イヤミの七日間戦争~六つ子に挑んだ逆襲の果て~
これが、私の最後の戦いザンス。
六つ子たちの笑い者であり続けたイヤミは、ただの道化役者ではなかった。かつて彼は、パリの上流社交界で一目置かれる紳士。ただ一度の、忌まわしい事件ですべてを失った男。
六つ子たちの無邪気な残酷さが、イヤミの内に眠る本物の「闇」を呼び覚ます。ある日、トド松の何気ない侮辱が、彼の怒りに火をつけた。イヤミは不気味な笑みを浮かべて宣言する。「七日間、本気で相手してやるザンス。お前らが勝ったら、俺は永遠に姿を消す。だが、俺が勝ったら……」
これは、ただの悪戯合戦ではない。イヤミは六つ子それぞれの最も深い弱点――おそ松のリーダーとしての無能、カラ松の虚栄心、チョロ松の社会不適合、一松の病的な孤独、十四松の底なしの虚無、そしてトド松の計算高い偽善――を執拗に突き、一人また一人と精神を追い詰めていく。さらに、彼らの無自覚な遊びが、どれほど多くの人間の人生を壊してきたか、動かぬ証拠を突きつける。笑いの裏にあった、犠牲者たちの悲痛な叫び。六つ子は初めて、自分たちの「笑い」の本質と向き合うことになる。
兄弟の絆は音を立てて崩れ去り、互いを責め立て、精神の限界まで追い込まれ
イヤミの七日間戦争~六つ子に挑んだ逆襲の果て~ - 廃墟の前で語るざんす——イヤミの傷と増田の妻の叫び
夜明け前の暗さが、まだ部屋の隅に残っていた。
閉め切ったカーテンの向こうで、新聞配達のバイクの音が遠ざかっていく。いつもの朝だ。でも、松野家の二階の六畳間には、いつもの朝は来なかった。
六つ子はそれぞれの布団の上で、身を縮めていた。眠っていない。一睡もできなかった。
昨夜、イヤミが置いていった書類の束が、畳の上に散乱したままだ。町内会の議事録。居酒屋の請求書。宮下町内会長の陳述書。そして――父・松造の署名。
おそ松は充血した目で、天井を見つめていた。
頭の中を、同じ言葉がぐるぐると回っている。
(親父が、頭を下げてた)
知らなかった。いや、知ろうとしなかった。笑ってごまかして、見ないふりをしてきた。自分たちが笑っている裏で、父親が畳に額を擦り付けていたなんて。
隣の布団で、カラ松が寝返りを打った。サングラスは外され、枕元に置かれている。その顔には、いつものキザな笑みは欠片もなかった。
部屋の隅で、一松が膝を抱えて壁を向いている。黒いパーカーのフードの下から、かすかな呼吸だけが聞こえた。
チョロ松はうつ伏せのまま、動かない。握りしめた就職雑誌のページが、汗でふやけている。
十四松だけが、奇妙な静けさの中で、ゆっくりと体を揺らしていた。その目は何かを見つめているが、何も映っていない。
トド松が、布団から顔を出した。
「……結局、一番悪いのって誰なんだろうな」
独り言のような、でも明らかに計算された一言。その声が、凍りついた空気に亀裂を入れた。
おそ松が顔を上げる。
「トド松、やめろ」
「だって事実じゃん。誰かのせいで、親父がああなったんだよ」
トド松はおそ松を見ずに、壁を向いたまま続けた。
「俺は初日にもう終わってるし。あとは関係ないし」
チョロ松がゆっくりと起き上がった。その目が、ギロリとトド松を睨む。
「関係ない、だ?お前、それ本気で言ってんのか」
「本気だよ。だって俺、あのオーディションの時、止めようとしたんだよね」
チョロ松の声が、自分の胸を叩くように強くなった。
「俺はあの時、やめとけっつったんだ!でもお前らが――」
「俺はその場にいなかったし」
トド松の冷たい一言が、チョロ松の言葉を遮った。
カラ松が窓際で立ち上がる。朝日を背に受け、ゆっくりと振り返った。
