。距離、ゼロ。
「[gentle]今日、すごく楽しかったよ」
笑顔だった。今朝の泣き笑いとも、昨日の空っぽな笑顔とも違う。本物の笑顔だった。その笑顔を見て、一護は少しだけほっとした。
「[gentle]そりゃよかった」
次に来たのは雨竜だった。腕を組んで、ベンチの斜め後ろに立つ。座りもしないで立つのが雨竜らしかった。
「[serious]……上出来な文化祭でしたね」
眼鏡をクイッと上げる。耳がまだちょっと赤い。今日の洗い場での完璧なオムライスを思い出して、一護は少し笑いそうになった。
三人でぼんやり炎を見ていると、背後に気配があった。
振り返る前に分かった。視線だ。じっとりとした、静かな視線。
白哉が、ベンチの真後ろに立っていた。手に文庫本を持っている。開いている。でも——校庭は炎の光だけで、文庫本のページなんて絶対に読めない暗さだった。
「[cold]……」
無言のまま、ページをめくる。ぱら。
「[sarcastic]読めてんのかよ、それ」
白哉は答えなかった。ぱら、もう一枚めくった。
ベンチ前方・斜め後ろ・真後ろ。三方向を囲まれた一護は、まあいいかという気持ちになって、また炎を見た。
しばらくして、炎の向こうから白銀の髪が近づいてきた。
ルキアだった。炎を背にして、一護の正面に立った。白銀の髪が橙色の光を受けて揺れている。淡い紫色の瞳が、一護を静かに見ている。
「[cold]……お疲れ」
たった二文字。でもルキアが「お疲れ」なんて言ったのは、一護の記憶では初めてだった。
すごく、変な感じがした。胸の奥がぎゅっとする感じ。なんだこれ。
「[gentle]ああ……お前もな」
そう返した直後、一護はもっと何か言いたかったと気づいた。今日ルキアの笑い声を聞いた時のこととか。焦げたクッキーを押しつけられた時のこととか。でも言葉が出てこない。いつもそうだ。
五人で、しばらく黙って炎を見ていた。
ぱちぱち。ぱち。
薪が弾けて、火の粉が舞った。
その時、ルキアが口を開いた。
「[serious]……一護」
声のトーンが、変わった。さっきと違う。柔らかくもなく、鋭くもなく——静かで、少し遠い声だった。
「[serious]私は……いつか、ここを離れないといけないかもしれない」
炎の音だけが聞こえた。
織姫の笑顔が固まった。雨竜の組んでいた腕がすっと落ちた。白哉の文庫本のページをめくる音が止まった。
一護は、ルキアの顔を見た。ルキアは炎を真っ直ぐ見ていた。こっちを向かない。
(今、なんて言った)
頭の中で言葉が繰り返された。ここを離れる。いつか。かもしれない。
どういう意味だ。
「[surprised]……どういうことだ」
ルキアは答えなかった。炎を見たまま、ただ立っていた。
沈黙。
一護は立ち上がった。
「[angry]黙ってんじゃねえ。ちゃんと言えよ」
ルキアのそばに近づいた。ルキアを見下ろす位置に立つ。ルキアは——少しだけ、顎を上げて、一護を見返した。その顔には怒りも悲しみもなかった。ただ、静かだった。
「[cold]……言ったところで、あんたには何もできんだろう」
一護は黙った。
——確かに。
「どこを離れる」のかも、「いつか」がいつなのかも、何も分からない。分からないのに、どうすればいい。でも、このまま黙って聞き流すのも、嫌だった。絶対に嫌だった。
「[sad]ルキアさん……その、場所って」
織姫がそっと割り込もうとした瞬間、雨竜が先に口を開いた。
「[serious]一護、今は無理に聞かなくていい」
眼鏡越しの青い目が、一護を真っ直ぐ見ていた。
「[cold]どちらでもいい」
背後から、白哉の声がした。
「[cold]……だが、今夜ではない」
