悪役令嬢、今日も空回り中
ある普通の朝、高校生の如月陽菜は目を覚ますと、乙女ゲーム『ロゼリア:王子たちの恋歌』の悪役令嬢、ヴァネッサ・ド・クロワールとして転生していた。
彼女は結末を知っている。ヴァネッサはヒロインの邪魔をし、みんなの敵になり、最も屈辱的な形で社交界から追放される。陽菜が思い描いていた人生計画とはまったく違う。
「絶対にそんなことはさせない。」
彼女の作戦はシンプル。脚本にあるすべての「悪役令嬢の行動」を避けること。簡単そうに見えるけど…
大間違い。見事に、笑えるほどに間違っている。
陽菜が冷たく振る舞おうとしたり、トラブルを避けようとするたびに、逆の結果を招いてしまう。ヒロインのカノンに意地悪しようとしたら、落ちてきた本棚から彼女を救い、一瞬で慕われることに。第一王子アルフォンスを無視しようとしたら、緊張で固まってしまい、その慌てた顔に彼が惚れてしまう。天才魔法使いレオンの呪文の欠点をうっかり指摘(ゲーム知識のおかげで)、彼はハートを抱えて彼女の後をついて回る。そしてヒロインを守るはずの騎士クロードは、このヴァネッサこそ本物だと決めつけて離れない。
悪役令嬢の運命から逃れようとすれ
悪役令嬢、今日も空回り中 - 図書館の要塞と挟み撃ち恋愛修羅場、そして夢の中の涙
昨日、マリアンヌが廊下を歩く陽菜の背中に向けて呟いた言葉が、まだ頭の中でぐるぐると回っている。
——あの方、最近ヴァネッサさまのフリをしているだけで、本当は別人なんじゃないかしら。
(偶然だ。絶対に偶然だ。でも……)
朝の登院時、馬車の窓越しに王立学院リセ・ド・ロゼリアの白い尖塔が見えてきた頃、陽菜は鞄の中に手を突っ込んで魔法理論のノートを探した。
——ない。
全部ひっくり返した。やっぱりない。
(昨日、確かに入れた。入れた、よね? 入れたはずだよね??)
馬車が学院の門をくぐった時、陽菜の胸に嫌な予感がじわりと広がっていた。
*
午前の魔法理論の講義が始まって十五分。陽菜は自分の配布資料を三回見直して、ようやく確信した。
おかしい。
プリズマ——体内に宿る魔力の源——の共鳴についての記述が、去年の間違いだらけの旧版と同じ内容になっている。ゲームのレオンルートで何度も読み込んだから覚えてる。この位相変換の公式、分母と分子が逆だ。これで授業を受けたら試験で全問ミスする。
(でも訂正したら目立つ。目立ちたくない。石になるって誓ったのに……)
教授が「では問題を解いてみましょう」と言った瞬間、隣の席から紙がするりと滑り込んできた。見ると、陽菜の資料の公式に丁寧に赤線が引いてあって、正しい式が書き添えてある。
差出人なし。でも筆跡から見て、隣の地味な令嬢ではない。
(誰……?)
頭を上げた時、廊下の窓ガラス越しにマリアンヌが歩いているのが見えた。こちらに気づいて、ちらりと視線を向ける。にっこり笑う。
その笑顔が、ゾッとするほど綺麗だった。
*
午後、陽菜は別件で大図書館ビブリオテークに向かった。中庭の白薔薇の横を抜けて、石造りの重い扉を押し開ける。司書のエルザさんが入口に立っていた。五十代の細身の女性で、いつも眼鏡の奥に鋭い目をしている。
「[gentle]三階の東端通路はいつも通り使えますか?」
「[serious]……今日は少し状況が変わっています」
エルザが微妙な表情を作って、上を指さした。
三階へ上がって、東端に向かって歩いた陽菜の足が止まった。
通路が……なくなっていた。
壁になっていた。
正確には、床から天井近くまで本を積み上げた壁が、通路を完全に塞いでいた。古今の魔法理論書、羊皮紙の束、見るからに重そうな石板文書まで、几帳面にびっしりと積み上げられている。
「[surprised]え、何これ」
積み上げの隙間から、すっと顔が出た。
藤色と白のツートーンの短い髪。左右で色が違う目——左が銀色で右が金色。オッドアイの青年が、感情のまったくない顔でこちらを見ていた。左耳には細い魔法符のイヤリング、両手の指には魔法リングが何個も光っている。
「[cold]ここは僕の研究エリアだ。通るな」
(知らんがな!! ここ公共の図書館なんですけど!?)
