雨が、降っていた。 灰色の空から、冷たい滴が途切れることなく落ちてくる。 イリス・クロムウェルは、半壊した旧ゼルヴィア第7研究施設の地下壕で、膝を抱えて座っていた。周囲にはひび割れたコンクリートと、ねじ曲がった鉄骨。壁一面に這う黒い染みは、かつてここで何が行われていたのかを、無言のうちに物語っている。 彼女の細い指が、首筋から鎖骨にかけて走る有機的な瘢痕に触れた。実験の名残だ。それは冷たく、時折ずきずきと疼く。戦場生命体計画——プロジェクト・ティターン。自分を生み出し、この大地全てを喰らい尽くした禁忌の計画。 アメジストのように輝く切れ長の瞳が、薄暗がりの中で揺れた。目の下の隈が、彼女の疲弊を隠しきれていない。 (また、あの夢を見た) 目を閉じれば、決まって思い出す。白衣の男たち。注射針の冷たい感触。ガラス越しに見える培養槽の中で、自分と同じ顔をした何かが浮かんでいた。彼らは「ZVN-07-IRIS」と、機械のように彼女を呼んだ。 イリスは左腕に刻まれた焼印を見下ろす。 ZVN-07-IRIS。 兵器としての識別コード。決して名前ではなかった。 「……寒い」 自分の声が、空洞になった地下壕に吸い込まれていく。彼女は濃紺のパイロットスーツの上から自分の肩を抱いた。左肩から背中にかけて焼き付けられた旧ゼルヴィア軍の識別マークが、布越しに感じられる。 頭上のハッチから、雨水が滴り落ちてきた。 ぽたん、ぽたん、と。 その規則的な音だけが、この廃墟にある全てだった。 十八年。 彼女はこの禁忌区域——旧ゼルヴィア共和国全土を飲み込んだグラオザーム禁忌区域で、ただ一人で生き延びてきた。実験体として生まれ、実験体として育てられ、そして国が滅んだ後も、兵器として戦い続けている。 ふと、彼女は顔を上げた。 地下壕の奥に、ガーベラ・テトラが鎮座している。全高およそ十九メートルの深紅の強襲用モビルスーツ。その装甲表面には、まるで血管のように有機的な紋様が浮かんでいた。今は休眠状態で、紋様は淡く、ゆっくりと脈打つだけだ。 イリスは立ち上がった。 小柄で華奢な身体。しかし、その動きは野生動物のようにしなやかで、無駄がない。彼女はワイヤーケージに足をかけ、機体のコックピットへと這い上がった。首元に埋め込まれたリンクハーネスの接続端子が、かすかに疼く。 ハッチを開ける。 座席に身体を滑り込ませ、ヘルメットを被る。後頭部と頸椎の端子が、かちり、と音を立てて接続された。 瞬間、世界が変わる。 ガーベラ・テトラの感覚器が、彼女の神経と直結する。機体の外側の空気の冷たさが、自分の肌で感じているかのようだった。ヘッドマウントディスプレイに、周囲の地形データや警戒情報が流れ込む。 「おはよう」 イリスは呟いた。機体に向けて。あるいは、自分自身に向けて。 ガーベラ・テトラの頭部バイザーが、紫から深紅へとゆっくり変化する。彼女の感情に反応しているのだ。今はまだ静かだ。穏やか、とは言えないが、少なくとも戦闘状態ではない。 イリスはコンソールに手を置いた。 この機体だけが、彼女の全てを理解していた。彼女が怒れば機体は凶暴になる。悲しめば動きが鈍り、決意すれば驚異的な反応速度を見せる。まるで彼女の内面を映す鏡。ただ一つの、半身。 (私が人間か、兵器か) その問いは、何年も前から彼女の中でぐるぐると回り続けている。答えは出ない。出るはずもなかった。 自分の手を見た。細く、白い指。パイロットスーツに包まれた両腕。その先に、どれだけの血がこびりついているか、彼女自身が一番よく知っている。 侵入者は、全て排除する。 