鉄の墓標に花を ―ガーベラは涙を知らない―
【鉄の墓標に花を ―ガーベラは涙を知らない―】
かつて軍事国家が推進した『戦場生命体計画』により、大地そのものが意思を持ち人を喰らう魔境と化した崩壊国家の禁域。各国の探査隊は、この地に眠る伝説の『神機核』を求め、消息を絶ち続けていた。
その死の領域で、ただひとり生き延びてきた少女がいる。紅蓮の強襲機動殻〈ガーベラ・テトラ〉と共に在る、イリス・クロムウェル。彼女こそ、その禁忌の計画から生まれた実験体だった。自らを兵器と認識しながら、人間として認められたいと渇望する矛盾。戦闘時には制御不能な戦闘本能が暴走し、自らが引き起こす殺戮に吐き気を催しながらも、侵入者を迎撃し続ける。そうする以外に、生き方を知らなかったからだ。
ある日、精鋭探査部隊を率いるエースパイロット、カイン・ラスフォードが彼女の前に現れる。蒼穹の機動殻とガーベラ・テトラは、互角の死闘を繰り広げる。だが戦いの中、カインだけがイリスの深奥の孤独を見抜き、通信越しに問いかけた。「何のために戦うんだ」と。その言葉が、凍てついた彼女の心を砕く。
敵対しながらも近づいていく二人を嘲笑うかのように、禁域の大地が蠢き始める。疑似生命体
鉄の墓標に花を ―ガーベラは涙を知らない― - 大地の呼び声、剥がれる仮面
雨が、上がった。
灰色の雲は切れ、月明かりが廃墟の隙間から白く差し込んでいる。空気は冷たく、吐く息がかすかに濁った。旧ゼルヴィア第7研究施設の崩れかけた格納庫。その隅で、イリス・クロムウェルは膝を抱えていた。
冷たい床に座る小さな体。銀色に近いプラチナブロンドのショートヘアが、月光に透けて、まるでガラスの細工のように見える。しかし、切れ長の紫がかった灰色の瞳は、じっと虚空を見つめたまま動かない。
(兵器に、涙は不要だ)
自分に言い聞かせる。十八年、そうやって生きてきた。
なのに。
頬が、まだ湿っている。カイン・ラスフォードの前で流した涙の痕だ。あの時、確かに何かが決壊した。氷のように固まっていたものが、溶けて、溢れ出した。
『お前は、人間だ』
深い森のような静けさを湛えた声が、まだ耳の奥に残っている。
「……人間、か」
呟いた声は、自分でも驚くほどか細かった。
首の後ろ、頸椎に埋め込まれたリンクハーネスの接続端子を、無意識に指でなぞる。左腕の識別コード——ZVN-07-IRIS——を、きつく握りしめた。
私は、兵器だ。
そう定義され、そのために生かされてきた。それ以外に、自分の存在価値を証明する術を知らない。戦い、壊し、壊し続けて——
「……それでも」
ガーベラ・テトラを、見上げた。
全高およそ十八メートル半。深紅の装甲が、月明かりの下で沈黙している。数えきれない戦闘痕が刻まれた機体。左肩アーマーには、旧ゼルヴィア軍の試作機識別番号『PT-X07』の刻印。無機質な機械のはずのそれは、しかし、今はまるで、呼吸を潜めているかのようだった。
私の半身。
私の唯一の理解者。
(あのパイロットは)
カイン。
(……なぜ、あんなことを)
問いかけに、答えはない。
ただ、胸の奥が、じわりと熱を持つ。戦闘の昂ぶりとも、自己嫌悪の冷たさとも違う。初めて感じる、正体不明の熱だ。
——警報。
格納庫の片隅に置かれた、通信機が鳴った。
イリスの細い肩が、ぴくりと震える。
そちらは、カインの物だった。彼がここを離れる時、連絡を取るために置いていった小型の無線機だ。
誰が。
敵の通信を傍受するための装置ではない。これは、カインが属する組織——ヴァルトレン連邦、特務調査局『シュヴァルツァー・ハント』の専用回線に繋がっている。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。迷いながら、震える指で、通信機を手に取る。
ノイズ。
そして——。
『——ザフォード。応答せよ、ラスフォード』
イリスの全身が、凍りついた。
引き金を引く直前の、静電気のような緊張が、毛穴という毛穴を刺す。違う。カインではない。これは、もっと冷たく、もっと重い声だ。
『中尉。聞こえているはずだ。応答せよ』
命令だった。有無を言わせぬ、研ぎ澄まされた刃物のような響き。
