イヤミの七日間戦争~六つ子に挑んだ逆襲の果て~
これが、私の最後の戦いザンス。
六つ子たちの笑い者であり続けたイヤミは、ただの道化役者ではなかった。かつて彼は、パリの上流社交界で一目置かれる紳士。ただ一度の、忌まわしい事件ですべてを失った男。
六つ子たちの無邪気な残酷さが、イヤミの内に眠る本物の「闇」を呼び覚ます。ある日、トド松の何気ない侮辱が、彼の怒りに火をつけた。イヤミは不気味な笑みを浮かべて宣言する。「七日間、本気で相手してやるザンス。お前らが勝ったら、俺は永遠に姿を消す。だが、俺が勝ったら……」
これは、ただの悪戯合戦ではない。イヤミは六つ子それぞれの最も深い弱点――おそ松のリーダーとしての無能、カラ松の虚栄心、チョロ松の社会不適合、一松の病的な孤独、十四松の底なしの虚無、そしてトド松の計算高い偽善――を執拗に突き、一人また一人と精神を追い詰めていく。さらに、彼らの無自覚な遊びが、どれほど多くの人間の人生を壊してきたか、動かぬ証拠を突きつける。笑いの裏にあった、犠牲者たちの悲痛な叫び。六つ子は初めて、自分たちの「笑い」の本質と向き合うことになる。
兄弟の絆は音を立てて崩れ去り、互いを責め立て、精神の限界まで追い込まれ
イヤミの七日間戦争~六つ子に挑んだ逆襲の果て~ - 贖罪の行脚ざんす——シャッターの前に膝をつく日
空が白み始めていた。
商店街のアーケードの隙間から、薄い青が滲む。八月の朝は早い。もうすぐ日の出だ。
マスヤのシャッターの前で、六つ子は動けずにいた。
一晩中、あのレコーダーの声を聞いてから、誰も口をきかない。コンクリートの上に座り込み、膝を抱え、うつむいている。夜気が冷えた体に、朝の湿気がまとわりつく。
閉店した豆腐屋のシャッターは、冷たく銀色に光っていた。「長い間ありがとうございました」の貼り紙が、端から剥がれかけている。
おそ松は充血した目を、じっと貼り紙に向けていた。
もう何時間も、そうしている。
(親父が、頭を下げてた)
そのことばかり考えていた。知らなかった。いや、知ろうとしなかった。自分たちが笑っている裏で、父親が畳に額を擦り付けていた。飲み代を肩代わりしていた。町内会で村八分にされかけた息子たちを、たった一人でかばい続けていた。
おそ松の隣で、カラ松がアスファルトに手をついたまま、うつむいている。サングラスは外され、ポケットに無造作に突っ込まれていた。
チョロ松は膝に顔を埋めている。就職雑誌はもう握っていない。足元に、落ちていた。
一松は黒いパーカーのフードを目深に被り、壁によりかかっている。その目は閉じられているが、眠ってはいない。
十四松は膝を抱え、ゆっくりと体を揺らしていた。いつもの走り回る姿はない。
トド松はシャッターの下端に指を当てたまま、動かない。
誰も、帰ろうと言えない。
沈黙だけが、時間を刻んでいた。
――バタバタバタ。
鳩の群れがアーケードの屋根から飛び立った。朝の光が、東の空から差し込み始める。
おそ松が、ゆっくりと立ち上がった。
膝が震えている。一晩中座り込んでいたせいで、足が痺れていた。ふらつきながら、シャッターの前で体を支える。
弟たちが、顔を上げた。
おそ松は、イヤミから渡された被害者事件簿のファイルを抱え直した。ぼろぼろになったA4のファイル。角が折れ、表紙には指の跡がついている。
充血した目で、兄弟たちを一人ずつ見た。
カラ松。チョロ松。一松。十四松。トド松。
何かを言おうとして、口を開く。でも、言葉が出てこない。喉の奥が乾いて、声にならない。
おそ松は唇を噛みしめた。
「……逃げるの、やめようぜ」
掠れた声だった。