それが彼女のプログラムであり、生きる意味だった。禁忌区域の奥に眠る「機神のコア」を求めてやって来る各国の調査隊。彼らは皆、この土地の秘密を暴こうとし、そして大地に喰われる。あるいは——彼女に殺される。 突然、警報が鳴った。 ヘッドマウントディスプレイの端に、赤い警告表示が点滅する。 【未確認機影 3機 方位2-7-0 距離15km 外縁帯「灰の回廊」接近中】 イリスの紫がかった灰色の瞳が、すっと細められた。 「……またか」 彼女の感情の変化に呼応して、ガーベラ・テトラの装甲紋様が、より鮮やかに脈動を始めた。バイザーの色が、深紅へと変わる。 機体が、戦闘準備に入ったのだ。 --- ヴァルトレン連邦特務調査局「シュヴァルツァー・ハント」の調査隊は、緊張に包まれていた。 フィールドダイバー五名と、護衛のモビルスーツ三機。汎用型の「ディアマンテ」と呼ばれる機体たちは、煤けた灰色の装甲を雨に濡らしながら、旧ゼルヴィアの国境防衛線の残骸——通称「ラストウォール」を越え、灰の回廊へと足を踏み入れていた。 「ったく、死体みてえな景色だな」 護衛隊の隊長機から、通信が入る。パイロットはベテランのフィールドダイバー、ヴィルヘルム。ヴァルトレン連邦の中でも、禁忌区域の調査に三回以上生還した数少ない生存者の一人だ。 「黙って進め。ここから先は、何が起きてもおかしくない」 もう一人のパイロット、若いオスカーが応じた。まだ二回目の潜入で、声には明らかな緊張が滲んでいる。 「生還率3%だっけ。俺たち、よくもまあ来るよな」 「国が金を出すからだろ。ゼル鋼の破片一つで、お前の年収の二十年分だ」 ヴィルヘルムの言葉に、オスカーは乾いた笑い声を漏らした。 地表は灰色の泥と化した土壌で覆われ、ところどころに腐食した対空砲台や大破した旧型MSの残骸が転がっている。雨がそれらを叩き、錆びた鉄の匂いを空気中に拡散させていた。 不意に、地面が蠢いた。 泥の中から、何かが這い出てくる——いや、泥そのものが、意思を持ったかのように動いている。 「……なんだ?」 先頭を歩いていたフィールドダイバーの一人が足を止める。 次の瞬間、彼の右足がずぶり、と地面に沈んだ。 「うわっ!」 「引っ張り出せ!」 仲間たちが慌てて手を伸ばすが、沈む速度は加速する。まるで大地が、獲物を咀嚼するかのように。数秒のうちに、ダイバーの身体は肩まで泥に飲まれ、そして——沈黙した。 地面は再び、平らな灰色の泥に戻る。 「……消化孔だ。気をつけろ」 ヴィルヘルムは冷たく言い放った。オスカーの顔面が蒼白になる。 「吸い込まれた奴は、どうなるんです?」 「さあな。数時間後には、大地の一部になってるだろうよ」 禁忌区域の本質が、そこにあった。この大地は生きている。プロジェクト・ティターンの暴走が生み出した擬似生命——グラオザーム。土壌も、空気も、廃墟も、すべてが有機ネットワークの一部。侵入者を感知し、誘い込み、消化する。 「目標地点は旧ゼルヴィア第7研究施設付近です。機神のコアに関するデータが残っている可能性がある」 後方に控えていた分析官が通信で告げる。 オスカーは唾を飲み込んだ。機神のコア。それを手に入れれば、大陸の軍事バランスが一変する——ヴァルトレン連邦はそう信じている。だからこそ、これだけの犠牲を払ってでも調査を続けるのだ。 だが。 「……隊長、前方に熱源反応。高速で接近中です」 「なに?」 ヴィルヘルムがディスプレイを確認する。レーダーに映る単一の機影——信じられない速度で、こちらに向かってきている。 