「ブラザーたち……今、互いを責め合うのは、最も避けるべき過ちだ。俺には全員の痛みが――」
「うるせえんだよ!」
チョロ松の怒声が、部屋に響き渡った。
「お前のその痛いキャラ、誰も求めてないんだよ!ずっとそうだ!空気読めてるつもりか知らねえけど、全部ズレてんだよ!」
カラ松の顔から、血の気が引いていく。サングラスを握りしめた指が、小刻みに震えていた。
部屋の隅で、一松がかすかに動いた。
「……うるさい」
声は小さかった。でも、全員の耳に、それは冷たく突き刺さった。
「どの面下げて、人のこと言えるんだよ。お前らだって、俺のことずっと陰キャ扱いしてきたろ」
壁を向いたまま、一松は続ける。
「都合のいい時だけ話しかけて、笑いものにして……それで、今さら兄弟面かよ」
誰も、何も言えなかった。
廊下で、十四松が走り回る足音がする。ドタドタドタ――。その無邪気な音だけが、重苦しい沈黙の中で空回りしていた。
おそ松は唇を噛みしめていた。
(止めなきゃ)
長男として、ここで何か言わなければならない。でも――言葉が出てこない。何を言っても、今までのように笑ってごまかすだけだ。もう、誰もそれでは納得しない。
「兄貴さ」
トド松がおそ松を見た。その目は、冷めきっていた。
「いつも長男ぶるくせに、何も決めたことないよね。俺たちがこんなになったのって、兄貴が全部笑いでごまかしてきたからじゃないの」
おそ松の顔が、青ざめた。
違う、と言いたかった。でも、喉の奥から言葉が出てこない。トド松の指摘は、おそ松自身が誰よりも痛感している真実を、正確に貫いていた。
「……それは……」
その時――
全員のスマートフォンが、同時に震えた。
おそ松が画面を見る。
『今すぐ商店街のマスヤの前に来るざんす。一人でも欠けたら、あたしが代わりに松造さんに全部話すざんすよ』
送信者は、イヤミだった。
父親の名前を出されたことで、六つ子は反論できなかった。トド松が舌打ちし、チョロ松がスマホを畳に叩きつける。カラ松は無言でサングラスをかけ、一松はフードを目深に被った。
おそ松は震える指で、スマホを握りしめた。
(親父に……これ以上)
「……行くぞ」
声は掠れていたが、全員が立ち上がった。
―――
アカツキ商店街は、朝の静けさに包まれていた。
八月の強い日差しが、アーケードの破れた天井から斜めに差し込んでいる。開店前のシャッターが並ぶ通りに、人の姿はない。遠くで、犬の鳴き声だけが響いていた。
六つ子は無言で歩いた。
やがて、目的の場所に着く。
マスヤ。三年前に廃業した豆腐屋だ。
色褪せたシャッター。錆びついた引き戸のレール。壁の一部には、ひび割れが走っている。そして――シャッターの中央に、一枚の貼り紙が残っていた。
『長い間ありがとうございました』
雨風で端が反り返り、文字は所々かすんでいる。でも、その言葉だけは、確かにそこにあった。
シャッターの前に、イヤミが立っていた。
七三分けの黒髪。特徴的に尖った前歯。深い茶色の目が、静かに六つ子を見据えている。スーツの胸ポケットからは、古い銀の指輪をはめた左手が覗いていた。
イヤミの周囲だけ、空気が違っていた。普段の道化的な雰囲気はなく、背筋の伸びた、静かな佇まい。
「よく来たざんす」
たった一言。でも、その声には、いつもの「ざんす」口調の軽さがなかった。
おそ松は貼り紙を見つめていた。
(三年前――)
記憶が、不意に蘇る。夏の暑い日だった。六人でここに来て、笑いながら商品棚を倒した。豆腐が飛び散って、カラ松がそれに滑って転んで、全員で腹を抱えて笑った。
楽しかった。
ただの、ふざけた、一日だった。
