イヤミの七日間戦争~六つ子に挑んだ逆襲の果て~
これが、私の最後の戦いザンス。
六つ子たちの笑い者であり続けたイヤミは、ただの道化役者ではなかった。かつて彼は、パリの上流社交界で一目置かれる紳士。ただ一度の、忌まわしい事件ですべてを失った男。
六つ子たちの無邪気な残酷さが、イヤミの内に眠る本物の「闇」を呼び覚ます。ある日、トド松の何気ない侮辱が、彼の怒りに火をつけた。イヤミは不気味な笑みを浮かべて宣言する。「七日間、本気で相手してやるザンス。お前らが勝ったら、俺は永遠に姿を消す。だが、俺が勝ったら……」
これは、ただの悪戯合戦ではない。イヤミは六つ子それぞれの最も深い弱点――おそ松のリーダーとしての無能、カラ松の虚栄心、チョロ松の社会不適合、一松の病的な孤独、十四松の底なしの虚無、そしてトド松の計算高い偽善――を執拗に突き、一人また一人と精神を追い詰めていく。さらに、彼らの無自覚な遊びが、どれほど多くの人間の人生を壊してきたか、動かぬ証拠を突きつける。笑いの裏にあった、犠牲者たちの悲痛な叫び。六つ子は初めて、自分たちの「笑い」の本質と向き合うことになる。
兄弟の絆は音を立てて崩れ去り、互いを責め立て、精神の限界まで追い込まれ
イヤミの七日間戦争~六つ子に挑んだ逆襲の果て~ - 臆病者の長男ざんす
八月二日。午前七時。
松野家二階の六畳間は、重苦しい空気で澱んでいた。
窓から差し込む朝日はすでに強く、畳を白く照らしている。それなのに、部屋の中はまるで夜が明けていないかのように暗い。押入れの襖は閉め切られ、洗濯物の山が崩れたままだ。
六つ子全員が、それぞれの布団の上で身を縮めていた。誰も眠っていない。一睡もできなかったのだ。
昨夜、全員のスマートフォンに届いたあの音声データ。トド松の過去の裏切りを、笑い声とともに再生したあのファイル。あれが、彼ら全員の脳裏から離れなかった。
トド松は布団を頭から被り、膝を抱えて震えている。目を閉じるたびに、高校時代に切り捨てた友人の顔が浮かぶ。使えないから、と笑いながら縁を切った相手。今、その相手がどこで何をしているのか、知る由もない。
「……もうやめてくれよ」
かすれた声が、布団の中から漏れた。
壁際では、カラ松がサングラスを外し、虚ろな目で天井を見つめている。いつものキメ顔は消え失せていた。彼は何かを言おうとして、口を開く。
「ブラザー……大丈夫だ。俺たち六人いれば、どんな敵も……」
「今それ、誰も求めてねえから」
チョロ松の声が、冷たく遮った。就職雑誌を抱えたまま、うつむいている。ページの端が、汗で湿っていた。
カラ松の顔が歪む。サングラスを握りしめた指が、白くなった。
部屋の隅では、一松が壁に向かって膝を抱えている。黒いパーカーのフードを目深に被り、顔はまったく見えない。微動だにしない。まるで最初からそこにいないかのように、存在感を消していた。
十四松だけが、異様な空気を察知できずにいた。
「朝ごはん!白米おかわり!ぶぶーん!」
跳ねるような声で階段を駆け下りていく。その無邪気さが、かえって部屋の重さを際立たせた。
おそ松は布団に仰向けになり、充血した目で天井を見つめ続けていた。
一睡もしていない。
脳裏で、同じ記憶がループしている。
——小学五年生の春。
下校中、トド松が上級生三人に絡まれていた。学年が違う、体も大きい、明らかに敵わない相手だ。トド松は必死に逃げようとした。でも囲まれていて、逃げ場がない。最初の一発が、トド松の頬を打った。小さな体がよろめく。
自分は、物陰からそれを見ていた。
怖かった。怖くて、声が出なかった。足が震えて、動かなかった。一方的に殴られる弟を、ただ見ていることしかできなかった。長男のくせに。守るべき立場のくせに。
あの時のトド松の泣き顔が、ずっと脳裏に焼きついている。
おそ松の唇が、かすかに動いた。
「ごめんな……ごめん……」
声にならない声。
今度こそ、長男の俺がなんとかしなければ。
でも——もしまた、何もできなかったら?
