物語
物語 - 橋の上のムッシュ・イヤミざんす——道化が仮面を脱ぐ夜
松野家の二階の六畳間は、妙に静かだった。
夕方の光が窓から差し込み、畳の上に長く伸びた六つの影を、ぼんやりと照らしている。
おそ松は布団の上であぐらをかいていた。充血した目で、手にした被害者事件簿のファイルを、ただ見つめている。ファイルの端は擦り切れ、付箋がいくつもはみ出していた。
この七日間、自分たちが壊したものと、真正面から向き合ってきた記録だ。
部屋の隅では、カラ松が壁にもたれて座っている。サングラスは外され、枕元に置かれたままだ。その横顔には、いつものキザな笑みは欠片もなかった。
チョロ松は膝を抱えてうつむいている。
一松は黒いパーカーのフードを目深に被り、壁の一点を見つめていた。
十四松だけが、ゆっくりと体を揺らしている。その目は空虚ではなく、何かを考えているようにも見えた。
トド松は窓際に立ち、外を見ている。夕焼けに染まるアカツキ町の屋根の並びを、じっと見下ろしていた。
誰も、口をきかない。
でも、それは昨日までのような、互いを責め合って疲れ果てた沈黙ではなかった。
もっと静かで、それでいて不思議な一体感のある沈黙だった。
おそ松が、ゆっくりと立ち上がった。
膝が震えている。六日間、ほとんど眠っていない。体の芯に重い疲労が溜まっていた。でも、その目だけは、どこか静かに澄んでいた。
「[serious]……行くか」
掠れた声だった。
いつもの「ま、いっか」でもなければ、「なんとかなるだろ」でもない。誰かを促す命令でもなく、ただ、自分がそうするというだけの言葉。
カラ松が顔を上げた。サングラスを取った素顔で、おそ松を見る。
チョロ松が膝から手を離した。
一松が逃げなかった。フードの下から、おそ松の背中を見つめている。
十四松が立ち上がり、おそ松の隣に並んだ。
トド松が窓辺から振り返る。その唇が、わずかに震えた。
「[whispers]……どこに」
「[serious]決まってるだろ」
おそ松は言った。
「[serious]橋だ。あの人が来るなら、そこしかない」
誰に言われたわけでもない。約束したわけでもない。でも、六つ子全員がわかっていた。
イヤミが最後に立つ場所は、あの橋だと。
おそ松が部屋を出る。
後に続く五人の足音が、古い階段を軋ませた。
台所から、松代の「晩ごはんは?」という声が聞こえた。
おそ松は振り返らず、「[gentle]……あとで」 とだけ答えた。
玄関の扉を開けると、八月の湿った夜気が、肌にまとわりつく。
空は藍色から濃紺へと移り変わり、東の空に、最初の星が一つ、白く光っていた。
六つの影が、アカツキ川へ向かって歩き出す。
誰も喋らない。でも、歩く速度は揃っていた。
商店街を抜け、住宅街を抜け、アカツキ公園の前を通る。
ブランコが風に揺れて、キィ、と鳴った。
三日目の朝、イヤミがトト子の証言を公開し、被害者ファイルをばら撒いた場所だ。あの時は、兄弟の絆が音を立てて崩れる音を聞いた。
今はもう、その記憶だけが、公園の隅に染みついている。
さらに歩く。
アカツキ川のせせらぎが聞こえ始めた。
橋が見えてきた。
鉄製の欄干が、街灯のオレンジ色の光を受けて、ぼんやりと浮かび上がっている。
コンクリートの橋脚を、川の水が静かに洗っていた。
そして——橋の中央に、人影があった。
欄干に背を預け、空を見上げている。
細身のシルエット。特徴的な髪型。
イヤミだった。
六つ子の足音が、橋のアスファルトを叩く。
イヤミはゆっくりと顔を向けた。
眼鏡の奥の目が、六人を順番に見る。
いつもの道化のような細めた目ではない。かといって、あの冷酷なまでの静かな目でもない。
ただ、静かに、一人の人間を見る目だった。
「[gentle]来たざんすか」
声に、普段の芝居がかった抑揚はなかった。
ただの言葉だった。
六つ子は立ち止まった。
橋の上、イヤミとの距離は五メートルほど。川風が吹き、全員の前髪を揺らす。
おそ松が一歩前に出た。
「[serious]……あんたに、聞きたいことがある」
イヤミは、欄干に手を置いたまま、黙っている。
「[serious]七日間の勝負の結果は、どうなったんですか」
おそ松の声は震えていなかった。
「[serious]俺たちは……勝ったのか、負けたのか」
イヤミは答えなかった。
代わりに、左手を持ち上げた。
その薬指に、銀の指輪が光っている。古い指輪だ。傷だらけで、ところどころ曇っている。
イヤミは、その指輪を右手の指先で、ゆっくりと撫で始めた。
「[gentle]勝敗は……もう、どうでもいいざんす」
静かな声だった。
「[gentle]君たちが、今夜、ここに自分の足で来た。それだけで、十分ざんしょ」
おそ松は唇を噛んだ。
「[serious]じゃあ、聞きます」
一歩、また前に出る。
「[serious]あんたの本当の目的はなんだったんですか」
イヤミの指が、指輪の上で止まった。
橋の下を、川が流れている。
どこかで虫の声が聞こえた。遠くの家々の明かりが、川面に揺れて映っている。
イヤミは欄干を掴み、夜のアカツキ川を見下ろした。
背中越しに、話し始める。
「[serious]君たちが大嫌いだったのは、本当だざんす」
