リムルさんちの大家族日記
テンペストは今日も平和。たぶん。
毎朝、魔王リムルは同じことでため息をつく――それは「朝食会議」。シュナは和食を提案し、ベニマルは味見を始め、ソウエイは一言で片付け、ハクロウは食事の魂について長々と語り、ランガはリムルの足元で尻尾を振る。そしてシオンが黒くて謎めいたものを持って乱入し、それが食べ物だと主張する。テーブルはいつも通りの大混乱。
リムルは毎日心の中で思う。「俺は魔王なんだぞ?」
これはテンペストのごく普通の日々を記録した物語。ゴブタは町で迷子になり、ゴブゾ部隊は迷子の子供と勘違いした優しい人々に助けられる。ミリムが訪れては何かを壊す。ガビルはカッコよく登場しようとするが毎回失敗。クモ子は夜中にこっそりと何かを作り、朝には城の廊下に新たな謎の罠が仕掛けられている。
最大の問題はシオン。リムルを助けたいという気持ちは本物だが、料理はひどく、書類仕事はめちゃくちゃで、力が強すぎてドアを壊しまくる。リムルは毎日「ありがとう、シオン」と言いながら、内心では静かに泣いている。
ある日、リムルはひらめく。「テンペストの観光パンフレットを作ろう!」自分たちの故郷の素晴らしさを他国
リムルさんちの大家族日記 - 温泉でつかまった!ゴブジイの話は終わらない
ごった煮広場での撮影から一夜明けた火曜日の朝、リムルはシオンと並んでテンペスト城を出た。
目的地は中央都市の東、徒歩で三キロほどの場所にあるテンペスト温泉郷——通称「癒しの湯」だ。地下の魔素脈が温泉を湧き出させており、回復効果があると評判で、外国人観光客にも少しずつ知られ始めている場所だ。今日はパンフレット用に温泉郷の写真を撮るのが目的だった。
リムルの足もとにはランガがいた。漆黒の体毛をふわりとなびかせながら、ぴったりとリムルの横を歩いている。しっぽがゆっくりと左右に揺れていた。
朝の森の空気は気持ちいい。大森林の木々の間から差し込む光が、足もとの草を明るく照らしている。遠くから鳥の声が聞こえた。
「[excited]今日こそ完璧な写真を撮りますわ!」
シオンが真紅の長髪を揺らしながら、両手でカメラをきゅっと握った。
リムルはちらりとそのカメラを見た。
「[gentle]力加減は大丈夫か?」
「……気をつけますわ」
シオンは少しだけ顔を赤くして、カメラをふわりと持ち直した。昨日のことがあるから、今日は特に慎重らしい。
まあ、そこは信じるしかない。
温泉郷に近づくにつれ、ほんのり硫黄のにおいが漂ってきた。木々の隙間から白い湯気がちらりと見える。足もとの道が石畳に変わり、左右に竹を編んだ柵が現れた。
「[excited]来た来た! 雰囲気いいな」
温泉郷の正門は木造の小さな門で、「癒しの湯」と書かれた看板がぶら下がっていた。その前に小さな管理棟がある。
リムルがそっと管理棟の扉を開けたときだった。
「おお! よく来た、よく来た!」
声が、飛んできた。
管理人のゴブジイ——推定年齢百八十歳のゴブリン族の老人——が、丸椅子からよいしょと立ち上がって手を振っていた。腰が少し丸まっていて、頭の角はすっかり白い。顔の皺は深くて多い。でも目だけがやけにいきいきしていた。
「魔王様直々に来てくださるとは光栄でございますな! さあさあ、こちらへ」
ゴブジイがにこにこしながら管理棟の長椅子を示した。リムルとシオンは顔を見合わせてから、揃って腰を下ろした。
「[gentle]ゴブジイさん、今日は取材の許可をいただきたくて——」
「許可はいくらでも! でもその前に、この温泉のことをちゃんとご説明しないといけませんな」
ゴブジイが腕を組んで、にっこり笑った。
「この温泉の歴史はな、百年前にさかのぼるんですよ。百年前というのは……」
リムルは姿勢を正して聞き始めた。最初は礼儀正しく。うん、うん、と相槌を打ちながら。
——十分が過ぎた。
「……それでそのときの泉質がですな」
——二十分が過ぎた。
「硫黄成分というのは実に興味深くてですな」
——三十分が過ぎた。
「そのときの管理人が私の師匠でしてな」
リムルは笑顔のまま、内心でぺたんと倒れた。
(終わらない……!)
話が面白くないわけじゃない。ゴブジイの話はちゃんと筋が通っていて、温泉の歴史も本当に深い。ただ、止まらない。一個の話が終わったと思ったら「そうそう、それと関係があってですな」とすぐ次の話が続く。
リムルが「そろそろ中を——」と口を開こうとしたその瞬間。
「[gentle]そうそう! 魔素脈の話をしましたが、これは実はですな」
完璧なタイミングで話を繋がれた。
(うまいな!)