カイン・ラスフォードは、オストヴァルの前線基地にいた。
ヴァルトレン連邦最東端の要塞都市。禁忌区域へ向かう調査隊の、最終補給地点だ。彼は今、基地の一角にある通信室で、一人、壁にもたれて立っていた。
壁には、大きな戦術ディスプレイが掛けられている。旧ゼルヴィアの地図。東西約十二万平方キロメートルに及ぶ、死の領域。そのほぼ全域が、『グラオザーム禁忌区域』として赤く塗られていた。
(レオン・ヴァインベルク)
カインの深い緑色の瞳が、細められる。
通信の相手は、彼の直属の上官だ。ヴァルトレン連邦軍統合司令部、戦略情報局長。軍服に皺ひとつない、白髪交じりの銀髪をオールバックに撫でつけた男。四十二歳。国家の安全のためなら、一切の妥協を許さない冷徹な戦略家。
だが、今のカインの脳裏にあるのは、彼が「上司」であることだけではなかった。
(あの人の妻子は)
十八年前。プロジェクト・ティターンの暴走——『ティターン・カタストロフ』。推定死者千百万人以上。大地そのものが意思を持ち、人を喰らう魔境へと変貌した、あの夜。
レオンは、最愛の妻と幼い娘を失った。
国家の安全のため、と彼は言う。だがその声の奥底には、いつだって、剥き出しの憎悪が渦巻いている。戦場生命体計画に関わる、全てのものへの——根深い、個人的な憎悪が。
『ラスフォード、聞いているな?』
通信越しの声が、カインの思考を断ち切った。
「……こちらカイン・ラスフォード。聞こえています、局長」
軍人としての顔に切り替える。
『報告は読んだ。実験体ZVN-07-IRIS、コードネーム「イリス」の捕獲は困難——つまり、接触したな』
「はい」
否定はしなかった。
『単刀直入に言おう。命令を下す』
一呼吸。
通信室の空気が、一段、冷え込んだ気がした。
『実験体ZVN-07-IRISを、直ちに排除せよ』
カインの指が、わずかに震えた。自分でも気づかぬほど、かすかに。
「……排除、ですか」
『聞こえなかったか。殺せ、と言っている』
レオンの声は、驚くほど平坦だった。まるで、壊れた時計の針でも見るような口調。
「理由を、お聞きしても」
『国家の安全のためだ』
決まり文句が、叩きつけられる。
『君の報告で確信した。あれは兵器の枠組みを超えている。プロジェクト・ティターンのコアテクノロジーと、極めて高いレベルでシンクロしている可能性がある。大地そのものを活性化させる起爆剤になりかねん。だからこそ——』
声が、わずかに低くなった。
『——だからこそ、奴は、絶滅させねばならない』
冷たい。
だが、その奥で、燃えている。
氷の下の、紅蓮の炎。
妻と娘を殺したものへの、決して癒えることのない憎悪。
「……局長。俺は、個人的な復讐のために調査隊を動かすことは——」
『ふざけるな!』
レオンの声が、初めて激した。
『過去を繰り返すな、ラスフォード。お前も知っているはずだ。あの化け物が大地を目覚めさせれば、何が起きるかを。今度は、ヴァルトレンが滅びるんだぞ。妻子を失った男の、ただの憎悪と片付けるな。これは客観的な、国家存続のための判断だ』
ぐらり。
基地が、微かに揺れた。
「……地震か?」
『なに?』
レオンの問いを、無視した。カインの視線は、戦術ディスプレイに釘付けになっている。
禁忌区域を示す赤い領域の、中心部。その心拍数やストレス反応をモニターするバイタルセンサーが——跳ね上がっていた。
まるで、大地そのものが目覚めたかのように。
格納庫。
通信機から漏れ聞こえる声を、イリスは、ただ呆然と聞いていた。
排除。
絶滅。
化け物。
言葉が、耳を貫通して、ただの音になる。
(分かって、いた)
私は、そういう存在だ。
兵器。
脅威。
敵対すれば排除され、利用価値がなくなれば廃棄されるだけのモノ。
なのに——。
なぜ。
胸の真ん中が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
『実験体ZVN-07-IRISを、直ちに排除せよ』
あの命令を下した男は、間違っていない。これは、当然の判断だ。
(なのに、なぜ)
カイン。
お前は、なぜ。
私を、人間だと言った——?