低く、静かな声。
「[serious]無自覚で、無責任で、他人の人生を笑いものにして。それを、ただの悪ふざけで済ませている君たちが、我慢ならなかった」
欄干を掴む指に、力がこもる。
「[serious]でも——」
イヤミの声から、ざんすの道化的な語尾が消えた。
「[serious]それ以上に、恐ろしかった」
カラ松が、息を呑む気配がした。
「[serious]君たちが、俺と同じ道を歩いていくことが。無自覚な悪意で人を壊し、気づいた時には取り返せない場所に立っている——そんな人間を、俺はもう一人、知っていた」
イヤミの声は、感情を押し殺したように平坦だった。でも、その平坦さの奥に、十五年分の苦さが滲んでいる。
「[serious]十五年前の、俺自身だ」
川風が強くなり、欄干がかすかに震えた。
「[serious]パリで、俺は友人に裏切られた。無実の罪を着せられ、社交界を追われた。誰も、俺の言葉を信じなかった。その時、気づいたんだ——俺がそれまでに撒き散らしてきた虚栄や欺瞞が、全部、自分に返ってきただけだと」
トド松の肩が、小さく震えた。
「[serious]君たちに七日間かけてしたことは、復讐でも制裁でもない」
イヤミは欄干から手を離し、ゆっくりと振り返った。
その顔には、道化の仮面も、冷酷な制裁者の顔もなかった。
ただ、深い皺の刻まれた、一人の中年男の顔があった。
「[serious]誰かに教えてもらえなかった『自分の行動の結果と向き合う痛み』を、君たちに代わりに引き受けさせることだった。俺が十五年前に、誰かから教わりたかったことを——俺が君たちに教えることで、少しでも埋め合わせになると思った」
沈黙が降りた。
六つ子の誰も、何も言えなかった。
トド松の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
彼の頭の中には、昨日のトト子の言葉が蘇っていた。
——本気で変わろうとしてるなら、私は信じる。
あの時、彼は涙を流しながら、何も返せなかった。
でも、今夜のイヤミの言葉が、その涙の理由を、彼に教えていた。
あれは、トト子への恋愛感情なんかじゃなかった。
打算で人間関係を設計し続けてきた自分の構造が、初めて、誰かに信じてもらうという重さを受け取った瞬間だった。
その感情に、まだ名前をつけることはできない。
でも——トド松は初めて、自分が人に信じてもらえるかもしれないと、そう思った。
トド松は涙を手の甲で拭った。
おそ松が、イヤミの正面に立った。
その目は、もう充血だけで潤んではいなかった。
「[crying]……ありがとうございました」
おそ松は言った。
「[crying]ごめんなさいじゃなくて、ありがとう。あんたが俺たちに教えてくれたことを、俺は、忘れない」
その言葉を聞いたイヤミの顔が、ほんの一瞬だけ、歪んだ。
怒りでも、哀しみでもない。
十五年ぶりに、誰かに正しく受け取ってもらえた男の顔だった。
カラ松が頭を下げた。
チョロ松が、唇を噛みしめながら、深く頭を下げる。
一松が、フードの下から、静かに頭を下げた。
十四松が、深々とお辞儀をする。
トド松が、嗚咽をこらえながら、頭を下げた。
六人全員が、イヤミ個人に、感謝を捧げていた。
イヤミはその光景を、真正面からは受け取らなかった。
顔を背け、橋の向こう側へ、ゆっくりと歩き始める。
六つ子は顔を上げた。
イヤミは振り返らない。
背中が遠ざかっていく。
橋の向こう側の闇に溶ける寸前——
イヤミは、右手だけを高く上げた。
開いた手のひらが、街灯の光を受けて、一瞬だけ浮かび上がる。
指輪が、銀色に光った。
それだけだった。
次の瞬間には、イヤミの姿は夜の闇に消えていた。
橋の上に、六つ子だけが残された。
川の流れの音だけが、いつまでも変わらず聞こえている。
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翌朝、松野家の玄関に一枚の葉書が届いた。
おそ松が一番に気づいた。
眠れぬ夜を過ごし、朝日が差し込む頃、のそのそと階段を下りてきた彼は、郵便受けに手を伸ばした。
その中に、一枚だけ、異質なものがあった。
美しい絵葉書だった。
エッフェル塔と、秋のセーヌ川の風景が印刷されている。空は澄み切った青で、川面には並木道の紅葉が映り込んでいた。
裏返す。
そこには、細く、神経質な筆跡で、こう書かれていた。
「みなさん、元気でざんす。またいつか、笑い合える日まで」
消印は、パリだった。
おそ松は玄関に立ち尽くしたまま、その葉書を長く見つめていた。
笑わなかった。
泣きもしなかった。
怒りもなかった。
ただ——その言葉を、静かに受け取っていた。
七日間で初めて、感情を逃げ場なく正面から受け取れるようになった男の、最後の姿だった。
台所から、松代の「朝ごはんよー」という声が聞こえる。
二階で、誰かが寝返りを打つ音がした。
いつもの朝の音だ。
でも——昨日までの朝とは、何かが違う。
おそ松は葉書を胸のポケットにしまった。
そして、玄関のドアを開け、空を仰いだ。
秋の気配を含んだ風が、彼の前髪を揺らす。
空は、どこまでも高く、澄んでいた。