でも、今――目の前にあるのは、閉まったままのシャッターと、色褪せた「ありがとうございました」の文字だけだった。
胸の奥で、何かが鈍く痛んだ。
自分たちの笑い声と、この沈黙が、一本の時間で繋がっている。そのことを、初めて内臓で理解した。
イヤミが口を開いた。
「君たちに、話したいことがあるざんす」
六つ子は黙ってイヤミを見た。
イヤミは、シャッターに背を向け、六つ子と向き合った。朝日が彼の横顔を照らし、深い皺を浮かび上がらせる。
「あたしはかつて、パリにいたざんす」
その声から、少しずつ、道化の色が消えていった。
「サロン・ドゥ・レーヴ――パリ8区の高級サロンで、あたしは東洋美術の目利きとして五年間を過ごした。会員数は約150名。年会費2000ユーロ。知識と教養だけが価値を持つ、そういう世界だったざんす」
おそ松は息を呑んだ。
イヤミがこんな話をするのを、誰も聞いたことがなかった。
「あたしには、無二の親友がいたざんす。共同経営者のジャン=リュック・モレル。彼はあたしの才能を誰よりも評価してくれた。毎晩、二人でワインを飲みながら、サロンの未来を語り合った。あたしは彼を、心から信頼していた」
イヤミの声が、少しだけ震えた。
「だが、ある日――サロンの資金が、横領されていることが発覚した。帳簿を調べると、あたしの署名が使われていた。筆跡鑑定でも、あたしのものだと判定された」
イヤミは、左手の指輪をそっと撫でた。
「実際に横領していたのは、ジャン=リュックだった。彼があたしの署名を完璧に真似て、罪を着せた。あたしは否定した。必死で、何度も、誰にでも説明した。でも――誰一人として、あたしの言葉を信じなかったざんす」
六つ子は、息を止めて聞いていた。
「毎晩サロンで笑い合っていた仲間も、取引先も、下宿先のマダムも――あたしが詐欺師だと決めた瞬間、全員が、それ以前の五年間を、都合よく塗り替えた。『そういえば、前から怪しいと思っていた』『東洋人は信用できないと思っていた』――今まで笑顔で接してくれた人間が、次の日には、まるで初めからそうだったかのように、あたしを避けた」
イヤミの声が、一切の抑揚を失った。道化の仮面が、完全に剥がれ落ちた瞬間だった。
「あたしは無実を証明できなかった。裁判にもならなかった。そして、フランス国外退去処分を受けた。パリを追われた。全てを失った。名誉も、友人も、未来も――たった一人の裏切りで」
静寂が、商店街を包んだ。
蝉の声だけが、遠くでミンミンと鳴いている。
イヤミは、ゆっくりと息を吐いた。
「君たちにこの話をしたのは、武器としてじゃないざんす。ただ――あたしが何者であるかを、君たちに知っていてほしかった」
おそ松は、イヤミの横顔を見つめ続けた。
(この人は――)
ただの小悪党なんかじゃなかった。不条理に人格の根幹を破壊された、一人の人間だった。
トド松は視線を地面に落とし、唇を固く結んでいる。かつて自分が「人生の敗北者」と呼んだ男の、その敗北の重さを、初めて量ろうとしていた。
イヤミはスーツの胸ポケットに手を入れ、小型のICレコーダーを取り出した。
「そして、これが――増田さんの奥さんの声ざんす」
再生ボタンが押された。
スピーカーから、女性の声が流れ出す。
『――どうでもいいわけがないじゃないですか』
乾いた、疲れ果てた声だった。
『あの子たちが来てから、うちの人は夜中に何度も起きるようになって、薬を飲まないと眠れなくなって……』
チョロ松の顔が、こわばった。
『廃業した後も、ずっと夢を見るって言ってたんです。倒れた棚が夢に出るって。お客さんたちの顔が夢に出るって』
カラ松が、サングラスの下で目を閉じた。
