悪役令嬢、今日も空回り中
ある普通の朝、高校生の如月陽菜は目を覚ますと、乙女ゲーム『ロゼリア:王子たちの恋歌』の悪役令嬢、ヴァネッサ・ド・クロワールとして転生していた。
彼女は結末を知っている。ヴァネッサはヒロインの邪魔をし、みんなの敵になり、最も屈辱的な形で社交界から追放される。陽菜が思い描いていた人生計画とはまったく違う。
「絶対にそんなことはさせない。」
彼女の作戦はシンプル。脚本にあるすべての「悪役令嬢の行動」を避けること。簡単そうに見えるけど…
大間違い。見事に、笑えるほどに間違っている。
陽菜が冷たく振る舞おうとしたり、トラブルを避けようとするたびに、逆の結果を招いてしまう。ヒロインのカノンに意地悪しようとしたら、落ちてきた本棚から彼女を救い、一瞬で慕われることに。第一王子アルフォンスを無視しようとしたら、緊張で固まってしまい、その慌てた顔に彼が惚れてしまう。天才魔法使いレオンの呪文の欠点をうっかり指摘(ゲーム知識のおかげで)、彼はハートを抱えて彼女の後をついて回る。そしてヒロインを守るはずの騎士クロードは、このヴァネッサこそ本物だと決めつけて離れない。
悪役令嬢の運命から逃れようとすれ
悪役令嬢、今日も空回り中 - 目覚めたら悪役令嬢でした——え、待って、これ詰んでない?
小さな手が、白い手を握っていた。
ベッドのシーツは清潔で、部屋には薔薇の香りが漂っていた。でも、それが余計に怖かった。
幼いヴァネッサは、母の手の冷たさに気づいていた。
「ヴァネッサ……強くね」
かすかな声だった。唇がわずかに動いて、それで全部終わった。
静寂。
ヴァネッサは声を上げなかった。泣かなかった。ただ、その手を握ったまま、じっとしていた。
廊下に足音が聞こえた。父、ジルベール・ド・クロワールだ。ヴァネッサは顔を上げる。来てくれる、と思った。でも父の足音は扉の前を通り過ぎて、遠ざかっていった。政務の間の方向へ。
使用人の声が遠くから聞こえた。
「まあ、かわいそうに」
誰も来なかった。誰も抱きしめてくれなかった。
冷たい廊下の床に一人座り込んで、ヴァネッサは涙を拭った。
(泣かない。弱みを見せない。私は強くある)
その瞬間から、何かが変わった。笑顔が消えた。代わりに、完璧な仮面が張り付いた。
その記憶が、霧みたいに散っていく。
*
「……んん」
目が覚めた。
知らない天井だった。
白い天蓋、ふかふかの枕、体の上にかかった重いシーツ。ちょっと待って、自分の部屋こんな豪華だったっけ?
如月陽菜はベッドの上で体を起こした。
部屋が広い。めちゃくちゃ広い。壁には絵画、窓には金色のカーテン、机の上には銀の燭台。ドレスの裾が床に広がっていて、それがまた異様に重い。
(……え?)
壁の鏡に目が行った。
そこに映っていたのは、銀色の髪をした美少女だった。碧色の瞳、整った目鼻立ち、貴族の令嬢そのものの雰囲気。誰これ、すごく綺麗じゃん、と一瞬思って——
(……って私じゃん!!)
内心で絶叫した。顔は動かさなかった。なぜか本能的に平静を装った。
鏡の中の美少女が、ポカンとした顔をしていた。それが自分の顔だと気づくのに、三秒かかった。
(落ち着け。落ち着くんだ、如月陽菜。状況を整理しろ)
脳みそをフル回転させた。
陽菜が去年一年間やり込んだ乙女ゲームがある。タイトルは「ロゼリア☆プリンスたちの恋歌」。全5章構成、攻略対象は四名。第一王子のアルフォンス、天才魔法使いのレオン、騎士のクロード、それに謎の隠しルートキャラ。ゲームのヒロインは男爵家出身の奨学生カノン。そして——
悪役令嬢の名前は、ヴァネッサ・ド・クロワール。
(あーーー)
すべてがつながった。
ここはゲームの世界だ。この銀髪は、ヴァネッサのものだ。つまり今、如月陽菜はゲームの悪役令嬢に転生している。
(待って待って待って。これ詰んでない?)
