リムルさんちの大家族日記
テンペストは今日も平和。たぶん。
毎朝、魔王リムルは同じことでため息をつく――それは「朝食会議」。シュナは和食を提案し、ベニマルは味見を始め、ソウエイは一言で片付け、ハクロウは食事の魂について長々と語り、ランガはリムルの足元で尻尾を振る。そしてシオンが黒くて謎めいたものを持って乱入し、それが食べ物だと主張する。テーブルはいつも通りの大混乱。
リムルは毎日心の中で思う。「俺は魔王なんだぞ?」
これはテンペストのごく普通の日々を記録した物語。ゴブタは町で迷子になり、ゴブゾ部隊は迷子の子供と勘違いした優しい人々に助けられる。ミリムが訪れては何かを壊す。ガビルはカッコよく登場しようとするが毎回失敗。クモ子は夜中にこっそりと何かを作り、朝には城の廊下に新たな謎の罠が仕掛けられている。
最大の問題はシオン。リムルを助けたいという気持ちは本物だが、料理はひどく、書類仕事はめちゃくちゃで、力が強すぎてドアを壊しまくる。リムルは毎日「ありがとう、シオン」と言いながら、内心では静かに泣いている。
ある日、リムルはひらめく。「テンペストの観光パンフレットを作ろう!」自分たちの故郷の素晴らしさを他国
リムルさんちの大家族日記 - がらんどうの食堂と、ゴブタのとぼけた一言
昨日の夜、屋上に一人で立ったまま、リムルはなかなか眠れなかった。
工房の床に散らばった写真の破片。ゴブゾーの後ろ姿。ベニマルとシオンの怒鳴り声が石壁に響いていた記憶。それが頭の中でぐるぐると回り続けた。
そして木曜日の朝が来た。
────
テンペスト城の大食堂——一階の、長テーブルが三卓並ぶあの場所——に、リムルは一人で座っていた。
椅子の脚が石畳に当たる音。遠くで誰かが廊下を歩く足音。それだけだった。
いつもは違う。
シオンが厨房から「リムル様! 今朝は特製スープを作りましたわ!」と叫びながら、なぜか毎回扉を勢いよく開ける。シュナが「シオン、そのスープは昨日から煮込みすぎてます」と静かにフォローを入れる。ベニマルが「飯の話より今日の訓練の話をしろ」と腕を組んで椅子に座る。ランガが足もとでしっぽをぱたぱたさせながら、誰かがこぼした食べ物を狙っている。
毎朝そういう場所だった。
今日はシオンがいない。昨日のことで、自分のせいで迷惑をかけたと落ち込んでいるらしい——ソウエイからそう聞いた。ベニマルは自室にこもっている。シオンと顔を合わせたくないのだと、こっちはランガが嗅ぎつけてきた情報だ。シュナは工房の片づけ中。ソウエイはゴブゾーの動向調査で夜明け前から動いている。
全部の席が空っぽだ。
シオンがご飯を盛りすぎて毎回こぼす場所。ベニマルが腕を組んで座るいつもの位置。シュナが料理を並べながら「このレイアウトはどうでしょう」と言い出す場所。全部そのままで、誰もいない。
(こんなに静かだったっけ、ここ)
リムルはスープを一口飲んだ。シュナが早朝に作り置きしておいてくれたものだ。ちゃんとおいしい。でも味がよくわからなかった。
そこへ足音が一つ。
定刻通りだった。
白髪を結い上げた老人が、背筋をぴんと伸ばしたまま入ってきた。ハクロウだ——テンペスト幹部の中でも特に年長の剣士で、城での教育と礼儀作法を一手に担っている人物。静かな目をしていて、怒るときは低い声で怒る。その分、怒られると妙に応える。
ハクロウは椅子を引いて、音を立てずに腰を下ろした。それから背筋をもう一度正して、リムルを見た。
「[serious]リムル様。朝の食事というものは、一日の礎でございます」
「[gentle]……そうだな」
「椅子の引き方から始まり、箸の持ち方、汁物をいただく順番——これ一つ一つに、その者の品格が表れます」
「うん」
「特に幹部の立場にある者は、食卓での振る舞いが下の者の手本となります。姿勢を正すことが、一日の始まりと心得よ、と申します」
「そうだな」