いつもの「ま、いっか」でも、「なんとかなるだろ」でもない。笑いでごまかすことも、責任を誰かになすりつけることも、もうしない——そう言っている。
演説でもなければ、格好のつく宣言でもない。声は震え、目には涙が滲んでいる。
それでも、その言葉は、おそ松が五日間で初めて発した本音だった。
「俺たちがぶっ壊したものを見に行く。ちゃんと、自分の目で」
カラ松が立ち上がった。何も言わない。でも、目はおそ松を見ている。
チョロ松が膝の埃を払い、ゆっくりと立ち上がる。落ちていた就職雑誌を、拾わなかった。
一松が壁から背を離した。フードの下の目が、かすかに動く。
十四松が立ち上がり、おそ松の隣に並んだ。その目はいつもの空虚さとは違い、何かを見ようとしている。
トド松が最後に立ち上がった。唇を噛みしめ、うつむいている。
おそ松はファイルを胸に抱え、歩き出した。
弟たちが後に続く。
商店街のアーケードを抜け、朝の住宅街へ。
六つの影が、長くアスファルトに伸びていた。
最初の訪問先は、豆腐屋「マスヤ」の元常連客の家だった。
古い木造の一軒家。玄関先には植木鉢が並び、朝顔の青い花が咲いている。おそ松が門柱のインターホンを押した。
指が震えて、なかなか押せない。
やがて、カチッという音。
「どちら様ですか」
年配の女性の声。インターホン越しの、警戒した声だった。
おそ松は唾を飲み込んだ。
「松野です。あの……マスヤさんのことで、お話を」
長い沈黙。
スピーカーから、かすかな息遣いが聞こえる。
「……帰ってください」
声は冷たく、それでいて疲れていた。
「あの、少しだけで——」
「帰ってくださいって言ってるでしょ!」
インターホンが切れた。ブツッ、という無機質な音だけが残る。
六つ子は門の前で立ち尽くした。
玄関のドアは、開かなかった。
カーテンの向こうで、人影が動く気配もない。完全に、拒絶されていた。
おそ松はしばらくその場に立っていた。口を開きかけて、閉じる。
何を言えばいいのか、わからなかった。
トド松が、ポケットに手を突っ込んだまま、鼻をすすった。
「……次、行くぞ」
おそ松は次の住所をファイルで確認し、歩き出した。
二軒目。
中里香織の自宅は、アカツキ公園から徒歩五分のアパートだった。築十年ほどの鉄筋コンクリートの建物。二階の端の部屋だ。
おそ松がインターホンを押す。
カチッ。
「はい」
若い女性の声。
「松野です。あの、公園でのことで……」
沈黙が、三秒ほど続いた。
玄関のドアが、ゆっくりと開いた。
中里香織が立っていた。三十八歳。薄いベージュのカーディガンを羽織り、髪を後ろで束ねている。目元には、隈があった。
彼女は六つ子の顔を、一人ずつ見渡した。
おそ松。カラ松。チョロ松。一松。十四松。トド松。
「……入って」
静かな声だった。
六つ子は玄関に上がらず、外で頭を下げた。おそ松がファイルを抱え直し、声を絞り出す。
「あの、俺たち……あの時、公園で……」
中里香織は、玄関の枠に手をかけ、じっと彼らを見ていた。
「謝れば終わると思ってるなら、来ないほうがよかった」
六つ子の肩が、一斉に強張った。
「うちの子、あれから半年、公園に行けなくなったんです」
感情を押し殺した声。でも、その奥に、拭いきれない痛みが滲んでいる。
「五人で遊んでたんです。滑り台の順番を待ってて。そしたら、あなたたちがいきなり喧嘩を始めて、うちの子を突き飛ばして。それで、滑り台から落ちて、顔に傷が——」
声が震えた。
彼女は唇を噛みしめ、言葉を切った。
「……傷は治ったけど、心のほうはね」
六つ子は誰も、顔を上げられなかった。
おそ松の手の中で、ファイルがかさかさと音を立てる。
「来ないでほしかった」