イヤミのあの目を思い出す。昨夜の公園で向けられた、静かで冷たい目。あれは、こちらのすべてを見透かしている目だ。長男として何もしてこなかった自分の、醜い本質を全部知っている。
おそ松の手が、布団の端をぎゅっと握りしめた。
午前十時。
アカツキ町の商店街は、すでに暑さに包まれていた。アーケードの下を、買い物袋を提げた主婦たちが行き交う。八百屋の店主が威勢のいい声でトマトの特売を叫び、魚屋からは氷の解ける水音が聞こえる。
おそ松はアーケードの入り口で立ち止まった。
「ちょっと出かけてくる」
家を出る時、居間でテレビを見ていた兄弟たちにそれだけ言い残した。誰も返事をしなかった。ただ、十四松だけが「いってらっしゃい!」と手を振った。
行き先はイヤミの住むアパートだ。
アカツキ駅から徒歩五分。築五十年の木造アパート、ミヤコ荘。壁はところどころ剥がれ、階段は踏むたびにギシギシと悲鳴をあげる。
おそ松は二〇三号室の前に立った。
深呼吸。
もう一度、深呼吸。
拳を握りしめ、勢いよくドアをノックする。
「イヤミ!いんだろ!出てこい!」
返事はない。
もう一度、強く叩く。
「いるんだろ!話があんだよ!」
静寂。
いない。
おそ松は舌打ちをした。額に汗が滲む。シャツの襟元が、湿って肌に張りついていた。
(どこ行きやがった……)
記憶を手繰る。イヤミの行動パターン——午前中は商店街で日雇い労働の斡旋を受けていることが多い。過去に何度も、商店街のあちこちで見かけた。
おそ松は階段を駆け下りた。
商店街に戻り、人混みをかき分けて歩く。アーケードの切れ目にある居酒屋ヤマブキ。その前に、数人の男たちが屯していた。日焼けした肌、くたびれた作業着。日雇い労働者たちだ。派遣のトラックを待っている。
その中に——
トレードマークの尖った前歯が、ぎらりと光った。
七三分けの黒髪。くたびれた白いスーツ。左手薬指の古い銀の指輪。
イヤミだ。
おそ松は足早に近づいた。心臓が早鐘を打つ。手のひらが汗で濡れている。
「イヤミ!」
声が、少し震えた。
イヤミはゆっくりと振り返った。その深い茶色の目が、おそ松のただならぬ形相を見据える。そして口元を、ほんの少しだけ歪めた。
「おやおや、長男君が一人で何ざんすか?まさか、昨日の勝負をなかったことにしてほしいとでも?」
図星だった。
おそ松は激昂した。
「ふざけんな!」
手が伸び、イヤミのスーツの襟を掴み上げる。周囲の労働者たちが、ぎょっとして距離を取った。
「トド松に何送りやがった!あれがあいつをどれだけ追い詰めてるかわかってんのか!」
イヤミは微動だにしなかった。
襟を掴まれ、顔を近づけられても、その目は冷たく澄んだままだ。おそ松の手首をゆっくりと掴み、一本一本、指を外していく。その動作は静かで、しかし有無を言わせぬ強さがあった。
スーツの襟元を整えながら、イヤミは静かに口を開いた。
「君はただ怖がっているだけざんすよ、おそ松君」
道化の仮面が、剥がれた。
その声は、普段のおどけた〜ざんす口調とはまるで違った。流暢な標準語。抑揚のない、平坦な声。
おそ松の背筋に、冷たいものが走った。
「長男という肩書きにしがみつき、兄弟たちから頼られることに自分の存在価値を感じている。けれど、本当に大事な場面で、一度もその責任を果たしたことがない。違いますか?」
おそ松の脳裏に、またあの光景が蘇る。
上級生に殴られるトド松。物陰から、何もできずに見ている自分。
「君はいつも笑いでごまかしてきたざんす。弱い自分から目を背けるために。でもね、おそ松君」
イヤミの目が、真っ直ぐにおそ松を貫く。
「それは結局、誰も守れていないのと同じざんすよ。長男としての決断から逃げるたびに、君の弟たちは少しずつ壊れていっている。今回のトド松君がそうであるように」
「黙れ……!」
おそ松は叫ぼうとした。でも、喉の奥から言葉が出てこない。
違う、と言いたい。俺はちゃんとやってきた、と言いたい。
でも、言えない。
イヤミの指摘は、おそ松自身が誰よりも痛感している真実を、余すことなく言い当てていたからだ。
イヤミはスーツの内ポケットから、一枚の封筒を取り出した。
「これを見るざんす」
おそ松の胸元に、封筒が押し付けられる。
「君たちが笑いでやってきたことの、現実ざんすよ」
おそ松は震える手で封筒を受け取った。