ぐらり。
より大きな揺れが、格納庫を襲った。
天井から、コンクリートの破片がパラパラと落ちてくる。鉄骨が軋み、耳障りな金属音を立てた。
イリスはよろめき、ガーベラ・テトラの足に手をついた。
違う。
これは、地震じゃない。
——大地が、動いている。
「……来る」
彼女の紫がかった灰色の瞳が、戦闘を察知した獣のように細められた。
オストヴァル前線基地。
「局長、状況変化。グラオザーム禁忌区域の中心部、『ティターンの胎』のバイタル数値が、急上昇しています。外縁帯まで、あと五分で影響が到達する見込みです」
緊迫した口調で報告する。
『何だと? これまでにない規模か?』
「はい。記録上、最大の活性化です。現在、外縁帯で活動中の調査隊は三つ。シュヴァルツァー・ハントの第三班も、あの中です」
……ッ!!!
通信室全体が、激しく揺れた。
ディスプレイの映像が乱れる。ノイズ。そして——赤い警告表示が、画面いっぱいに点滅した。
【ALERT:LARGE-SCALE TECTONIC ANOMALY DETECTED——GRAOSAM ACTIVITY LEVEL:MAXIMUM】
『カイン! 直ちに全調査隊に撤退命令を——』
ぶつん。
通信が、途切れた。
禁忌区域。外縁帯『灰の回廊』。
ドォォォォン……!!!
音が、弾けた。
空気を引き裂く、異常な地鳴り。
灰色の荒野が、波打つ。
「「「うわああああ!!」」」
ヴァルトレン連邦の調査隊が、悲鳴を上げた。灰色の迷彩を施したモビルスーツが三機。倒壊したビルの脇を、撤退すべく全速力で南西へ向かう。
だが。
「逃げろ、早く——」
叫んだ、その足元で。
地面が、裂けた。
メキメキメキメキと、不協和音を立てて、幅十メートルはあろうかという巨大な亀裂が走る。次の瞬間、そこから溢れ出したもの——。
それは、触手だった。
太さは一メートル以上。黒ずんだ赤紫色の、有機的な管。表面を、無数の突起と毛細血管のようなものが這っている。まるで、巨大生物の腸が裏返しになって、地上に飛び出してきたかのようだ。
脈打つ肉塊。
触手は、最後尾を走っていたモビルスーツ——ヴァルトレン軍の制式機『ヴォルフFG』の脚部に、音もなく絡みついた。
「な、なんだこれは——ぐあっ!!」
機体が、持ち上げられる。
十八メートルの鋼鉄の人型が、まるで子供のおもちゃのように、あっけなく。
ギャリギャリギャリ!