陽菜は内心で盛大にツッコみながら、「すみません、通るだけなので」と言い掛けて——目が止まった。
本の山の、一番上の一冊。背表紙に書いてある題名。
『古代六芒陣の位相変換理論——復元と検証』
ゲームのレオンルートで、何十回も見た本の名前だ。
そしてレオンが手元に広げているノートの、一番上のページに書かれた数式を、陽菜は遠目に見てしまった。
(あれ、あの式……)
口が動いた。止まらなかった。
「[serious]あの、5ページ目の位相変換式、連立方程式の第三項が間違ってませんか」
本の壁の向こうが、静止した。
完全な沈黙。一秒。二秒。三秒。
ゆっくりと顔が上がった。オッドアイの奥に、何かに火がついたような光が灯る。
「[surprised]……きみ、この理論のどこが間違っているか、本当にわかるのか?」
(言った!! やらかした!! また口が暴走した!!)
陽菜が「あ、いえ、その」と言う間もなく、本の壁がガラガラと崩れ始めた。レオンが壁の内側から本を抱えて通路に出てきて、くるりと椅子を引っ張り出して床に置いた。
「[serious]座れ。詳しく話せ」
「で、でも用事が——」
「この用事の方が重要だ」
断言された。
気づいたら陽菜は座っていた。レオンは次々とノートを広げて、「ここもわかるか」「これは」「じゃあこの部分の意味は」と矢継ぎ早に問いかけてくる。ゲーム知識が勝手に答えを出す。陽菜の口が止まらない。
一時間後。
「[sad]……なんで私、図書館に監禁されてるんだろう」
天井を仰いでぼそりと言うと、レオンがペンを走らせながら、ちらりとこちらを見た。その顔が——微妙に、ほんの少しだけ——楽しそうだった。
ゲームの中でほとんど表情を変えないキャラクターが、今、確かに嬉しそうにしていた。
(……あ。このキャラ、本物だ)
陽菜は変な感覚になりながら、苦笑いした。
*
翌日の昼食時。
大食堂に入った陽菜は、カノンと一緒に窓際のテーブルについた。カノンは男爵家出身の編入生で、天然で話しやすい。ホッとできる存在だ。
「[gentle]今日の魚料理、おいしそうですね!」
カノンが嬉しそうにトレーを並べているのを見て、陽菜も少し気が緩んだ。
その瞬間、隣の椅子が音を立てた。
「[serious]昨日の続き。別解が出た。見てくれ」
山盛りの本と食事トレーを両手に抱えたレオンが、陽菜の隣に当然のように座った。
(え!! 食堂まで来るの!?)
「ちょ、レオンさん——」
陽菜が言い切る前に、反対側の椅子が静かに引かれた。
銀色のストレートヘアが陽光を弾く。深い瑠璃色の瞳が、一瞬だけレオンの方を見て——何も言わず、アルフォンスが反対側に座った。
(え)
(ちょっと待って)
(左にレオン。右にアルフォンス殿下。これ)
(これ修羅場ってやつでは!?)
陽菜の顔が少し引きつった。
レオンが研究ノートを広げて「位相変換の第七式なんだが」と話しかけてくる。アルフォンスが静かに食事を始めながら「昨日のレポート、独自解法が含まれていると教授が言っていた。どこで学んだの?」と問いかけてくる。
両方同時だ。
陽菜は右を向いてアルフォンスに答えようとして、左からレオンに「聞いてるか」と言われて左を向いて、また右からアルフォンスが「続きは?」と来て右を向いて——首が振り子時計みたいになっていた。
「[laughing]みなさん、仲良しですね!」
カノンが対面で満面の笑顔で言った。
(仲良しじゃない!! 重力で挟まれてるだけ!!)
陽菜は笑えない顔で内心で叫んだ。
その時、レオンがアルフォンスの方をちらりと見た。アルフォンスがレオンの方をちらりと見た。二人の視線が、陽菜の上を横切って交差した。
アルフォンスの眉が——ほんの、0.1ミリほど——動いた。
(え。今この人、ちょっとイヤそうな顔した。気のせい? 気のせいであってくれ!!)
