悪役令嬢、今日も空回り中
ある普通の朝、高校生の如月陽菜は目を覚ますと、乙女ゲーム『ロゼリア:王子たちの恋歌』の悪役令嬢、ヴァネッサ・ド・クロワールとして転生していた。
彼女は結末を知っている。ヴァネッサはヒロインの邪魔をし、みんなの敵になり、最も屈辱的な形で社交界から追放される。陽菜が思い描いていた人生計画とはまったく違う。
「絶対にそんなことはさせない。」
彼女の作戦はシンプル。脚本にあるすべての「悪役令嬢の行動」を避けること。簡単そうに見えるけど…
大間違い。見事に、笑えるほどに間違っている。
陽菜が冷たく振る舞おうとしたり、トラブルを避けようとするたびに、逆の結果を招いてしまう。ヒロインのカノンに意地悪しようとしたら、落ちてきた本棚から彼女を救い、一瞬で慕われることに。第一王子アルフォンスを無視しようとしたら、緊張で固まってしまい、その慌てた顔に彼が惚れてしまう。天才魔法使いレオンの呪文の欠点をうっかり指摘(ゲーム知識のおかげで)、彼はハートを抱えて彼女の後をついて回る。そしてヒロインを守るはずの騎士クロードは、このヴァネッサこそ本物だと決めつけて離れない。
悪役令嬢の運命から逃れようとすれ
悪役令嬢、今日も空回り中 - 薔薇園の夜、悪役令嬢は三人同時に告白された件——え、これどうしろと?
星灯祭の夜——プリメーラ王国最大の舞踏会の幕が、ついて上がった。
王立学院リセ・ド・ロゼリアの中庭ジャルダン・ブランは、冬だというのに満開の白薔薇で埋め尽くされている。魔法で温度調整された温室薔薇を中庭に搬入するのは、星灯祭恒例の演出だと聞いた。甘い香りが夜風に乗って漂い、魔法の灯りが花びらの影を地面に踊らせていた。
陽菜は、その中に立っていた。
クロワール公爵家のドレスは濃紺のシルクで、金の刺繍が月光を弾く。ヴァネッサの体にはよく似合っている。でも正直、足元がちょっとおかしかった。ヒールが石畳の隙間に三回ほど刺さって、そのたびに「わっ」と心の中で叫んでいた。
(ゲームでこの舞台を見た時は綺麗だなって思ったけど……実際に立つと足元が死ぬほど心配)
会場には貴族の子弟が百人以上。ドレスと燕尾服が入り乱れ、どこからかクラヴサンの音楽が流れている。陽菜はゆっくりと息を整えた。
レオンの分析結果は、ドレスの内ポケットに畳んで入れてある。カノンが集めた証言リストも。クロードの件も、アルフォンスの件も——全部、手の届くところにある。
(来る。絶対来る。ゲームと同じなら、もう来る頃だ)
その瞬間、会場の端に設けられた小さな演壇に、一人の少女が上がった。
マリアンヌだった。
薄桃色のドレス。華やかな巻き毛。にっこりとした微笑み——その目が、全く笑っていない。陽菜は見た瞬間、全身の神経がぴんと張るのを感じた。
「[serious]みなさま、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
清らかな声が、中庭に響いた。音楽が静まる。人々の視線が演壇に集まる。
「[cold]ヴァネッサ・ド・クロワール様について、皆さまにお伝えしなければならないことがございます」
ざわり、と会場が揺れた。
視線が陽菜に向く。十人、二十人、やがて会場の全員が陽菜を見ている。
マリアンヌは演壇の上で、よく通る声で語り始めた。ヒロインを影でいじめていたこと。王子殿下を誘惑しようとしていたこと。偽の親切で人々を騙してきたこと——ゲームで読んだシナリオと、ほとんど同じ言葉だった。
(来た。ついに来た)
陽菜は動かなかった。
ヴァネッサの顔のまま、完璧な無表情で立っていた。取り巻きたちの冷たい視線も、隣にいた令嬢がそっと離れていく気配も、全部感じた。感じながら、一歩も退かなかった。
第一話からここまで積み上げてきたものが、今夜、全部使われる。そう思ったら、むしろ心が落ち着いた。
マリアンヌの声が高らかに締めくくられようとした、その瞬間。
「[serious]では、事実を確認しましょう」
静かな声だった。でも会場に通った。
マリアンヌの笑顔が、一瞬だけ固まった。
陽菜はゆっくりと前に進んだ。ヒールが石畳に当たる音がやけにはっきり聞こえた。内心で(今ここで転んだら全部終わる、転ぶな、絶対転ぶな)と念じながら、表情は完璧に涼しいまま演壇の前に立つ。
「まず一つ目」
その時——本の山を両腕で抱えたレオンが、会場の端から颯爽と現れた。
藤色と白のツートーンの髪が揺れている。オッドアイが真剣に光っている。そして両手いっぱいの参考文献と、分析機材のカバンを肩から下げていた。
(本の量……多くない!?)