異様な駆動音。装甲がへこみ、引き裂かれる。触手は、コックピットブロックの隙間を見つけると、細かい繊維状に分岐して、内部へ侵入した。
「ぎ、ぎゃああああ……!」
断末魔。
機体は、ぐしゃり、と音を立てて、文字通り「消化」された。
閃光。
核融合炉の臨界。爆発。
無数の破片が、まるで臓物のように、周囲に撒き散らされる。
汚い。
残酷だ。
「「「後退! 後退しろ!!! この区域はもうダメだ!!!」」」
残った二機も、パニックに陥った。無秩序に弾をばら撒きながら、拠点のある西へ向かおうとする。だが、進路を遮るように、何本もの太い触手が、地中から次々とせり上がってくる。
四方が、壁だ。
赤黒い、脈動する肉の壁。
「閉じ込められた……!!」
天を衝く、無数の触手の柱。
それは——『灰の回廊』の廃墟が、巨大な消化器官に変わっていく瞬間だった。
格納庫。
「……っ!」
イリスは、痛みに片膝をついていた。
胸が、焼けるように熱い。首筋から鎖骨にかけて走る、有機的な黒い線状の瘢痕が——脈打っている。
なぜ。
(なぜ、今になって——)
大地と、私が、共鳴している?
違う。
これは——呼んでいるんだ。
「……半身、よ」
頭の中に、直接、声が響いた。
老女のようでもあり、幼子のようでもある。無数の人間の声が、一つに重なったような、おぞましい響き。
イリスの紫がかった灰色の瞳が、恐怖に見開かれる。
「誰だ……?」
震える声で、虚空に問う。
「半身。我が半身。我が母。……戻ってくるのだ。ここはお前の子宮。ここがお前のあるべき場所だ」
違う。
私は——。
「黙れ……黙れ!!!」
彼女は、頭を抱えて叫んだ。
そんなはずはない。私は、旧ゼルヴィアの研究所で、兵器として造られた実験体だ。大地の意思などではない。私は、人間だ——!
カインが、そう言った。
今、自分を支えているのは、その言葉だけだった。
「お前の生体データは、我がコアと深く共鳴している。お前が禁忌区域で生き延びられたのは、なぜだ? なぜ、大地はお前を喰らわない? ……分かっているはずだ。お前は、我の一部。プロジェクト・ティターンの副産物として、大地の一部を分け与えられて生まれた——半身よ」
胃の底から、何かがせり上がってくる。
違う。
違う、違う、違う——。
「私は……私は人間だ……!!」
絞り出す声。
それが、精一杯の拒絶だった。
オストヴァル前線基地。
通信室のディスプレイが、消えた。
臨界したモビルスーツの爆発による電磁波が、通信網を破壊したのだ。
沈黙。
カインは、強く拳を握りしめた。
部下が、死んだ。
また、だ。
五年前と同じ。小隊を率いていながら、目の前で、部下が大地に飲み込まれるのを、ただ見ていることしかできなかった。
左頬の古傷が、疼くような錯覚に襲われる。
(イリス)
彼女は。
——その時。
「ラスフォード中尉。今の大地震は、事前に察知できなかったのか」
辛うじて復旧した音声通信から、冷ややかな声が流れ込んできた。
「……局長。第三班が、全滅しました」
「質問に答えろ。察知できなかったのか」
抑揚のない声。
カインは、自分の軍服のポケットに手を入れた。そこには、瓦礫の中でイリスと共に眺めた、白い花びらの一片が、まだ入っていた。
「……察知できませんでした。これは、外因による活性化です」
「外因だと?」
「局長。これは仮説ですが——おそらく、『触媒』が存在します。大地と共鳴し、この活性化を引き起こした何かが。場所は、旧第七研究施設跡周辺。前回の戦闘で、ごく近距離での高エネルギー反応が……」
「実験体、だな」
レオンが、遮った。
「あの女が、大地を目覚めさせた。違うか、中尉」
カインは、言い淀んだ。
「……まだ、断定は。奴も、この活性化の影響で、苦しんでいる可能性が」