ハクロウの声だけが食堂に響いている。
リムルは返事をしながら、長テーブルの向こうの空いた席を、一つずつ見ていた。
シオンの場所。ベニマルの場所。シュナの場所。
全部空っぽだ。
「リムル様、今日は反応がいつもより素直でございますな」
ハクロウが満足そうにうなずいた。
(……素直なんじゃなくて、上の空なんだけど)
リムルはそれを口には出さなかった。ハクロウは悪くない。ハクロウは毎日ちゃんとここに来て、ちゃんと座って、ちゃんと話している。それだけで十分だった。
────
朝ごはん会議——と呼んでいいのか今日のこれをそう呼んでいいのかわからないが——が終わって、リムルは執務室に移った。
二階の執務室は窓から中央広場が見える。朝の光が差し込んで、書類の山を照らしている。机の上にはシオンが持ってきた三文字の原稿、市場で撮った写真の控え、シュナのデザイン案の切れ端が散らばっていた。
昨日の夕方、全部破り捨てられた後の残りだ。
リムルは椅子に座って、それらを見ていた。
「[cold]リムル様」
声もなく、影から人が現れた。
ソウエイだ——黒い服に黒い長髪、どこから来たのかわからない立ち方をする諜報部隊の長。表情がほとんどない。でも目だけは常に何かを見ている。
「[serious]ゴブゾーの件、続報がある」
リムルは前を向いた。
「話してくれ」
「今朝、中央市場——ごった煮広場の人通りの多い場所に立って、演説を再開している。内容は昨日と同じだ。テンペストは魔王の自己満足の道具ではない、リムル様は住民の声を聞いていない——それを繰り返している」
リムルは黙って続きを待った。
「昨日よりも足を止める住民が増えている。加えて——パンフレットは中止になったという噂が、市場に流れ始めている」
「……中止って、俺はそんなこと言ってないぞ」
「噂は事実を問わない」
一言だけ言って、ソウエイは音もなく消えた。
執務室にリムルだけが残った。
机の上の切れ端を見る。子どもたちの笑顔が写った写真の残り。シュナが丁寧にレイアウトしたデザイン案の端っこ。全部、昨日まではちゃんと揃っていたものだ。
パンフレットを作ろうと言い出したのは俺だ。
外の国にテンペストを知ってほしかった。この街の良さを伝えたかった。それだけのつもりだった。でも——
(俺は、住民に話を聞いたか?)
聞いていない。
シュナに頼んだ。シオンに頼んだ。ベニマルに頼んだ。幹部たちに全部任せて、一般の住民の声は、ゴブゾーが演説し始めて初めて知った。
(それで、みんなのための国だって言えるのか)
リムルはゆっくりと、机に額を押しつけた。
ドスン。
静かな音が執務室に響いた。それだけだった。
────
どのくらいそうしていたか。
コン、と控えめな音がした。
ノックじゃない。もっと遠慮のない感じで、扉がそっと開く音だった。
リムルが顔を上げると、扉の隙間からゴブリンの顔が覗いていた。ぱちぱちした目。少し間抜けな笑顔。
ゴブタだ。
ゴブタはテンペストの住民の中でもとりわけ顔の広い——というか、どこにでも迷い込む——ゴブリンで、リムルに名付けてもらったホブゴブリンの一人だ。背は低くて、いつもちょっとへらへらしている。でも市場のおばちゃんたちには妙に好かれている。
「[gentle]あの、市場から城まで来ようと思ったんですけど」
ゴブタが頭をかきながら言った。
「[gentle]気づいたら、ここの部屋に迷い込んでいまして」
リムルはため息をついた。
「[sarcastic]……また迷子か」
「迷子というか、来たかった方向には来てるんですけど、部屋が違うというか」
いつものことだった。ゴブタは城の構造を覚える気が一切ない。月に三回はどこかの部屋に迷い込んでいる。
リムルが頭を机から離すと、ゴブタがリムルの顔をじっと見た。
「[surprised]リムル様、なんか元気ないっすね」