「まさか、あれか」 彼の声が、初めて震えた。 「赤い死神……」 --- イリスはガーベラ・テトラのスラスターを全開にし、廃墟の合間を縫うように飛翔していた。 雨がバイザーを叩く。機体の深紅の装甲が、灰色の風景の中で異様に映える。 バイザー越しに見える敵影——三機のディアマンテ。ヴァルトレン連邦の量産型MSだ。彼女は通信を全て遮断していた。相手の声を聞きたくなかった。相手の顔を見たくなかった。 (敵) 自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。 (排除する) それだけの存在だ。それ以上でも以下でもない。彼らは兵器の部品であり、解体されるべき対象でしかない。 「……始める」 彼女は操縦桿を握りしめた。 ガーベラ・テトラが、跳躍する。 通常のMSでは信じられない加速。プロジェクト・ティターンの過程で開発された試作機の性能は、現代の量産機を二世代は凌駕している。機体が一瞬で敵の眼前に肉薄した。 「な——」 先頭のディアマンテのパイロットが、声を上げる間もなかった。 ガーベラ・テトラの右腕に装備されたビームサーベルが、一条の紅い閃光を引く。それが機体の腹部を貫き、装甲を溶かし、核融合炉を両断した。 爆発。 一機目が、火球と化して四散する。 「くそっ! 散開しろ!」 ヴィルヘルムが叫ぶが、ガーベラ・テトラの動きは止まらない。爆炎の中から飛び出し、空中で機体を捻りながら二機目の背後を取る。左腕のシールドを打ち込み、バランスを崩した所に、膝蹴りを叩き込んだ。 コックピットがひしゃげ、パイロットの悲鳴が一瞬だけ漏れる。 ビームライフルの銃口が、その機体の頭部に押し付けられた。 発射。 閃光。 爆発。 「お、オスカー! 下がれ! 早く!」 ヴィルヘルムの声が通信に響く。しかし、生き残った最後の一機、オスカーの機体は恐怖で硬直していた。 ガーベラ・テトラが、ゆっくりと振り返る。 バイザーが、深紅の輝きを放つ。 イリスはオスカーの機体に照準を合わせた。人差し指がトリガーにかかる。 その時。 「……た、助けて」 オスカーの通信が、一瞬だけ彼女の受信機に入り込んだ。通信遮断の隙間を縫った、偶発的な混線だ。 若い声。 まだ、二十歳にもなっていない。 イリスの手が、震えた。 コックピットの中で、彼女は自分の人差し指を見つめる。トリガーから一センチも離れていない。ほんの少し力を込めれば、それで終わる。 (敵だ。殺せ) 頭の中で、戦闘プログラムが囁く。 (お前は兵器だ。躊躇するな) だが——あの声。 私と同じだ。 そう思った瞬間、彼女の胸の奥で、何かが悲鳴を上げた。 殺したくない。 (やめてくれ……これ以上、私の手を汚させないでくれ) 彼女の感情の動揺が、ガーベラ・テトラの機体制御に伝播する。装甲表面の有機的紋様が不規則に明滅し、機体がぐらり、と揺れた。 ビームサーベルの輝きが、一瞬だけ不安定になる。 「今だ!」 ヴィルヘルムが、その隙を突いて突撃してきた。ビームライフルの斉射。イリスは反射的に回避するが、反応が遅れた。一発が左肩の装甲をかすめ、火花が散る。 「いける! こいつ、動きが鈍っ——」 瞬間。 大地が、吠えた。 轟音と共に、地面が裂ける。撃破されたディアマンテ二機の残骸が、まるで底なし沼に沈むように、地中へと引きずり込まれていく。 「なんだ!? なにが起きて——うわあああっ!」 ヴィルヘルムの機体も、蠢く大地に足を取られた。泥がまるで触手のように機体に絡みつき、装甲を腐食させながら引き摺り下ろす。 グラオザームだ。 