「封蝋の成分分析を行った」
レオンは淡々と言いながら、テーブルの上に本を積み上げ始めた。次々と積み上げられる本の塔。周囲の貴族令嬢たちが目を丸くしている。
「クロワール領フォルティーヌ産の蜜蝋と、問題の手紙に使われた封蝋の成分比率は一致しない。一致したのはリヴィエール侯爵領内のアンブル地区産の蜜蝋だ。蜜蝋の成分比率は養蜂地域の植生によって変化し、具体的にはフラボノイド配合比と花粉付着率の差異が……」
(レオンさん、説明が長い!! 要点だけで!!)
陽菜が内心で叫んでいると、レオンが眼鏡を押し上げながら続けた。
「……つまり偽造だ」
(最初からそれだけ言えばよかった!!!!)
ざわめきが会場に広がった。
続けて「二つ目」と陽菜が言うより先に、会場の反対側の扉が開いた。
カノンだった。
男爵家出身の平民奨学生、天然系の表情で——でも今夜は真剣な顔で、五人の生徒を連れていた。陽菜が一週間前から顔も名前も知っていた、偽証させられていた子たちだ。
「[gentle]みなさん、本当のことを話してくれますよね?」
カノンは一人ずつに確認するように聞いて回った。その天然な明るさのせいで、場の空気がなぜかほのぼのした。偽証させられた生徒の一人がぽそっと「カノン先輩のお願いならしょうがないな……」と言っているのが陽菜にも聞こえた。
(カノンの人徳すごい。なんか場の空気が舞踏会じゃなくなってる)
一人ずつ、マリアンヌから脅されて偽証したことを認める声が続いた。
マリアンヌの顔から、徐々に色が抜けていった。
「三つ目」
クロードが前に出た。騎士団の正装のまま、一歩だけ。
「[serious]命令違反の記録と引き換えに——この方の誠実さを、騎士として保証します」
たった一言だった。でも会場が静まり返った。
騎士団の命令違反記録。それが何を意味するか、この場にいる全員がわかっている。キャリアに傷がつくかもしれない覚悟で、ここに立っているということだ。
陽菜は前を向いたまま、奥歯を少しだけ噛んだ。
(クロード……)
「[cold]そして最後に」
アルフォンスの声が、会場の奥から響いた。
銀色のストレートロングヘア。深い瑠璃色の瞳。右耳の閃光のピアスが、魔法の灯りを弾いている。群衆が自然と左右に分かれ、道ができた。
「リヴィエール侯爵による学院備品費の横領——その取引記録は、本日付で貴族院に提出済みだ」
沈黙が会場を覆った。
マリアンヌが震えた。
「……お父様が……」
小さな声だった。勝ち誇っていた笑顔が崩れて、どんどん崩れて——演壇の上で、膝から崩れるように座り込んだ。涙が頬を伝う。取り巻きたちが慌てて駆け寄って、マリアンヌを抱えながら会場の扉の方へと連れていった。
扉が閉まった。
数秒の沈黙の後——会場がざわめき始めた。
今度は別の種類のざわめきだった。「すごい」「知らなかった」「ヴァネッサさまが……」という声が、あちこちから聞こえてきた。
陽菜は、その場に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
(やった……本当に、やった)
膝の内側が、少しだけ震えていた。でも足は、地面についていた。
*
騒動が落ち着いたのは、それから三十分ほど後だった。
貴族令嬢たちが代わる代わる陽菜に話しかけてくる時間が続いて、陽菜は「ありがとうございます」「お気遣いなく」「ええ、大丈夫ですわ」をループし続けた。
(貴族式の応対がこんなに体力を使うとは……ゲームには体力ゲージがなかった……)
人混みが少しだけ薄くなった隙に、陽菜はそっと中庭の端のバルコニーに出た。
冬の夜の空気が頬に触れた。甘い薔薇の香りが満ちている。白薔薇がたくさん咲いていて、月光の中でぼんやりと光って見えた。石のテラスから見える王都ブランシェールの灯りが、遠くまで続いていた。
「……はあ」
誰もいない。ようやく一人になれた。
陽菜が欄干に手をついて夜空を見上げた時——静かな足音が近づいてきた。
アルフォンスだった。
銀髪が夜風になびいている。深い瑠璃色の目が、まっすぐ陽菜を見ていた。
「[gentle]全て、終わったな」
陽菜は「ええ、なんとか」と言おうとした。でも、アルフォンスが続けた言葉で、それどころじゃなくなった。
「[gentle]……ヴァネッサ。いや——きみは最初から、ヴァネッサとは違っていた。僕が惹かれたのは、きみ自身だ」
胸の奥が、ドクンと大きく脈打った。
(えっ)
(えっ、今のって)
声が出ない。何か言わなきゃと思うのに言葉が見つからない。アルフォンスの瑠璃色の目が、ちゃんとこちらを見ている——その時。
「……理論上の話だけど」
反対側から声がした。
レオンが本を一冊抱えたまま、バルコニーの入口に立っていた。眼鏡を押し上げながら、少し斜めに陽菜を見ている。
「[serious]僕の理論を本当に理解できるのは、きみだけだ。それは……たぶん好きってことだと思う。計算上は」
(計算上ってなに!?!?)