『あんたたちにとっては、ふざけた一日だったかもしれないけど――』
声が、震えた。
『私たちの四十年は、それで終わったんですよ』
トド松の目に、涙が浮かんだ。
制御できない涙だった。計算でも、演技でもない。他人の痛みを初めて自分の内側で感じた瞬間だった。そして、それがあまりにも遅すぎたことへの恐怖が、涙と一緒に溢れ出していた。
チョロ松は膝に手を置いたまま、小刻みに震えている。
一松は地面の一点を凝視したまま、動かない。
十四松は、完全に言葉を失っていた。その大きな目が、ただレコーダーを見つめている。
録音が、終わった。
静寂。
蝉の声だけが、変わらず響いている。
最初に動いたのは、おそ松だった。
ゆっくりと膝が折れ、アスファルトに額がつく。
「……ごめんなさい」
声が震えていた。
それを皮切りに、他の五人も崩れ落ちた。カラ松が膝をつき、チョロ松がうつむきながら号泣し、一松が肩を震わせ、十四松が異様な静けさの中で額を地面につけた。
トド松は唇を噛みしめながら、涙を拭おうともせず、ただ地面に手をついた。
「ごめんなさい……」
六つの声が、重なった。
イヤミは、彼らを見下ろした。
何も言わない。
長い沈黙の後――イヤミは、感情のない声で言った。
「あたしに謝るんじゃないざんす」
おそ松が顔を上げた。
「君たちが謝るべき相手は、増田さんも、トト子さんも、公園で泣いた子供たちも――もうこの街にはいない。もしくは、君たちの言葉が届く場所に立ってくれているかどうか、わからない人間ざんすよ」
イヤミは背を向けた。
「君たちの謝罪は、もう相手に届かないかもしれない。それを受け入れることから、始めるしかないざんす」
そう言い残し、イヤミは歩き去った。
一度も、振り返らなかった。
商店街のアスファルトに、六つ子は額をつけたまま、誰も立ち上がれなかった。
謝罪すべき相手がいない。
その事実が、反省そのものを宙吊りにしていた。
「……じゃあ、俺たちは、どうすればいいんだよ」
おそ松が地面に向かって呟いた。
返事はなかった。
商店街には、夕方の風だけが吹いている。
―――
日が落ちてからも、六つ子は解散できずにいた。
誰かが「帰ろう」と言えば終わる沈黙を、誰も終わらせられなかった。
マスヤのシャッターの前で、六人は並んで立ち尽くしている。
街灯が点き始め、オレンジ色の光が、彼らの長い影をアスファルトに落としていた。
トド松がしゃがみ込み、シャッターの下端に触れた。
「ありがとうございました」の文字を、指先でゆっくりと――なぞる。
打算も、戦略も、何もない動作だった。
その姿を見たおそ松の中で、何かが静かに変化し始めた。
(謝れる場所に行けばいい)
(行けない相手がいるなら――行ける相手から、始めればいい)
思考ではなかった。
何十時間もかけて、どん底の底で溜まったものが、ほんの少しだけ、方向を変えた結果だった。
おそ松はまだ、兄弟に何も言わない。言える状態でもなかった。
でも――その目が、初めて地面ではなく、シャッターを見ていた。過去に自分たちがしたことを、正面から見続けていた。
夜の商店街に、六つの影が長く伸びている。
風が吹く。
貼り紙の端が、かさかさと揺れた。
六つ子は、言葉なく立ち続けている。誰も、その場を離れられなかった。
遠くで、チビ太の屋台の明かりが、アカツキ川沿いに消えかかっている。
今日も終わる。
でも――明日も、イヤミは来る。
その事実だけが、暗がりの中で、重く、冷たく、彼らの胸にのしかかっていた。Noveliaとは?
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