禁忌区域の大地そのものが、侵入者を喰らおうとしている。 「いやだ、いやだ、死にたくない——」 オスカーの悲鳴が、通信に響く。彼の機体もまた、泥の海に飲み込まれようとしていた。 イリスは、その光景を呆然と見つめていた。 ガーベラ・テトラは無事だった。この機体は、大地の意思から認識されない——あるいは、認識されているからこそ、攻撃されないのかもしれない。 骨が砕ける音。 金属がひしゃげる音。 肉が潰れる音。 それが、数分続いた。 そして——静寂。 雨だけが、降り続けている。 調査隊は全滅した。五人のフィールドダイバーと、三人のパイロット。残骸は全て地中深くに引きずり込まれ、大地の養分となるだろう。 イリスはコックピットの中で、両手を顔に押し当てた。 震えが、止まらない。 (私は……私は……) 唇を噛む。血の味がした。 殺した若い兵士の声が、耳の奥でこだましている。 『助けて』 助けてあげられなかった。いや、殺そうとしたのは自分だ。 (私は、兵器だ) 自分に言い聞かせる。そうでなければ、正気を保てない。 でも。 (あの声を聞いて、手が震えた) それは、兵器の反応じゃない。 彼女は、翼のように折りたたまれた自分の膝に、額を押し付けた。深紅のコックピットの中で、細い身体が折れそうなほど縮こまる。 どれだけそうしていただろうか。 ふと、彼女は顔を上げた。 外部カメラの映像が、ディスプレイに映っている。 廃墟の一角——崩れかけた旧研究施設の壁の隙間から、一輪の白い花が咲いていた。 こんな灰色の世界で。 血と泥にまみれた死の大地で。 たった一輪。 イリスは、ガーベラ・テトラの右手をゆっくりと動かした。巨大な鋼の指が、その花に近づく。花を摘もうとしたのではない。ただ、そっと、その周りを囲った。 まるで、守るかのように。 「……きれいだ」 彼女は呟いた。 十八年間、この地獄で生きてきて、初めて口にした言葉だった。 ガーベラ・テトラの装甲紋様が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、紫から淡い青へと変わっていく。バイザーの光も、深紅から柔らかな紫色へ。 それは、彼女の心が——ほんの少しだけ、安らいだ証拠だった。 しかし。 遠くで、不気味な唸り声が聞こえ始めた。 大地が、また蠢き始めている。より深く、より広範囲に。グラオザームの活動が、ここ数ヶ月で明らかに活発化していた。まるで、何かを求めているかのように。 イリスの首筋の瘢痕が、ずきり、と疼いた。 (呼んでいる) そう感じた。 この大地が——母が、あるいは自分の半身が——自分を呼んでいる。禁忌区域の最深部「ティターンの胎」へと。 「……まだ、行けない」 彼女は首を振った。 行けば、きっと自分は「人間」ではなくなる。大地の一部として、完全な兵器として、取り込まれてしまう。 (それでも、私は——) 白い花を見つめる。 ガーベラ・テトラの掌の中で、それは健気に咲き続けていた。 彼女は、機体をゆっくりと後退させた。花を傷つけないように。 空は、相変わらず灰色だった。雨が、深紅の装甲を伝い落ちる。 イリスは通信回線を開き、誰に届くとも知れない周波数に、ぽつりと呟いた。 「さようなら」 聞こえるはずはなかった。それでも、言わずにはいられなかった。 死んでいった者たちへ。 自分が殺した者たちへ。 ——まだ、自分の中に残っている、人間の欠片から。 ガーベラ・テトラは、雨の廃墟へと消えていった。一輪の白い花だけが、後に残される。 大地の唸りは、まだ続いていた。