彼女はそう言って、玄関のドアを閉めた。
バタン。
重い音が、朝の住宅街に響いた。
六つ子は、閉じられたドアの前に立ち続ける。
誰も、何も言えなかった。
「……行くぞ」
おそ松は次の住所へ、足を踏み出した。
拒絶されるたびに、歩みが重くなる。それでも、止まらない。
アカツキ商店街に入った時、朝の買い物客が数人、足を止めた。
「あら、松野家の子たち」
「何してるのかしら」
噂話をするような声が、聞こえよがしに飛んでくる。
パン屋「コムギドウ」の前を通りかかると、店主の妻が店先の掃除をやめて、六つ子を見つめた。驚いた顔。そして、複雑そうに眉をひそめる。
「あの子たち、謝って回ってるらしいわよ」
声をひそめた中年女性の言葉が、一瞬、風に乗って聞こえた。
六つ子は俯いたまま、商店街を進む。
「ご両親が可哀想だって、みんな言ってるわ」
別の女性の声。
おそ松の足が、止まった。
胸の真ん中が、ぎゅっと締め付けられる。自分たちへの批判ではない。親への同情という形で突きつけられる言葉が、あの時知った父の土下座の記憶を、生々しく呼び覚ます。
松造が畳に額を擦り付けていた。
あの陳述書に書かれていた「頭を床につけて」という一文が、おそ松の脳裏で繰り返される。
トド松がうつむいたまま、唇を噛んだ。
カラ松は何も言わず、ただ俯く。
チョロ松の目が、痛みで歪んだ。
一松はフードを目深に被り、表情を隠す。
十四松だけが、立ち止まったまま、商店街のざわめきを見つめていた。その大きな目が、何かを理解しようとするように、ゆっくりと動く。
おそ松は足を踏み出した。
アスファルトを踏みしめる。商店街を抜ける。
商店街の外れで、トト子が立っていた。
白いブラウスに、水色のスカート。手には小さなハンドバッグを持っている。買い物帰りのようだった。
彼女は六つ子の一行を見て、立ち止まった。
おそ松が気づき、足を止める。他の五人も、続いて止まった。
トト子は六つの顔を、一人ずつ見た。
あの時、公園で全てを叫んだ彼女の目は、今は静かだった。怒りでも、失望でもない。ただ、じっと見つめる目。
トト子が、トド松に向かって一歩近づいた。
トド松の肩が、かすかに震える。
「本気で変わろうとしてるなら、私は信じる」
それだけだった。
それ以上でも以下でもない。たった一文。
でも——
トド松の目から、涙が溢れた。
計算も、打算も、何もない。いつもの彼なら、ここでどう返せば得かを即座に考える。相手の反応を予測し、自分の立ち位置を確保する言葉を選ぶ。
なのに——
涙が止まらなかった。
声も出ない。喉の奥が熱くなって、言葉のかけらも出てこない。
「……っ」
トド松はうつむき、手の甲で目を拭った。でも、涙は次から次へと溢れてくる。
自分が損得勘定なしに泣かされている。その事実に、自分自身が一番驚いていた。
トト子はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、それから背を向けて歩き去った。
水色のスカートが、朝の光の中で揺れる。
その背中を、トド松は涙で歪んだ視界で、ただ見つめていた。
おそ松が、そっとトド松の肩を叩いた。
「……行こう」
夕方近くになっていた。
六つ子が最後に辿り着いたのは、隣町の住宅街にある古いアパートだった。
灰色の外壁。二階建て。手すりに、洗濯物がはためいている。
増田幸雄の妻・幸子が、今はここに一人で住んでいるという。イヤミのファイルに記された住所を頼りに、ここまで来た。
おそ松がインターホンを押す。
指が震えて、二度、押し損ねた。
カチッ。
「はい」
インターホン越しの声は、あの時レコーダーから聞こえた声と同じだった。疲れ果てて、感情が抜け落ちたような声。