シオンがそっとリムルの袖を引いた。
「[whispers]リムル様、そろそろ……私が割り込みますわ」
リムルはほっとした。さすがシオン、助かる。
シオンが身を乗り出した。
「[serious]ゴブジイさん、少しよろしいですか——」
ゴブジイがシオンを見た。目がきらきらした。
「おお! 鬼人族のお方ですな! 実はですな、鬼人族と温泉の関係というのが非常に深くてですな」
シオンの体が、ぴたりと止まった。
「鬼人族の方々は体温が高いため、泉質への感受性が——」
リムルはシオンを見た。シオンはリムルを見た。二人の目が合った。
二人揃って、静かに前を向いた。
(……完全に捕まった)
ランガは二人の足もとで丸くなって、しっぽをぱたぱたと動かしていた。ランガだけが自由だった。
そのランガの鼻が、ぴくりと動いた。
湯気のにおいが、管理棟まで流れてくる。ほんのりとした温かい硫黄のにおい。
ランガの耳が立った。
(ランガ……?)
リムルが気づいたときには、ランガはすでに動いていた。
すっと影から抜け出して、温泉郷の奥へ向かって駆け出す。漆黒の体毛が風を切る。真っ直ぐ、ためらいなく、温泉郷最大の露天風呂——東屋の屋根がついた大きな岩風呂——に向かって、全速力で走っていた。
「[scared]ランガ!!」
ゴブジイの話が、初めて中断した。
ドボォォォン!!
嵐星狼が露天風呂に飛び込んだ音は、温泉郷全体に響き渡った。
次の瞬間、湯船からものすごい波が発生した。岩風呂の縁を超えて湯がざばざばと溢れ出す。温泉に入っていたゴブリン族のおじさんたちが「わーっ!」と叫んで飛び出してきた。
ドゴン!!
木製の柵が根元からごっそり吹っ飛んだ。丁寧に組まれた竹製の囲いが、まるごと一面、空中を舞う。
「なんだなんだ!?」
「うわっ柵が!!」
ゴブリン族のおじさんたちが腰に手ぬぐいを巻いたまま右往左往している。どこからともなく修繕係が二名現れて、吹っ飛んだ柵を抱えて走り始めた。
その混乱の中で。
ランガはお湯の中で気持ちよさそうに浮かんでいた。しっぽがゆらゆら揺れている。満足げな顔をしていた。
リムルはゴブジイの話を中断して露天風呂まで駆けつけ、謝り倒した。修繕係に「今月の修繕費、お城が持ちます」と伝え、濡れたおじさんたちに「本当にすみません」と頭を下げた。
シオンも「申し訳ございません!」と隣で一緒に頭を下げた。二人の声がきれいにハモった。
ゴブジイは呆けた顔でその様子を見ていたが、やがてくっくっと笑い始めた。
「[laughing]賑やかな狼さんじゃ。温泉が気に入ったんですな」
怒っていない。なんなら嬉しそうだった。
「[sarcastic]……ゴブジイさん、本当に懐が広いですね」
「なんの、なんの。こうして賑やかになるのがまた温泉の良さというものじゃ」
ゴブジイはそう言ってにこにこしながら、修繕の様子を見守り始めた。
——そして今度こそ、リムルとシオンはゴブジイから解放された。
────
柵の修繕を見届けてから、リムルとシオンは温泉郷の端にある石の縁に並んで腰を下ろした。
近くの湯船からほんわかと湯気が上がっている。空は青くて高い。風がやさしく吹いて、湯気をゆらゆらと揺らしていた。
騒ぎが嘘みたいに静かだ。
ランガはちゃんとお湯から出てきて、今はリムルの足もとで丸まって目を閉じていた。濡れた体毛からは湯気が立っていて、なんとなく満足そうだった。
しばらく、何も言わなかった。
湯気が揺れる。遠くで鳥が鳴く。修繕係の槌の音がかすかに聞こえる。
シオンが石の縁に手をついて、空を見上げた。
「……私ね」
ぽつりと、声が出た。
リムルは横を向かずに聞いた。
「オーガ族の集落にいた頃は、強くなることしか考えてなかったんですわ」
声は静かだった。いつもの元気な感じじゃなくて、ゆっくりした話し方だった。
「戦士として強ければ、それでいい。役に立つってそういうことだって、ずっとそう思ってた。リムル様に名付けていただいて鬼人に進化してから……強さ以外の形でもお役に立てないかって、思うようになったんですわ」
リムルはシオンの横顔を見た。
金色の目が、ゆるやかに空を見ていた。
「でも料理を作ったら食べられないものができて、書類を整理したら逆に混乱して、カメラは握りつぶすし、大根は踏むし」
シオンは笑った。ちゃんと笑っていた。でも目の端がほんの少し、うるんでいた。
「ずっと悔しかったんですわ」
リムルは前を向いた。湯気がゆれている。
少しだけ黙った。言葉を選んでいたわけじゃない。ただ、ちゃんと言いたかっただけだ。