「[sarcastic]……なんでもない」
「でも顔が暗いっす」
「しょうがないだろ、色々あって——」
「[gentle]あ、そういえば」
ゴブタが急に別の方向を向いた。
「今朝、市場のおばちゃんたちが話してるの、たまたま聞いたんですけど」
リムルは黙って続きを待った。
ゴブタは特に深い意味もなさそうな顔で、ぽつぽつと話した。
「なんか、リムル様のことが嫌いになったわけじゃないって言ってたっすよ。ただ、外から人がたくさん来たら今の生活が変わるのが怖い、みたいな。だって今の生活が好きだから、って」
────
リムルは顔を上げた。
ゴブタはそれ以上何も言わなかった。ただ「そういう話をしてたっす」という顔で、ぼんやりと立っていた。
(……嫌いじゃない)
(変わるのが怖いだけ)
(今の生活が好きだから)
その言葉が、胸の真ん中にすとんと落ちた。
リムルは少しの間、黙っていた。
今朝、食堂でハクロウの声だけが響いていたあの静けさ。誰もいない長テーブル。シオンのいつもの席。ベニマルのいつもの場所。シュナの場所。
うるさくて毎朝困っていた。カオスで、誰かが何かをこぼして、誰かが何かを言い出して、収拾がつかない。そういう朝ごはん会議が、今日は静かで——こんなに寂しかった。
(俺も同じだ)
あの食堂が変わるのが怖かっただけだ。ゴブゾーが守りたかったものも、住民が怖がっていたものも、きっと同じ種類のものだ。
そしてパンフレットに載せるべきものも——立派な写真でも格好いい文章でもなくて、あの食堂のカオスそのものだ。シオンがご飯をこぼす場所。ベニマルが腕を組んで座る位置。ゴブタが市場で迷子になる話。ゴブジイが一時間話し続ける温泉郷。ランガが温泉に飛び込んで柵を吹っ飛ばす午後。
そういうものだ。
リムルは立ち上がった。
「[surprised]え、邪魔でしたか!?」
ゴブタが慌てて後退りした。
「[gentle]違う違う。助かった」
「え」
「市場に戻れるか?」
「た、たぶん……まっすぐ出口に向かえば」
「[sarcastic]まあ、しょうがないな。一緒に出よう」
ゴブタはよくわかっていない顔のまま、ぽかんとしていた。
────
ゴブタを城の出口まで送り届けてから、リムルは執務室に戻った。
机の上のシオンの原稿——あの三文字——を手に取る。クシャクシャになりかけていたそれを、丁寧に伸ばして、胸ポケットにしまった。
窓の外、中央都市の街並みが朝の光の中に広がっている。魔素灯がまだほんのり光っていた。市場の方からゴブリン族の子どもたちの声が聞こえてくる。
やることは二つだ。
まずゴブゾーのところへ行く。話を聞く。押しつけるんじゃなくて、ちゃんと聞く。
次にベニマルとシオンを同じ場所に呼び出す。どうやって呼ぶかはまだわからない。あの二人が意地を張ったままじゃ、話にならない。
どちらも簡単じゃないのはわかっていた。ゴブゾーは頑固だ。昨日だって後ろを向いたまま立ち去った。そしてベニマルとシオンが同じ空間に揃ったら、また何かが爆発する可能性が十分ある。
(まあ、しょうがないな)
リムルは小さくつぶやいた。今度は虚ろじゃなかった。
ドアを開けた瞬間——
「[serious]リムル様。先ほどの話の続きがございまして」
廊下でハクロウが待ち構えていた。背筋が完璧に伸びている。目がやる気に満ちている。
リムルは一秒だけ固まった。
「[gentle]ハクロウ、また後でな」
そのまま足早に歩き出した。
足もとで黒い影がひゅっと動いた。
ランガだ。漆黒の体毛をふわりとなびかせながら、しっぽをぱたぱたと振って隣を走り始める。
ハクロウの「リムル様——」という声が廊下に残った。
リムルは振り返らなかった。ランガがぴったりと横についてくる。城の外に出ると、朝の空気が冷たくて気持ちよかった。
ごった煮広場はそこから南へ徒歩五分。ゴブゾーはまだあの場所に立っているはずだ。