ゲームの結末は知っている。全ルートクリア済みだ。どのルートを辿っても、最終章の舞踏会でヴァネッサはみんなに糾弾されて、社交界を永久追放される。処刑はない。でも、貴族としての権利を全部剥奪されて、領地からも叩き出される。社会的な死、というやつだ。
(……嫌すぎる)
でも、すぐに気づいた。
今日が新学期の初日なら——ゲームの開始直前のタイミングなら——まだ何もしていない。ヴァネッサとしての悪行は何一つやっていない。
(つまり、まだ間に合う!)
陽菜は布団の中でガッツポーズをした。誰にも見えない場所で、全力で。
作戦は簡単だ。ゲームでヴァネッサがやる悪役行動を全部避ければいい。カノンには近づかない。攻略対象は全力で避ける。おとなしく学院生活を送る。完璧だ。
(よし。できる。やれる。絶対にやれる)
扉がノックされた。
「ヴァネッサさま、お支度のお時間です」
澄んだ声だった。扉を開けて入ってきたのは、小柄な侍女だった。明るい栗色の髪をきっちりと後ろでまとめて、白いエプロンを身に着けている。マリー、という名前がするっと脳裏に浮かんだ。ゲームにも登場するモブキャラだ。
「はい、おはよう」
思ったより自然な声が出た。
マリーが一瞬、目を丸くした。でもすぐに微笑んで、「おはようございます」と深くお辞儀をした。
着付けが始まった。
(……なに、この工程の多さ)
まずシュミーズ、次にコルセット、その上からペチコート、さらにドレス本体、仕上げに帯紐を締めて、袖のレースを整えて——陽菜は内心でぼやきながら、マリーの手の動きを目で追った。
「コルセット、もう少しきつくしましょうか?」
「いえ、これで十分です」
(絶対嫌だ。苦しい。なんで昔の人はこんな苦しい服を着てたの)
鏡の前に立った。
銀色の髪が肩口で揺れている。碧色の瞳が陽菜を見返している。ドレスの色は深い紺で、金糸の刺繍が入っていた。どう見ても、高位の貴族令嬢だ。
(これがヴァネッサの顔か……)
クロワール公爵家、というのがどれほどすごい家なのか、陽菜はゲームで学んでいた。プリメーラ王国の貴族は人口の約三パーセントで、その頂点に立つのが五大公爵家だ。クロワール家はその筆頭格。王国建国から四百年続く名門中の名門で、年間収入は王国貴族の中でも三位だという。
そして社交界追放というのは、その全てを失うということだ。
(……笑えない。全然笑えない)
馬車に乗り込んで、窓の外を見た。
石畳の道を馬車が進んでいく。石灰岩でできた白い建物が並んでいる。貴族の馬車と平民の人混みが入り乱れている。王都ブランシェールは「白き輝きの都」という意味で、確かに全部白くて綺麗だった。
でも綺麗さより先に、匂いが来た。
(え、ちゃんと匂いがする。焼き栗……?)
屋台のおばあさんが焼き栗を売っていた。その煙が石畳の通りにふわっと漂っている。遠くにはリュミエール河の光る水面が見えた。ゲームのグラフィックより、ずっとリアルだ。
(本当に来ちゃったんだな、ここに)
足を組もうとして、ドレスの裾が邪魔で、二回失敗した。三回目でなんとか形にして、陽菜はそっとため息をついた。
*
馬車が丘の上で止まった。
王立学院リセ・ド・ロゼリア。王都の北東の丘に建つ、薔薇に囲まれた石造りの校舎群。正門をくぐった瞬間、陽菜の頭の中でゲームのオープニング映像が再生された。
(ゲームのOP通りだ……!)
本館の入口には、色鮮やかなステンドグラスがはまっている。誓いの薔薇窓、という名前で、ゲームでも重要な場所として登場した。緑の芝生には白い薔薇が咲き誇っていて、中庭——ジャルダン・ブランと呼ばれる場所——には白いベンチが並んでいる。
(ゲーム開始直前のタイミングだ。つまり今日、カノンがここに来る!)