陽菜が内心で叫んでいると、今度は別の足音がした。
クロードが一歩前に出て、静かに膝を折った。騎士の礼だ。
「[serious]俺は……あなたの剣であり続けたい。それが、俺の本心です」
沈黙。
三人が、陽菜を見ていた。
(ちょっと待って。ちょっと待って待って待って)
(一人でも処理が追いつかないのに三人同時って何!?!?)
陽菜の顔に、熱が上がっていった。頬が燃えるように熱い。言葉が見つからない。口が動かない。三方向から視線を受けて、脳みそが完全にフリーズした。
少し離れたバルコニーの扉口で、カノンがにこにこしながらこちらを見ていた。
「[gentle]……みなさん、すごいですね」
(カノンだけが平和な顔してるのなんで!?)
「え、あの、ちょ」
声だけ出て、続かない。三人の視線。薔薇の香り。月明かり。全部が一気に押し寄せてきて、陽菜は両手で自分の頬を押さえた。
「[scared]……考えさせてください」
それだけ言うのが、精一杯だった。
帰りの馬車の中、陽菜は暗い窓の外を見ながらずっと考えていた。
三人のうちで——どの瞬間が一番、胸の奥を打ったか。
その答えだけは、自分だけがわかっていた。
*
女子寮パヴィヨン・リスの自室に戻ったのは、夜も深まった頃だった。
扉を閉めて、靴を脱いで、ベッドの端に腰を下ろす。鏡の前に座ると、栗色の波打つロングヘアと金色の瞳が映っている。ヴァネッサの顔。でも今は、自分の顔にも思えた。
頭の中がぐるぐるしていた。マリアンヌの糾弾を乗り越えた安堵と、三人への返事ができなかった混乱と、この世界の人たちが本物だという確信が全部混ざっている。
その時。
胸の奥から、かすかな声が届いた。
ヴァネッサの声だった。
——あなたは、うまくやった。わたくしには……できなかったことを。
声の質が、前と違った。夢の中で泣いていたあの孤独な少女の声は、今夜は穏やかで、静かだった。
陽菜は鏡に向かって話しかけた。声に出して。
「[gentle]ヴァネッサ、あなたも一緒に生きてよ。まだ終わってないから」
返事はなかった。でも胸の奥が、じわりと温かくなった。
それで十分だった。
*
翌朝。
枕の下に何かがある、と気づいたのは、窓の外が白く明るくなった頃だった。
白い封筒だった。封はされていない。手が、少し震えた。
中の紙を開く。見覚えのある筆跡。前の三通と同じ字体、同じ紙質。
——よくやった。でもこれは序章に過ぎない。五大公爵家の秘密、ヴァネッサの母の本当の死因、そしてこの世界がゲームである理由——全てはまだ、あなたの知らない物語の中にある。
陽菜は手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
(ヴァネッサのお母さんの死因が……本当の死因じゃない!? ゲームである理由って何!?)
ツッコミと恐怖が同時に来て、頭がうまく動かなかった。でも——次第に、落ち着いてきた。
窓を開ける。冬の朝の空気が、部屋の中に入ってきた。白く輝く王都ブランシェールの朝が広がっている。リュミエール河の水面が、遠くで光っていた。
手紙を引き出しの奥の、前の三通と同じ場所にしまった。
破滅エンドは回避した。三人への返事はまだしてない。謎の手紙の差出人もわからない。ヴァネッサのお母さんのことも、五大公爵家の秘密も——何もわかってない。
やることが山積みだ。
でも、自分の足で立てている。
「[excited]よし」
声に出した。ちゃんと声に出して。
「あたしは——この世界で、自分の気持ちに正直に生きる」
朝の光の中で、第一章が静かに幕を閉じた。