「今、苦しんでいる、と。君はそう言ったな。中尉。なぜ、それが分かる? なぜ、君はあの女の状態を、まるで見てきたかのように語る?」
レオンの声が、一段、温度を下げた。
絶対零度の刃物。
「報告には無かった。前回の接触で、君は奴と、それだけ深く関わったというのか? 命令を無視して?」
「……違います。推測です」
「嘘をつくな、カイン」
声が、初めて、感情の棘を帯びた。
失望。
深い、深い失望。
「君の、その甘さが——過去、部下を殺したことを忘れたのか」
カインの身体が、硬直した。
右前腕。長袖の下に刻まれた、失った部下たちの名前の入れ墨が、熱を持つ。
「……忘れたことなど、一度もありません」
絞り出すような声。
「ならば、なぜ分からん。忌むべきは、あの大地と、それに連なる怪物どもだ。情けをかけるな。期待するな。排除しろ。それが、お前の罪滅ぼしだろうが」
罪滅ぼし。
「今すぐ、禁忌区域へ戻れ。そして、実験体を——」
「……お断りします、局長」
カインは、静かに、しかし確固たる意志を込めて言った。
沈黙。
通信の向こうで、空気が凍りつくのが分かった。
「……今、なんと」
「命令を、拒否します。あの少女は、兵器ではありません。大地の災厄の原因ではなく、彼女こそが、この災厄の被害者です。俺は、彼女を守る」
「裏切るのか。育ての親を。祖国を。死んでいった部下たちを——お前も、化け物の側に付くと言うのか、カイン!!」
激怒だった。
氷の下に隠していた、剥き出しの憎悪が爆発する。
「……祖国も、育ての親も、大事です。ですが——あの少女は、俺に、戦う理由を問いました。俺の罪を、許さなかった。だから、今度こそ、守りたいと思った。これは、任務や命令ではなく——俺の、意志です」
「カイン・ラスフォード。君を反逆罪で拘束する。これは追撃命令だ。逃げ切れると思うなよ」
「……そうか」
カインは、初めて、苦笑いに似た表情を見せた。
「局長……いいえ、レオン・ヴァインベルク。俺は、これでやっと、自分の罪から逃げずに済む」
ぶつん。
彼は、通信機のコードを引きちぎった。
軍規違反。反逆罪。すべて受け入れる覚悟で。
ブリュンヒルト。ヴァルトレン連邦首都、統合司令部。
レオン・ヴァインベルクは、受話器を握りしめたまま、数秒間、彫像のように動かなかった。
右手に握った万年筆が、みしり、と軋む。
「カイン……」
怒りではない。もっと深い、諦観にも似た喪失感。
彼は、机の引き出しを開け、一枚の古い写真を取り出した。若き日の自分と、微笑み合う妻。腕の中に、幼い娘。
「また、か」
守れなかった。
国家も、家族も。
「過去を繰り返すな、といったのは、自分自身に、だったな」
彼は、内線電話を叩いた。
「ヴァインベルクだ。緊急展開。第一強襲機動旅団、第七大隊を、直ちに禁忌区域へ出撃させろ。これは国家反逆罪の被疑者追跡である。指揮は、私が直々に執る」
『局長自らですか?』
「つべこべ言わずに動け。目標は二つ。旧ゼルヴィア第七研究施設に潜伏する、カイン・ラスフォード元中尉。そして——実験体ZVN-07-IRIS。両名とも、生死は問わん。何があっても、必ず、狩り出す」
写真を、机に伏せた。
鋭い鷹のような灰色の目に、炎が灯る。それは、悲しみを燃料とする、冷たい炎だった。
格納庫。
崩れかけた天井が、みしみしと音を立てている。
イリスは、まだ、膝をついていた。
大地の声が、頭蓋骨の中で反響する。
半身。
母。
コアと共鳴する。
お前は、我の一部——。
「……やめろ」
涙が、止めどなく溢れてくる。
拒絶したいのに、体の奥底で、何かが呼応しているのを、感じてしまう。
生体データの、根源的な一致。
「私は……人間で、いたい……っ」
ガーベラ・テトラ。
私の半身。
深紅の機体を見上げる。その装甲の有機的な紋様が、彼女の苦しみに呼応するように、暗く濁った紫色に変化していた。
——不意に。
がしゃん!