三人が一斉に主張した形になった。織姫が「場所って」と聞こうとしていて、雨竜が「無理に聞かなくていい」と止めていて、白哉が「今夜じゃない」と言っている。それが全部かぶって、一護の周りが急にごちゃごちゃになった。
「[angry]だから全員うるさい!!」
思わず叫んだ。
三人が黙った。ルキアも黙っていた。校庭の炎だけが、ぱちぱち音を立てて燃えていた。
一護は頭を両手で抱えて、深呼吸した。
(うるさい。でも——)
こいつら、全員ここにいる。
それが、どうしてだか、胸の奥で小さく温かかった。
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後夜祭が終わり、生徒たちが散り始めた。
織姫が「黒崎くん、今日本当にありがとう」と言って手を振った。その笑顔は本物だった。一護は「こっちこそ」と返した。——自分でも驚くくらい、素直に出てきた言葉だった。
雨竜が近づいてきて、小声で言った。
「[serious]明日、弓道部の朝練に来るなら六時半に」
「[surprised]まじかよ、いきなり」
「[cold]いつでも、というのはいつでもという意味です」
眼鏡を直して、雨竜は静かに去った。耳が赤かった。
白哉は無言で立ち去った。ただ——校門の方に向かいながら、一度だけ振り返った。ベンチの方向を見て。それだけだった。でも、その一瞬の目線が、何かを言っていた気がした。
ルキアも「行く」と背を向けた。
「[serious]ルキア、さっきの話——」
一護が呼び止めた。
ルキアは立ち止まった。でも振り返らなかった。夜風が白銀の髪を揺らした。校庭の炎が小さくなっていて、その光がルキアの髪をほんのり照らしていた。
数秒、沈黙した。
——その時。
一護の上着の袖が、そっと引っ張られた。
指一本。後ろから、ほんの少しだけ。
一護は動けなかった。
ルキアの声が、背中の方から聞こえた。小さな、小さな声だった。
「[whispers]……また明日、来るからな」
手が離れた。
ルキアは振り返らないまま、歩き出した。校庭の暗い方へ、白銀の髪が消えていく。
一護は、動けなかった。
袖を見た。ルキアの指が触れた場所。何も残っていない。でも、触れた感触だけがある。
胸の中に——暗い部屋で泣いた夜とは、全然違う何かがあった。
熱くて、落ち着かなくて、でも嫌じゃない。全然嫌じゃなかった。
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全員が去った後、一護はベンチに一人で座っていた。
キャンプファイヤーの炎が、だいぶ小さくなっていた。薪の燃え残りが、赤くぼんやり光っている。校庭には一護だけが残っていた。
袖を、なんとなく見た。
空を、なんとなく見上げた。秋の夜空だった。星がいくつか出ていた。冷たい空気が顔に触れる。
(また明日、来るからな)
あの小声が、頭の中でまだ鳴っている。
好きって、こういうことか。
まだ分からない。でも、この感覚に名前をつけたいという気持ちが、一護の中に初めてはっきりとあった。
ただ——同時に。
ルキアの「いつかここを離れないといけないかもしれない」という言葉が、炎の消えかけた赤色みたいに、頭の隅でずっとくすぶっていた。
元の場所。あいつはどこから来たんだ。ここを離れる、って——どこへ行くんだ。
一護は、目を覚ましたあの朝のことを思い出した。気づいたらこの街にいた。戦いも、斬魄刀も、敵も——何もなかった。あれは夢だったのか、それとも。バトルのない世界。でもルキアの言葉を聞いていると、この平和は永遠じゃないかもしれない気がしてきた。
ずっと前からあった、かすかな違和感。
炎が、ぱちっと最後に弾けた。
一護は立ち上がった。秋の夜風が冷たかった。校門の坂道を一人で下り始める。
答えはない。でも、問いだけが静かに、胸の中に残っていた。
嫌じゃない。不思議と、全然嫌じゃなかった。