「松野です。マスヤさんの、増田さんの……」
言葉が続かない。
しばらくの沈黙の後、玄関のドアが開いた。
増田幸子が立っていた。
五十代半ば。痩せていて、肩がこけている。髪は白いものが混じり、目元の皺が深く刻まれていた。彼女の後ろの部屋には、段ボール箱が積まれている。引っ越しの荷物を、まだ全部は片付けられていないのだろう。
幸子は六つ子の顔を見た。
誰も、顔を上げられなかった。
おそ松が、アスファルトに膝をついた。
そのまま、額を地面に擦り付ける。
カラ松も、チョロ松も、一松も、十四松も、トド松も——全員が膝をつき、額を地面につけた。
アスファルトが、冷たい。
「すみませんでした」
声が震えた。
「俺たちが、全部、ぶっ壊しました。あなたのお店も、旦那さんの人生も、全部……」
涙がアスファルトに落ちて、染みを作る。
長い沈黙が続いた。
蝉の声だけが、夕暮れの住宅街に響いている。
幸子は玄関先に立ったまま、動かなかった。
彼女の手が、玄関の枠を握る。指が、白くなるほど強く。
やがて——
「……もういいよ」
感情を押し殺した声だった。
六つ子が、はっと顔を上げる。
幸子の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。でも、彼女は笑おうとしていた。口元が、歪んでいる。
「あんたたちが、それだけ本気で泣けるなら……うちの店は、無駄じゃなかった」
おそ松の目から、涙が溢れた。
「ありがとう、ございます」
絞り出した声は、かすれていた。
トド松が声を上げて泣いた。
肩を震わせ、唇を噛みしめ、嗚咽を抑えられずにいる。
幸子は一度だけ、目を伏せた。
それから、ゆっくりと玄関のドアを閉めた。
カチリ、と鍵がかかる音がして、それきりだった。
夕暮れの住宅街に、六つ子は立ち尽くした。
誰も、すぐには動けなかった。
空が、茜色に染まっている。
風が吹くと、アパートの手すりにかかった洗濯物が、ぱたぱたとはためいた。
日が落ちてから、六つ子は松野家に帰り着いた。
玄関を開けると、台所から松代の「おかえり」という声が聞こえた。でも、六つ子は誰も返事をしなかった。
そのまま二階に上がり、六畳間の布団の上に、それぞれ座り込む。
誰も笑わなかった。
いつものバカ騒ぎもなければ、テレビを奪い合う声もない。カラ松の痛い名言も、チョロ松の小言も、一松の陰鬱な独り言も、十四松の走り回る足音も、トド松の計算高い軽口も——何もかもが、なかった。
ただ、沈黙だけが部屋を満たしていた。
窓の外で、虫の声がかすかに聞こえる。
長い時間が過ぎた。
誰かが、ぽつりと言った。
「明日、イヤミに会いに行くか」
おそ松が顔を上げた。
「……俺が行く」
即答だった。
長男としての判断ではない。七日間の果てに、自分の中で唯一残った行動として、自然に出た言葉だった。
「俺も行く」
「……行くよ」
「……行く」
十四松が、無言で頷いた。
トド松は膝を抱えたまま、小さく「うん」 と言った。
おそ松は窓の外を見た。
暗い空に、月が出ている。
(明日)
頭の中で、その言葉が重く響いた。
イヤミに会う。七日目の対面。
それがどうなるのか、誰にもわからない。でも——今度こそ、逃げなかった。
六つ子は、それぞれの布団に横になった。
誰も、眠れなかった。
夜が、ゆっくりと更けていく。
明日、イヤミが来る。
その事実だけが、暗い部屋の中で、静かに、しかし確かに、彼らの胸にのしかかっていた。Noveliaとは?
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