格納庫の鉄扉が、力任せにこじ開けられた。
「イリス!」
土煙の中に立つ、長身のシルエット。焦げ茶色の短髪。深い緑の瞳。
カイン・ラスフォード。
彼は、まだシュヴァルツファルケのパイロットスーツ姿ではない。煤けたフィールドジャケットを着て、手には携帯用の酸素ボンベと、救急キットを持っている。
「なぜ……あなたが……」
イリスの声は、涙で震えていた。
「もう、軍は敵だ。俺は、命令を拒否した。反逆者として、すぐに追手が来る。だから今すぐ、安全な地下シェルターへ——」
言いかけて、彼はイリスの異変に気づいた。
瘢痕が、脈打っている。
「……大地と、繋がったのか」
「私の、せいだ。私がいるから、大地は目を覚ました。あの声は、私のことを……半身、母、と。私は、人間じゃない。ただの、兵器の素材だ」
彼女は、自嘲するように、かすれた声で言った。
カインは、躊躇しなかった。
一歩、踏み出す。
「……違う」
彼は、小さく震えるその体を、力強く抱きしめた。
イリスの全身が、硬直する。
十八年間、誰かに触れられたことなど、なかった。
「お前が、大地の触媒だとしても——それと、お前が誰かは、関係ない」
「……で、も」
「俺の目の前にいるのは、兵器でも、触媒でもない。泣いて、震えて、『人間でいたい』と叫ぶ、一人の女の子だ。それ以上、何が必要だ?」
イリスの紫の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
人間でいたい。
ただ、それだけを願って——。
ぐらあっ……!
格納庫の床が、割れた。
赤黒い触手が、まるで怒りのように、彼らに向かって、鎌首をもたげる。
半身。
逃げるな。
我に還れ。
「走れ、イリス! ガーベラに乗れ!」
カインは叫び、彼女の手を引いた。
迷っている暇はなかった。
軍の追手も、大地の触手も、すぐそこまで迫っている。
(たとえ、全世界を敵にしても)
カインは、強く、彼女の手を握り返した。
(お前だけは——守る)
それは、過去、部下を守れずに失った男の、命を懸けた贖罪だった。
廃墟の地下へと続く、古い階段。
二人は、光の消えた闇の中へ、身を投じるように走り込んだ。
背後で、コンクリートが砕ける音が響く。
「呼吸を整えろ、イリス。地下にシェルターがある。地図にもない、旧ゼルヴィア軍の極秘施設だ。あそこなら、しばらくは持つ」
暗がりで、イリスは、握られた手を見つめた。
カインの手は、大きく、温かかった。戦闘でできた硬いマメが、彼が積み重ねてきた過去を語っている。
(この手は、私を守るために、世界を敵に回した)
胸の奥に、また、初めて感じる熱が広がる。
「……カイン」
震える声で、初めて、彼の名を呼んだ。
「なんだ」
「私は……どうすれば、いい。どこへ行けば、人間になれる」
まだ、自分が何者か、分からない。
大地の一部なのか。
それとも、人間なのか。
カインは、一瞬、足を止め、闇の中で彼女を振り返った。深い緑の瞳が、優しく細められる。
「簡単さ。ただ、俺と一緒に来い。そこが、お前のいる場所だ」
遠くで、大地が唸る。
グラオザーム禁忌区域は、今、完全に覚醒した。
しかし地下深くで、二人の心臓の鼓動だけが、たしかに、同じリズムを刻み始めていた。Noveliaとは?
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