「シオンの一生懸命さは、俺にとって一番の力だよ」
飾り気のない言葉だった。
シオンがぴたりと止まった。
リムルは続けた。
「カメラ壊しても、大根踏んでも、全力でやってるのは本当だろ。あの写真、子どもたちが集まったの、シオンが声をかけたからじゃないか」
「……それは」
「俺には真似できないな」
シオンは黙った。
一秒、二秒。
ゆっくりと、その耳まで赤くなっていった。真紅の髪と同じくらいの色になって、シオンはぷいとそっぽを向いた。
「[serious]……そういうことは、いきなり言わないでくださいますか」
「[sarcastic]……いや、思ったこと言っただけだけど」
「いきなりですわ!」
「いきなりじゃないだろ」
「いきなりですわ!!」
リムルはシオンの赤い耳を見て、苦笑いした。どぎまぎした気持ちは正直あった。でも、深追いする気にもなれなくて、前を向いた。
湯気がゆれている。ランガのしっぽがぱたぱたと動いた。
悪くない午後だった。
────
夕方、二人はシュナの織物工房を訪ねた。
城から西へ徒歩十分の二階建ての建物で、一階には大型の織機が四台並んでいる。染色の甘い匂いが漂っていた。
シュナは桜色の髪を結い上げたまま、一階の作業台の上にパンフレットのデザイン案を広げていた。
「お疲れ様でした。見てください」
穏やかな声だった。リムルはシュナの隣に並んで、紙を覗き込んだ。
温泉郷の写真が並んでいるページ。市場で笑っている住民たちの写真。子どもたちの笑顔。丁寧にレイアウトされていて、文字の配置も整っている。
「[surprised]……すごい。ちゃんとテンペストっぽい」
「シュナの写真の並べ方、上手ですわね」
シュナは少し嬉しそうな顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。
「でも、まだ足りないものがあります」
「[serious]足りない?」
「テンペストの強さを見せる写真素材が全くないんです。住民の笑顔や温泉は撮れましたが、この国が安全だということを伝えるには……力強さの部分も必要かと」
リムルは腕を組んだ。
強さ、か。確かに、パンフレットが全部ほのぼのした写真だけじゃ、外の国の人たちには「本当に安全なの?」って思われるかもしれない。テンペストがちゃんと守られた国だってこと、見せる素材がほしい。
「[serious]……ベニマルに頼むか」
幹部の中でも特に戦闘に長けた鬼人、ベニマル。あいつが訓練している場面でも撮れたら、強さの説得力が出る。
シュナが「それがいいと思います」と頷いた。
その時だった。
シュナの目が、すっと工房の壁の方を向いた。
「……リムル様」
声が低くなった。
「[serious]どうした?」
シュナが壁を指さした。
一枚の紙が貼られていた。
リムルは近づいて、剥がして、読んだ。
——おまえたちが見せたい姿は、本当のテンペストか? 嘘のパンフレットなど作るな。
書き方が同じだった。最初の食堂の掲示板に貼られていた手紙と、同じ紙、同じ文字だった。
「[serious]いつの間に……工房には鍵をかけていたのに」
シュナが声を低くした。普段の穏やかさが、すっと後ろに引いた。
シオンの金色の目が細くなった。
「[angry]誰が……城の中を自由に動き回れる人間が、これを貼ったということですわね」
リムルは手紙を持ったまま、壁を見た。
施錠されていた工房の中に、いつの間にか入り込んで、紙を貼って、出ていった。音もなく、痕跡もなく。
ソウエイに調査を頼んでいる。でも、まだ答えは来ていない。
(テンペストの中に、自由に動ける誰かがいる)
リムルは手紙を丁寧に折りたたんで、ポケットにしまった。
「[serious]シュナ、今夜から工房の鍵を変えてくれるか。ソウエイにも今日中に伝える」
「[gentle]わかりました」
工房の外に出ると、夕暮れの空が橙色に染まっていた。大森林の木々のシルエットが、遠くで暗くなり始めている。
三人は並んで城への道を歩いた。ランガが足もとを静かについてくる。
リムルはポケットの中の手紙を、指でそっと確かめた。
嘘のパンフレットなど作るな——
本当のテンペストって、何だ。
それを一番知っているのは、自分のはずだった。でも、今は少しだけ、その言葉が引っかかっている。
次はベニマルのところに行かないといけない。そして手紙の主を、突き止めないといけない。
課題が二つ、はっきりとリムルの頭の中に残った。
夕日が、テンペストの街並みを赤く照らしていた。