陽菜の胸の奥で何かが小さくドクンと鳴った。それが何なのかは、考えないことにした。
*
夜。
女子寮パヴィヨン・リスの自室で、陽菜は机の上にゲーム進行メモを広げていた。破滅エンドへのルートを細かく書き直して、回避策を考えていた。そのうちに頭が重くなって——気づいたら机に突っ伏していた。
夢の中の景色は、見覚えがあった。
白い廊下。クロワール公爵邸の、あの長い廊下。
幼い女の子が、扉の前に立っていた。白いドレス。ふわふわした巻き毛。まだ六歳か七歳くらい。じっと扉を見つめている。
扉が開いて、医師が出てきた。首を振る。
父ジルベールが一言——「そうか」と言って、立ち去った。
ただそれだけ。振り返りもしない。廊下が静かになる。
幼いヴァネッサは一人で扉を押し開けて、母の部屋に入っていった。白いベッドに横たわる白い顔。ヴァネッサは母の手に自分の小さな手を重ねた。声は出ていない。ただ震えている。
廊下の向こうから、使用人の声が聞こえる。「かわいそうに」。でも誰も、部屋に入ってこない。
陽菜は傍観者として見ていた。なのに、胸が苦しかった。
場面が変わった。
少し年を経たヴァネッサが、鏡の前に立っている。自分の顔を見ながら、微笑みを作っている。崩して、また作る。崩して、また作る。完璧な、仮面のような微笑みを、繰り返し練習している。
その時——声が聞こえた。
ヴァネッサの口が動いているわけじゃない。でも確かに聞こえる、幼い女の子の声で。
「わたくしは……ただ、誰かに愛されたかっただけなのに」
陽菜は夢の中で、立ちすくんだ。
その言葉が、胸の真ん中にまっすぐ刺さった。
目が覚めた時、頬に冷たいものが伝っていた。
陽菜は机の上のメモを見つめた。破滅エンド回避策。攻略ルート。ゲームの知識。全部そこに書いてある。
でも今は、それが全部遠く感じた。
ヴァネッサはゲームの悪役令嬢じゃない。寂しくて、怖くて、不器用なだけの女の子だ。傲慢な仮面は、誰にも入ってきてもらえなかった部屋を守るために作ったものだ。
マリアンヌの「別人なんじゃないか」という言葉が浮かんで、陽菜は静かに首を振った。
(あたしはヴァネッサと別人じゃない。同じ体で生きてる、もう一人の自分だ)
涙を袖で拭いて、メモを引き出しにしまった。
窓の外は静かな夜だった。
*
深夜、陽菜が眠っている間に誰かが動いていた。
翌朝。
廊下に出た陽菜の耳に騒ぎ声が届いた。寮長プリシラが困り顔で令嬢たちの輪の中に立っている。その前に、マリアンヌが笑顔で立っていた。
マリアンヌ——ヴァネッサの元取り巻き。陰のある笑い方をする、頭の回転が速い令嬢だ。その手に、紙が二枚ある。
「[cold]学院の皆さまに知っておいていただく必要がありますので」
「この写しは……すでに、一階の掲示板に貼り出してあります」
その言葉が終わった瞬間、陽菜の思考が止まった。
渡された写しを見る。一枚目——アルフォンス殿下への、熱烈な恋文。差出人はヴァネッサ・ド・クロワール。二枚目——カノンへの侮辱的な言葉が並ぶ日記の抜粋。
見覚えがない。字は似ているかもしれない。でも、書いた記憶がまったく、一文字もない。
(ゲームで——こういう展開があった)
(でもこんなに早く、こんなに直接くるとは……!!)
足元が崩れるような感覚があった。
陽菜は顔を上げた。マリアンヌが、あの完璧な微笑みで自分を見ていた。読めない目で。
朝の登院。正門をくぐった瞬間から、廊下ですれ違う全員の視線が変わっていた。冷たく、遠く、品定めするような目。ひそひそ声。
陽菜はヴァネッサの顔のまま、無表情を保った。一歩。また一歩。
胸の中でヴァネッサの声が聞こえた気がした——仮面を作る練習をしていた、あの幼い声が。
(わかった。あたしたちで、乗り越えよう)
陽菜は静かに、廊下を歩き続けた。