背後に気配を感じた。
振り返ると、令嬢たちが三人、ヴァネッサの後ろに並んで立っていた。ゲームで「取り巻き」として登場するキャラたちだ。原作ではこの令嬢たちがカノンをいじめる側に回る。
(やばい。この子たちに変なことさせちゃダメだ)
どうするか一秒で考えて、陽菜はぎこちなく笑った。
「みなさん、今日はよろしく……」
令嬢たちの動きが止まった。
「え」
「ヴァネッサさまが……?」
「なぜそのような……?」
三人が小声で囁き合っている。困惑しているのが丸わかりだった。そりゃそうだ。ゲームのヴァネッサは令嬢たちに命令する側で、笑いかける側ではない。
(しまった。変だったかな。でもまあ、いじめさえしなければ……)
廊下を歩き始めた。靴のヒールが石畳を打つ音がする。窓の外に中庭が見えた。白い薔薇が朝日に輝いている。
そのとき、前の方からパタパタと足音が聞こえた。
小さくて、軽くて、ちょっと急ぎすぎの足音。
(……見覚えがある)
茶色い髪が揺れながら近づいてくる。身長は陽菜より少し低い。丸い目が前をしっかり見ていて、でも少し足元が不安定で——
(あ、カノンだ)
思った瞬間、カノンが段差につまずいた。
前のめりに体が傾いた。重心が崩れた。このまま倒れる。
陽菜の体が先に動いた。
「あっ!」
手を伸ばして、カノンの腕をがっちり掴んだ。バランスが戻った。倒れなかった。
一瞬の静寂。
(やってしまった)
頭の中で警報が鳴り響いている。カノンを助けちゃダメだった。近づいちゃダメだった。そもそも「あっ」なんて言っちゃダメだった。
カノンが顔を上げた。
丸い目が陽菜を見ている。ぱちぱちと瞬きをして、それから目をキラキラさせた。
「あなたが……クロワール公爵家のヴァネッサさま?」
「……そうよ」
「なんて、なんてお優しい方……!」
(ちがう! 助けちゃダメだったのに! これ絶対好感度上がるやつ!! 破滅フラグの第一歩じゃないですか!!!)
陽菜は内心で絶叫しながら、表情を動かさなかった。ヴァネッサの顔のまま、完璧に無表情を保った。
「……転ばないよう、注意しなさい」
冷たく言い放って、その場を去った。
背後からカノンの声が聞こえた。
「やっぱりお優しい方だわ……!」
(ちがう! 全然ちがう! なんでそうなるの!!!)
廊下の角を曲がってから、陽菜は小さく頭を抱えた。令嬢たちがぎょっとした顔で見ていたけど、それどころじゃなかった。
*
放課後。
クロワール公爵邸の自室に帰って、陽菜はベッドに倒れ込んだ。
(カノンに慕われてしまった……)
天井を見上げる。金細工の飾りが光を反射している。
今日の行動を振り返った。ゲームのヴァネッサはカノンを敵視して、いじめて、攻略対象たちの前で醜い姿を晒す。それが破滅エンドへの道筋だ。でも陽菜は逆のことをしてしまった。助けた。優しくしてしまった。
(でも、直接いじめなければ破滅エンドには繋がらないはず)
作戦を修正した。これからはカノンを無視する。攻略対象にも絶対近づかない。絶対に。
体を起こして、机の前に座った。明日の講義の準備をしようと鞄を開けて——
封筒が目に入った。
(……なにこれ)
見慣れない封筒だった。クロワール家の封蝋じゃない。差出人の名前もない。ただ白い封筒が、机の上に置かれていた。
(こんなもの、ゲームに出てきたっけ……?)
陽菜は全ルートをクリアしている。カノンのルートも、アルフォンスのルートも、レオンのルートも、クロードのルートも、隠しルートも全部。だからゲームに登場するアイテムはほぼ把握している。
この封筒は、なかった。
(……開けてみるか)
手が少し緊張した。封を開けると、中から一枚の紙が出てきた。
丁寧な筆跡で、たった一行だけ書かれていた。
——悪役令嬢のあなたには、まだ知らない役割がある。
陽菜は動かなかった。
部屋の空気が、少し変わった気がした。
(……どういうこと?)
手紙を持ったまま、陽菜はじっとその一行を見つめた。差出人はいない。何のために送ってきたのか、わからない。「役割」って何だ。破滅エンドとは別の何かがある、ということ?
(誰がこれを……ゲームにはなかった展開が、もう始まってる……?)
手紙を握りしめる指が、わずかに震えた。
窓の外を見ると、夕陽がブランシェールの白い石造りの街を金色に染め始めていた。リュミエール河の水面がきらきらと光っている。どこかの屋台から、焼き栗の甘い匂いが風に乗って流れてきた。
きれいな夕暮れだった。
でも陽菜は、その手紙をしばらく下に置けなかった。