中を開ける。
便箋三枚。びっしりと書かれた手紙。そして一枚の写真。
手紙の差出人は、増田幸雄。
六十七歳。かつてアカツキ商店街で四十年続いた老舗豆腐店「マスヤ」の店主。現在は隣町のスーパーでパート勤務をしている。
手紙には——
三年前の夏。
六つ子が店先に並べた豆腐の試食を勝手に食い散らかしたこと。注意した増田に対して逆上し、商品棚を倒したこと。常連客の前で「クソまずい豆腐!」と叫びながら店内を荒らし回ったこと。
その一部始終が、淡々と、しかし痛切に綴られていた。
事件以降、噂が広がり客足は激減した。五十七歳で多額の借金を抱えて廃業。妻は心労から体調を崩し、入退院を繰り返している。娘は学校で「父親が笑い者にされている」と噂され、不登校になった。
手紙の最後は、こう結ばれていた。
——あの子たちを恨んでいないと言えば嘘になる。しかし、私はもう疲れました。どうか、もう二度と誰かを笑いものにしないでほしい。
同封された写真。
閉店後のマスヤの前で、虚ろな表情で立つ増田幸雄の姿。白い髪、深い皺、うつろな目。その背後では、シャッターが無機質に閉ざされている。
おそ松の手から、封筒と写真が滑り落ちた。
「……あ……」
何かを言おうとして、口を開く。
でも、言葉は嗚咽に変わった。
膝から崩れ落ちる。アスファルトの熱さが、骨に響いた。
イヤミはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、静かに背を向ける。
「明日は全員、アカツキ公園に来るざんすよ」
その声だけを残して、イヤミはアーケードの雑踏の中に消えていった。
午後四時。
松野家の玄関が、ゆっくりと開いた。
おそ松がふらふらと中に入る。顔色は土気色で、目は虚ろだ。
居間でテレビを見ていた兄弟たちが、一斉に振り返った。
「おい、兄貴……?」
おそ松は答えない。靴も脱がずに階段を上がり、二階の部屋へと消えた。
押入れを開ける音。
ガサガサと何かを探る音。
兄弟たちが恐る恐る階段を上がると——
おそ松は壁にもたれかかり、ウイスキーの瓶を手にしていた。琥珀色の液体が、口元からこぼれてシャツを濡らす。
「……う……うう……」
涙が、止めどなく溢れていた。
「ちょっと……何があったんだよ、兄貴」
おそ松は顔を上げない。掠れた声で、呟いた。
「俺たち……ずっとこのままなのかな」
部屋の空気が、凍りついた。
「もう取り返しつかねえこと、いっぱいしてきちまったのかな……」
カラ松が詰め寄った。
「ブラザー!何があったんだ!話してくれ!」
おそ松は、畳に落ちていた封筒を無言で差し出した。
カラ松が中を見る。トド松が覗き込む。チョロ松が手紙を受け取り、一松が壁を向いたまま耳を傾ける。十四松だけが、不思議そうに首をかしげている。
写真に写る虚ろな老人。閉店したマスヤのシャッター。
「これ……俺たちがやったのか……」
チョロ松の声が震えた。
トド松の顔から血の気が引いていく。いつもの小賢しさは消え失せ、ただ青ざめた表情だけが残った。
「知ってた」
壁を向いたまま、一松が小さく呟いた。
その言葉に、全員が一松を見た。
一松はそれ以上、何も言わなかった。
沈黙。
その時——
全員のスマートフォンが、同時に着信音を鳴らした。
ピロン。ピロン。ピロン。ピロン。ピロン。ピロン。
不気味なほど揃ったタイミングだった。
トド松が恐る恐る画面を見る。差出人は非通知。メッセージを開く。
——明日の昼十二時、アカツキ公園に全員集合するざんす。第三の証人と、君たちのこれまでの全罪状を公開する。欠席は敗北と見なすざんすよ。
六人全員のスマホに、同じメッセージが届いていた。
おそ松はウイスキーの瓶を握りしめたまま、声もなく涙を流し続けている。
兄弟たちの間に、言い知れぬ恐怖が広がった。
そして——互いへの疑心暗鬼が。
誰が、何を、知っているのか。イヤミは、あとどれだけの証拠を握っているのか。
窓の外では、夏の太陽がようやく傾き始めていた。長い一日が、終わろうとしている。
でも、本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。Noveliaとは?
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